第3163号 29.08.28(月)
知は是れ心の本體にして、心は自然に知ることを會す。父を見れば自然に孝を知り、兄を見れば自然に弟を知り、孺子(じゅし)の井に入るを見れば、自然に惻隠を知る。此れ便(すなわ)ち是れ良知にして、外を求むるを假(か)らず。若し良知の発して、更に私意の障碍無ければ、即ち所謂其の惻隠の心を允たせば、仁勝(あ)げて用ふ可からざるなり。『伝習録』49(伝習録巻上)
「知は心の本体であって、心は自然に知覚することができる。父を見れば自然に孝行する気持ちを起し、兄を見れば自然に悌の行ないをすることを覚り、幼児が井戸に落ちようとするのを見れば、自然に惻隠の情を覚える、というように、本心に立てば自然にそうした気持ちにならざるを得ないのである。この自然の知のはたらきこそ良知であって、人が生まれなからに持ち、外部に求める必要のないものである。49
【コメント】知を心の本体と言い、それを良知とし、人間の本来もつ道徳性であり、直覚的に孝弟惻隠を覚えるものとするのは、王陽明の根本的な思想と言われており、一生を貫いていると言われている。しかし、ここに看る良知と、晩年の致良知説の良知との間には、内容的に段階の差異があって、まだ窮極のものとはなっていないとの説である。これらはいわゆる初期の思想といわれている。晩年に大成したものが、初期にこのような、殆ど完全な姿で現れていることは極めて興味深いとされている。
王陽明には若い頃から興味を持って、読んだり書き写したりしてきました。分けはわからなくともとっても楽しいです。くだらないギャンブルをするよりかその方が賢明だと私は思うのですが、如何でしょう。
さい帯血の不法使用とかで6人の人が昨日逮捕されました。空手道教室で私は子供たちちにワルをしてはならないと何時も話しています。
西郷隆盛の漢詩にある「利をみては全く循うなかれ」、金もうけに目がくらんではいけません、と西郷さんが教えています。「過ちを斉しゅうしては之を己にかい」、友が間違ったら、それは私がまちがったのだと自分が責任を負う、と西郷さんは漢詩の上で教えています。
こういったことは、幼少の時は判断が難しいでしょうが、良い言葉をつかう、相手より先に頭を下げる、相手に名誉を与えるなどの行為は、金銭が絡まないから、どしどし応用してもいいでしょう、とお話しています。何がいいといって、『南洲翁遺訓』を学ぶ、漢籍の世界を逍遥することほど楽しいことはないと思っています。
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『不動心』(第32回)
他人への思いで自分の余生を消耗してしまうな
公共には何の利益も無いのに他人のことをあれこれと思いめぐらして、残された人生をムダに過ごしてはいけない。誰が何をしているか、なぜそんなことをするのか、何を話して何を考え、何をもくろんでいるのか-----そんなことばかり考えていると、自分はこうするのだという確固とした方針が曖昧になり、他の仕事をする機会さえ失われてしまう。だから、根も葉もないでたらめな妄想、ことにせんさく好きの気性や意地の悪さから生じる妄想にのめりこまないようにしなければならない。
人から「今、何を考えているのですか」とたずねられたら、即座につつみ隠さず「こうだ」と返答できるようになりなさい。そうすれば、あなたの考えは率直で優しさにあふれ、社会的存在にふさわしいものだということ、みだらなことを考えて悦に入ったり、嫉妬や猜疑心や、考えただけでも赤面するようなことを心に抱く人間ではないと相手にわかってもらえる。
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「死に代えた『南洲翁遺訓』」(第108回)
ある日、菅は盆栽の手入れをしながら、いつにないしみじみした口調で、
「お前も貧乏でさぞ困っていることだろうが、士族の人たちの困窮しているさまを見るたびに、思いだすことがある。維新のはじめ大久保、大隈、伊藤らの人々が、みなわしに厚意を寄せてくれたことだ。もしそのときから、この人々と手を結んでいれば、いまごろ君たちは相当の官職について、衣食の心配などはしなくてもすんだことであろう。しかし、わしはひとり西郷先生の高潔な人となりを慕い、他の人には目もかさなかった。そのために君たちを今日のような苦境に追い込んでしまった。これはみなわしのせいだ。だが、このように貧乏に苦しんでも、西郷先生が教えられたように、堯舜孔子の道を信じてよく学ぶならば、濁富をなして憂え多いよりも、はるかに愉快なことではないか」
と弟子に語っています。
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菅先生のこの言葉は、至言だと思います。今日的には、人々は「利と名誉」を求めるために奔走しいるようです。その中の名誉はそこいらの人がわかってくれなくても、天がわかったくれればいいと私は思っています。
今朝のテレビ報道で、神戸市議の橋もと氏が辞職をすると紹介されました。一寸した金とイロに手を出したらしく、弁明に追われています。
この種の人は全国には多く存在するのでしょうか。来年の西郷さんドラマに経済効果だけに注目されているようですが、『南洲翁遺訓』こそを大宣伝すべきだと思っています。
そうしてこそ、死に代えた『南洲翁遺訓』の意義があるのです。
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知は是れ心の本體にして、心は自然に知ることを會す。父を見れば自然に孝を知り、兄を見れば自然に弟を知り、孺子(じゅし)の井に入るを見れば、自然に惻隠を知る。此れ便(すなわ)ち是れ良知にして、外を求むるを假(か)らず。若し良知の発して、更に私意の障碍無ければ、即ち所謂其の惻隠の心を允たせば、仁勝(あ)げて用ふ可からざるなり。『伝習録』49(伝習録巻上)
「知は心の本体であって、心は自然に知覚することができる。父を見れば自然に孝行する気持ちを起し、兄を見れば自然に悌の行ないをすることを覚り、幼児が井戸に落ちようとするのを見れば、自然に惻隠の情を覚える、というように、本心に立てば自然にそうした気持ちにならざるを得ないのである。この自然の知のはたらきこそ良知であって、人が生まれなからに持ち、外部に求める必要のないものである。49
【コメント】知を心の本体と言い、それを良知とし、人間の本来もつ道徳性であり、直覚的に孝弟惻隠を覚えるものとするのは、王陽明の根本的な思想と言われており、一生を貫いていると言われている。しかし、ここに看る良知と、晩年の致良知説の良知との間には、内容的に段階の差異があって、まだ窮極のものとはなっていないとの説である。これらはいわゆる初期の思想といわれている。晩年に大成したものが、初期にこのような、殆ど完全な姿で現れていることは極めて興味深いとされている。
王陽明には若い頃から興味を持って、読んだり書き写したりしてきました。分けはわからなくともとっても楽しいです。くだらないギャンブルをするよりかその方が賢明だと私は思うのですが、如何でしょう。
さい帯血の不法使用とかで6人の人が昨日逮捕されました。空手道教室で私は子供たちちにワルをしてはならないと何時も話しています。
西郷隆盛の漢詩にある「利をみては全く循うなかれ」、金もうけに目がくらんではいけません、と西郷さんが教えています。「過ちを斉しゅうしては之を己にかい」、友が間違ったら、それは私がまちがったのだと自分が責任を負う、と西郷さんは漢詩の上で教えています。
こういったことは、幼少の時は判断が難しいでしょうが、良い言葉をつかう、相手より先に頭を下げる、相手に名誉を与えるなどの行為は、金銭が絡まないから、どしどし応用してもいいでしょう、とお話しています。何がいいといって、『南洲翁遺訓』を学ぶ、漢籍の世界を逍遥することほど楽しいことはないと思っています。
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『不動心』(第32回)
他人への思いで自分の余生を消耗してしまうな
公共には何の利益も無いのに他人のことをあれこれと思いめぐらして、残された人生をムダに過ごしてはいけない。誰が何をしているか、なぜそんなことをするのか、何を話して何を考え、何をもくろんでいるのか-----そんなことばかり考えていると、自分はこうするのだという確固とした方針が曖昧になり、他の仕事をする機会さえ失われてしまう。だから、根も葉もないでたらめな妄想、ことにせんさく好きの気性や意地の悪さから生じる妄想にのめりこまないようにしなければならない。
人から「今、何を考えているのですか」とたずねられたら、即座につつみ隠さず「こうだ」と返答できるようになりなさい。そうすれば、あなたの考えは率直で優しさにあふれ、社会的存在にふさわしいものだということ、みだらなことを考えて悦に入ったり、嫉妬や猜疑心や、考えただけでも赤面するようなことを心に抱く人間ではないと相手にわかってもらえる。
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「死に代えた『南洲翁遺訓』」(第108回)
ある日、菅は盆栽の手入れをしながら、いつにないしみじみした口調で、
「お前も貧乏でさぞ困っていることだろうが、士族の人たちの困窮しているさまを見るたびに、思いだすことがある。維新のはじめ大久保、大隈、伊藤らの人々が、みなわしに厚意を寄せてくれたことだ。もしそのときから、この人々と手を結んでいれば、いまごろ君たちは相当の官職について、衣食の心配などはしなくてもすんだことであろう。しかし、わしはひとり西郷先生の高潔な人となりを慕い、他の人には目もかさなかった。そのために君たちを今日のような苦境に追い込んでしまった。これはみなわしのせいだ。だが、このように貧乏に苦しんでも、西郷先生が教えられたように、堯舜孔子の道を信じてよく学ぶならば、濁富をなして憂え多いよりも、はるかに愉快なことではないか」
と弟子に語っています。
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菅先生のこの言葉は、至言だと思います。今日的には、人々は「利と名誉」を求めるために奔走しいるようです。その中の名誉はそこいらの人がわかってくれなくても、天がわかったくれればいいと私は思っています。
今朝のテレビ報道で、神戸市議の橋もと氏が辞職をすると紹介されました。一寸した金とイロに手を出したらしく、弁明に追われています。
この種の人は全国には多く存在するのでしょうか。来年の西郷さんドラマに経済効果だけに注目されているようですが、『南洲翁遺訓』こそを大宣伝すべきだと思っています。
そうしてこそ、死に代えた『南洲翁遺訓』の意義があるのです。
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