味園博之のブログ-文武両道「空手道と南洲翁遺訓」他古典から学ぼう

平成の今蘇る、現代版薩摩の郷中教育 
文武両道 「空手道」と『南洲翁遺訓』を紹介するブログ

古訓に学べば、乃ち獲ること有り。

2017-08-25 09:51:17 | ブログ
第3160号 29.08.25(金)

人は多聞を求めて、時(こ)れ惟(こ)れ事を建つ。古訓に学べば、乃(すなわ)ち獲ること有り。事古を師とせずして、以て克く世を永くするは、説の聞くところに匪ず。惟れ学ぶには志を遜し、務めて時に敏なれば、厥の修むること乃ち来る、充に玆懐へば、道厥の躬に積る。惟れ斅(おし)ふるは学ぶの半(なかば)なり。終始を念(おも)ひて、学に典(つね)にすれば、厥の徳修まりて覚ゆること罔(な)けん。『書経』(説 命下)447

 人は多くの意見をきくようにつとめて、初めて事業を打ち立てることができるものです。古の教えに学んで、初めて成果をあげることができるものです。事を行うに当たって、吉のことを師とすることをしないでいて、それでよく末長く続くということは、私はきいたことはありません。学ぼうとするには、へり下った気持ちになり、つとめていても敏捷にしていれば、身に修めることは自然に果たされるでしょう。本当にそのことを深く思っていくならば、道はその身に積み蓄えられてくるでしょう。人に教えることは、半分は自分が学ぶことになっているのです。始めと終わりをよくよく考え、常に学ぶことに心がければ、徳の修まることは、自分で気がつかぬ間に進みましょう。447

 【コメント】上の『書経』は、物事を為す要諦を教えてくれています。どのようなことであっても、先ずは謙虚な姿勢で、真摯に取り組むことが大事だと思います。私は空手道教室で子どもたちに接していますが、本当に素晴らしい子供たちが集ってくれます。ですから、一言一言に気を遣ってお話することに努めています。昨夜のカナコ様は特にすばらしかったです。
 
 昨夜は本永超優秀君のお父上様が見学に来てくれました。迚もおだやかな素晴らしい社会人でした。息子を大声で叱り飛ばすということはなさらないであろうと思うことでした。先の週のおけいこで号令をかけてリーダーを務めたことをお話しました。

 稽古のはじめに、薩摩詩吟会で稽古をした詩吟を朗詠しました。超優秀君に漢詩を創作し、頼山陽みたいな人間になってくださいとお話しました。

 とにかく現在は、大した御稽古もしないで、すぐテレビに出たがる人が多いようです。昨夜の終わりにはお辞儀の仕方を御稽古させましたが、誰が見ても、背筋が真っ直ぐなり、その所作に芸術性が無ければならないのです。

 見る人が見て、惚れ惚れするような挨拶の御稽古をしたいものです。型が抜群にうまい森永礼弥君は、私をアッと言わせようと思うお辞儀をしてくれました。

 そして女の人に抱き付くなどの非違行為をしないよう、話して聞かせました。今朝の新聞報道によると福岡県警35歳の巡査部長が若い女性宅へ上がり込み、飲み物を要求し、そして女性に触ったとかで処分された由、そして依願退職されたとのことです。今頃後悔していることでしょう。

 人間で気をつけなければならないことは、とにかく威張らない事です。ですから、西郷隆盛の漢詩「外甥政直に示す」「子弟に示す」を覚えるよう特訓をしています。

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『不動心』(第29回)

 内なる神霊を守ること

 人の一生において、時は束の間のものにむすぎない。人生は絶え間なく流転する。感覚はほのかなロウソクのごとくゆらめき、肉体は虫けらの餌食となり、魂は渦をまいて動いている。運命は暗く、そして名声もまた定まることをしらない。一言でいえば、肉体は流れゆく河であり、魂ははかない夢だ。人生は戦いであり、ほんのひととき異郷に身を寄せているにすぎない。名声の後には忘却が待ち受けている。だとすれば、人の歩みを護り導く力はどこにあるのか。それはただ一つ、哲学の中にのみある。哲学だけが人の内なる神霊を汚れなきままに保つのだ。
 神霊の力によって、人はどんな快楽や苦痛にも打ち克ち、安易な気持ちや偽善の心でものごとを引き受けたりもせず、他人が何をしようとしまいと意に介することなく、与えられたものをみな神霊と同じく一つの源泉から出づるものとして受け容れることができるのだ。さらに何より重要なのは、死を純然たる生物構成要素の分解作用として快く待ちのぞめようになることだ。生物の構成要素自体にとって、絶えず形成と再形成をくりかえしても何ら害がないのなら、なぜ万物の変化と分解を不信の眼でながめる必要があろう。それが自然のやり方であり、自然のやり方に悪いところは一つもないのだ。

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「死に代えた『南洲翁遺訓』」(第105回)

 菅の決断に反対するものは、この際恥を忍んでも、忠篤、忠宝の将来に期待すべきだと考えたのでしょう。
 忠篤の洋行に随行した神戸善十郎は自刎しました。忠篤らの辞任に猛烈反対したのが容れられなかったのです。
 藩主の側近で活躍していた和田光観も、自らも中央を窺いながら、忠篤、忠宝の出馬を真剣に考えていた人でしたが、和田が病死したとき、忠篤、忠宝が帰国して二十年もたってからだったのに、「和田は餓死した」と赤沢が評したそうです。餓死は憤死というべきかもしれません。忠篤、忠宝の下野がどれほどの悔恨事であったか。察するにあまりあります。

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