味園博之のブログ-文武両道「空手道と南洲翁遺訓」他古典から学ぼう

平成の今蘇る、現代版薩摩の郷中教育 
文武両道 「空手道」と『南洲翁遺訓』を紹介するブログ

君子は其の賢を賢として、

2017-08-14 17:26:19 | ブログ
第3150号 29.08.15(火)

君子は其の賢を賢として、其の親を親しみ、小人は其の楽しみを楽しんで、其の利を利とす、赤子を保(やすん)ずるが如し、民の好む所は之を好み、民の悪む所は之を悪む。此れを之民の父母と謂ふ、と云うが如きの類は、皆是れ親しむの字の意なり。民を親しむ、は猶ほ孟子の、親を親しみ、民を仁す、の謂ひのごとし。之を親しむは即ち之を仁するなり。『伝習録』(伝習録巻上)29

 〔通釈〕『君子は賢人を尊敬して同族のものを愛するが、小人は自己の享楽を喜び自己の利益を求めるものだ。』とか、『明君は赤ん坊を保護するように人民を大切にして、人民の好むことは好み、人民の悪むことは悪むもので、これを人民の父母という。』などとあるのは、すべて民を親しむ意味である。民を親しむというのは、孟子にある『同族の者を親しみ、一般人民を愛する。』の語と同じことで、親しむとは仁愛することなのである。

 【コメント】賢人も小人も人それぞれ人を愛するわけですが、人間の自然の感情として、人に敬意を表すると同様の愛の感情を抱いて日々にのぞんだら、お互い共感すると思います。

 親しむとか尊敬の念を抱いたらどんな人でも喜ぶものです。

 でも世の中には、自ら生きる世界を狭めている人もいるようです。そういう懐の狭い生き方をしていると、人生は上手く行きません。
 
 何を言われようが、思われようが、世の為人の為と信じて世渡りをする人情味溢れる生き方をしてこそ天も味方をするでしょう。

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「妄語せざるより始まる」

 中国の宋の時代に、司馬温公という偉い人がいました。この人は大学者であり、また政治家でもありました。西郷隆盛が、人々にお話をしたのをまとめている『南洲翁遺訓』にも、司馬温公のことが記されています。司馬温公は、誠の人であったと言われています。そういう人であったからこそ、西郷隆盛も、立派な人だということで尊敬したのだと思います。
 その司馬温公が、小さいとき、子供たちとカメの上で遊んでいました。カメというのは、焼き物で作った大きな大きな器で、水などをいれるタンク見たいなものです。そのカメに水を入れて、ふたをして置いていたわけです。子供たちがそのカメの上で遊んでいたときふたがこわれて、一人がその中に落ちておぼれてしまいました。子供たちは、大騒ぎになりました。どうにかして助けなければと思いながらも、みんなどうすることも出来ません。
 その時に、司馬温公が大きな石を抱えて来て、カメに投げつけました。カメは壊れて水が流れ、子供は助かりました。そういう機知にとんだ、賢い人であったと言われています。
 その司馬温公の、門人(弟子)であった劉安世という人が、先生に質問をしました。
 「人間の一生で、大事な守るべき言葉があるなら、教えてください。」
 「それは誠という言葉である。誠の心こそは、人間一生守りつづけても、何の間違いもないものである。」と、司馬温公は教えたのです。
 「それなら、その誠を身につけるにはどうしたらいいのでしょうか。」とさらにお尋ねしました。
 「妄語せざるより始まる。」と司馬温公は教えました。
 妄語というのは、妄りの言葉という意味です。妄りにべらべらと、口からでまかせに言わない、でたらめを言わない、嘘を言わないということです。そこから誠ということは始まるのだ、と教えたのです。

 その昔、読書をしたという男が、知ったかぶりに人生訓を義理の弟に話して聞かせました。ところがその読書氏は結婚して初夜の晩に、妻を殴りつづけ妻は瀕死の重傷を負いました。妻は初恋の女でしたが、再婚だったのです。
 知ったかぶりの読書氏は50歳になる前に、仕事中に倒れ、救急車で搬送されました。80歳で亡くなるまでに5回救急車にお世話になったのだそうです。
 要はどれだけ読書して詳しくなっても、誠の精神を抱きつづけ、妄りの言葉を遣ってはならないという戒めの姿を世の人々に見せてくれたのでした。

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「死に代えた『南洲翁遺訓』」(第95回)

 「しかし開墾の趣旨は政府の認めるところとなり、明治七年一月には過分の賞典と、多大の資金をくださいましたので、感泣した士族はもちろん市街、郷村の者までも、あるいは労力、あるいは私財を提供して開墾に協力しています。これらはいずれも国に尽くす良心からでたもので、われわれは敢えて辞退せず、これらを受入れて引き続き開墾に努力してまいりました」
 「これが明治六年に、松ヶ岡六十万坪と以前の開墾と合わせて百万坪を成就し、桑苗を植え蚕室を建て養蚕を興し、明治十年になって物産が次第に莫大の額に達し、開墾はようやく成功を見ようとしています」
 「しかるに不逞の徒は、開墾の資金を市民に課し、農民には労力を強制したといいがかりをつけ、その上、報国を口実に士族を束縛して、不法な反逆を企てたなどと流言をながし、新聞紙上に掲載して、開墾の真意を覆い隠しました」

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先生明睿天授、

2017-08-14 09:47:07 | ブログ
第3149号 29.08.14(月)

先生明睿天授、然れども和楽坦易、邊幅を事とせず。人其の少時豪邁不羈(ごうまいふき)にして、又嘗て詞章に泛濫(はんらん)し、二氏の學に出入せしを見、驟(にはか)に是の説を聞いて、皆目して以て異を立て奇を好むと為し、漫(みだり)に省究せず。先生の夷に居ること三載、困に處り静を養ひ、精一の功、固より已に聖域に超入して、粹然たる大中至正の帰なるを知らざるなり。『伝習録』(伝習録巻上)26

 〔通釈〕先生は天性聡明で、しかも温好和静、なりふりに無頓着な方である。世間では先生が若い頃に豪放で飾りのなかったことや、文章に耽ったり、仏教や老子の思想に出入りしたことを知っているので、突然この説を聞いた時は、皆先生が好んで奇抜な説を立てるものとして、一同に関心を示さなかった。これは先生が貴州の蛮地に滞在すること三年、困苦の中にあって静思を重ね、心を精一にする修養をされた結果、すでに遠く聖人の境に入られ、まことにこの上ない理想の人格に達せられたことを知らないためである。

 【コメント】私も困苦の中にあって<静思を重ね、心を精一にする修養>をしているのですが、まだまだ埒があきません。それでもわからずとも、楽しんで楽しんで漢籍を繙いています。

 書斎には三種類の伝習録が保存されており、今まで繙いてきました。安岡先生が、分からずとも読みつづけなさいとと力説していますので、教えを遵守しています。

 昨日は高齢者の方々が麻雀に興じている風景が映像で紹介されましたが、漢籍を繙いた方が健全であるのにと思うことでした。およろしかったら漢籍の世界を逍遥されませんか。

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『不動心』(第17回)

 今日一日をはじめるにあたっての心得

 一、一日の初めに、まず自分にこういいきかせなさい。
 妨害や恩知らずな行ない、傲慢、背信、悪意、利己主義----そういうものに今日出くわすにちがいないが、それは何が善であり、悪であるのかも知らぬ不心得な連中の仕業なのだ。
 私はといえば、善の本質とその尊さ、また悪の本質とその下劣さはとうにわかっているし、罪人の本性についてもよく理解している(私にとって罪を犯す人間は、血のつながりはなくとも、理性といくらかの神性を授けられているという意味では兄弟なのだ)。たとえ何人であろうと、私を下劣なものにまきこんだりはできない。したがって私を傷つけるものは何もない。
 また私は、自分の兄弟ともいえる罪人たちに怒りを抱いたり争ったりもできない。罪を犯す人間と私とは、ちょうど両手、両足、両のまぶた、あるいは上の歯と下の歯のように協力して働くために生まれてきたのだから、たがいの邪魔をするのは、「自然の法」に反するのだ。そして腹を立てたり反感を抱いたりするのは、たがいに邪魔しあうことにほかならない。

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「死に代えた『南洲翁遺訓』」(第94回)

 「また、旧藩主酒井忠篤は、自分の欧州留学は、士族一同と共に国に報いる趣旨であるとねんごろに諭したので、士族は大いに奮起して銃を鍬に代え、明治五年八月からは新たに松ヶ岡の開墾に取組みました。その困難は戦場にも比すべきものでしたが、一年足らずで三十万坪の開拓に成功しました」
  「このことは、わが旧藩が政府から莫大の恩恵を受けたとに対して、天下に先駆けて富国の基礎を築き、国恩に報ずることを願ったものであって、私田を開いて生計を営む趣旨ではなかったのであります」
 「しかるに、異端の徒が盛んに商業の利益と農業の苦難を強調して、開墾を妨害しただけではなく、県の(旧藩出身の)役人や開墾幹部の過誤を拾って司法省に提訴しました。そこで明治五年七月、早川判事の取り調べによって有罪となり、相当の処分をうけました」

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