第3147号 29.8.12(土)
夫れ禮は、先王以て天の道を承け、以て人の情を治む。故に之を失ふ者は死し、之を得る者は生く。詩に曰く、鼠を相るに體有り、人にして禮無からんや。人にして禮無くんば、胡ぞ遄(すみやか)に死せざる、と。
是の故に、夫の禮は必ず天に本づき、地にならひ、鬼神に列し、喪祭・射御・冠昏・朝聘に達す。故に聖人禮を以て之に示す。故に天下国家得て正しくすべきなり、と。『礼記』(礼運第九)331
礼という物は、先王がこれによって天の道を悟り、これを用いて人の喜怒哀楽の情を調えたものである。礼をよく心得れば生きてゆけるが、礼を弁えねば生きてゆけない。詩に『鼠も五体を備えているが、礼を知らない。人が礼を知らなければ、五体を備えても、鼠に等しい。人にして礼を弁えなくてよかろうか。礼を弁えないなら、速やかに死なねばなるまい』とある。
-----即ち礼は天道に基づき、地道に則り、鬼神の道に合い、吉凶の祭、射御の作法、冠婚朝聘の儀式など万般に及んでいる。それゆえ聖人は、何事についても、みずから礼を行なって手本を示し、これによって天下国家の政治を正しく行わせようとするのである。
【コメント】昭和の碩学・安岡先生は漢籍は分からずともいいから、読んで書いてを繰り返しなさいと言われています。
その言葉を信じて来て、これほどよい勉強はないと思って20年この方、読んで買いてを繰り返しています。老人にとってこれほどよい遊びはないと思って楽しんでいます。
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『不動心』(第15回)
生活を快適にする糧
十ニ 父の敬服すべき資質、それは温厚な人柄、熟慮の末に決断したことは断じて変更を許さぬ一徹な態度、そして見かけだおしの栄誉には目もくれないところにあった。父は勤勉で、堅忍不抜の精神を持っていた。公共の利益に役立つ進言には喜んで耳を藉し、人はそれぞれの真価に応じた報奨を受けるべきだといつも主張していた。事を運ぶにあたっては、どこで手綱を締め、どこで緩めるかの勘どころを知りつくしていた。
人づきあいをする上でも、各人がそれぞれの言い分を持っていることをよくわきまえていたから、父は食事や旅行に友人を無理に誘うこともなく、別の用事でしばらく遠くへ行っていた友人にも別れる前と変わらぬ態度で接した。会議では、提出された問題を逐一徹底的に根気強く審議し、通りいっぺんの印象でものごとを片づけたりはしなかった。友情においては忍耐強く、気まぐれのつきあいや常識はずれの交遊はしなかった。機に臨めば立派に働き、快活にふるまい、しかも人目につかぬところでは、実に些細な点にいたるまで事前に手を打っておくという先見の明を持っていた。
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「死に代えた『南洲翁遺訓』」(第92回)
そこで、開墾地の一切を挙げて政府に投げ出すことを決定します。
開墾士族総代林源太兵衛と同じく赤沢源弥の名儀で、山形県令三島通庸宛てに願書を提出します。文書の日付けは明治十一年三月二十四日でした。
県はこの重大事に対して、処置に困り、内務省に直接上申するようにすすめました。そこで両人は上京して内務小輔前島密に趣意書を提出しました。明治十一年十二月でした。
開墾地一切差上げ
県に提出した趣意書は二千四百字余の長文ですが要旨はこうです。
「われわれは戊辰戦争で、寛大な処分の皇恩に浴しましたので士民一同は感激しました。そこで小繙ながら我々は兵器を購入し兵を練って国に報いようとしました」
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今朝は日本ファーストという政治団体を組織し立ち上げようとしている若狭さんが、少しく説明しました。名称はまだ決定していないそうです。
自民党に代わる受け皿づりに奔走しているとのこと、大へんよいことです。現在野党の民進党などは問題外だとの認識でした。
揚げ足とりに終始していて何も成果を挙げることの出来ない野党は国民に見離されているということでしょう。
若狭さんは20年間、検事生活をして自民党の汚い部分に辟易していたとのことでした。
国民が開眼してヨシとする政党が誕生することを期待したいと思います。
とにかく森友・加計学園問題で明確な説明が必要だと思います。
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夫れ禮は、先王以て天の道を承け、以て人の情を治む。故に之を失ふ者は死し、之を得る者は生く。詩に曰く、鼠を相るに體有り、人にして禮無からんや。人にして禮無くんば、胡ぞ遄(すみやか)に死せざる、と。
是の故に、夫の禮は必ず天に本づき、地にならひ、鬼神に列し、喪祭・射御・冠昏・朝聘に達す。故に聖人禮を以て之に示す。故に天下国家得て正しくすべきなり、と。『礼記』(礼運第九)331
礼という物は、先王がこれによって天の道を悟り、これを用いて人の喜怒哀楽の情を調えたものである。礼をよく心得れば生きてゆけるが、礼を弁えねば生きてゆけない。詩に『鼠も五体を備えているが、礼を知らない。人が礼を知らなければ、五体を備えても、鼠に等しい。人にして礼を弁えなくてよかろうか。礼を弁えないなら、速やかに死なねばなるまい』とある。
-----即ち礼は天道に基づき、地道に則り、鬼神の道に合い、吉凶の祭、射御の作法、冠婚朝聘の儀式など万般に及んでいる。それゆえ聖人は、何事についても、みずから礼を行なって手本を示し、これによって天下国家の政治を正しく行わせようとするのである。
【コメント】昭和の碩学・安岡先生は漢籍は分からずともいいから、読んで書いてを繰り返しなさいと言われています。
その言葉を信じて来て、これほどよい勉強はないと思って20年この方、読んで買いてを繰り返しています。老人にとってこれほどよい遊びはないと思って楽しんでいます。
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『不動心』(第15回)
生活を快適にする糧
十ニ 父の敬服すべき資質、それは温厚な人柄、熟慮の末に決断したことは断じて変更を許さぬ一徹な態度、そして見かけだおしの栄誉には目もくれないところにあった。父は勤勉で、堅忍不抜の精神を持っていた。公共の利益に役立つ進言には喜んで耳を藉し、人はそれぞれの真価に応じた報奨を受けるべきだといつも主張していた。事を運ぶにあたっては、どこで手綱を締め、どこで緩めるかの勘どころを知りつくしていた。
人づきあいをする上でも、各人がそれぞれの言い分を持っていることをよくわきまえていたから、父は食事や旅行に友人を無理に誘うこともなく、別の用事でしばらく遠くへ行っていた友人にも別れる前と変わらぬ態度で接した。会議では、提出された問題を逐一徹底的に根気強く審議し、通りいっぺんの印象でものごとを片づけたりはしなかった。友情においては忍耐強く、気まぐれのつきあいや常識はずれの交遊はしなかった。機に臨めば立派に働き、快活にふるまい、しかも人目につかぬところでは、実に些細な点にいたるまで事前に手を打っておくという先見の明を持っていた。
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「死に代えた『南洲翁遺訓』」(第92回)
そこで、開墾地の一切を挙げて政府に投げ出すことを決定します。
開墾士族総代林源太兵衛と同じく赤沢源弥の名儀で、山形県令三島通庸宛てに願書を提出します。文書の日付けは明治十一年三月二十四日でした。
県はこの重大事に対して、処置に困り、内務省に直接上申するようにすすめました。そこで両人は上京して内務小輔前島密に趣意書を提出しました。明治十一年十二月でした。
開墾地一切差上げ
県に提出した趣意書は二千四百字余の長文ですが要旨はこうです。
「われわれは戊辰戦争で、寛大な処分の皇恩に浴しましたので士民一同は感激しました。そこで小繙ながら我々は兵器を購入し兵を練って国に報いようとしました」
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今朝は日本ファーストという政治団体を組織し立ち上げようとしている若狭さんが、少しく説明しました。名称はまだ決定していないそうです。
自民党に代わる受け皿づりに奔走しているとのこと、大へんよいことです。現在野党の民進党などは問題外だとの認識でした。
揚げ足とりに終始していて何も成果を挙げることの出来ない野党は国民に見離されているということでしょう。
若狭さんは20年間、検事生活をして自民党の汚い部分に辟易していたとのことでした。
国民が開眼してヨシとする政党が誕生することを期待したいと思います。
とにかく森友・加計学園問題で明確な説明が必要だと思います。
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