味園博之のブログ-文武両道「空手道と南洲翁遺訓」他古典から学ぼう

平成の今蘇る、現代版薩摩の郷中教育 
文武両道 「空手道」と『南洲翁遺訓』を紹介するブログ

知は是れ行の主意、行は是れ知の成なりと。

2017-08-26 15:25:44 | ブログ
第3162号 29.08.26(日)

知は是れ行(こう)の主意、行は是れ知の功夫、知は是れ行の始めにして、行は是れ知の成なりと。若し会得する時は、只だ一箇の知を説くも、已に自ら行の在る有り。只だ一箇の行を説くも、已に自から知の在る有り。『伝習録』(伝習録巻上)40

 知は行の目的であり、行は知の実際の修行である。また知は行の始めであって、行は知の完成である。もしこの語の意味が分れば、知を説いただけで、行はおのずからその中にあるのであり、また行を説いただけで、知は自然にその中にあるのである。41

 【コメント】思うに知行合一というように、知と行は一緒だという捉え方をしてもいいと思います。「まず知ることが大切で、知ってはじめて行うことができる」という場合もあるが、実践しながら、知る、いわゆる理解できるということだと思います。

 昨日の新聞世論覧で会社を退職した63歳の人が、することがなくて毎日が大変だ、という声がありましたが、人間知らないことが多すぎるので、漢籍の世界を逍遥すれば退屈どころか、有がたい訓戒ばかりです。

 こうして書いて行く嬉しさが精神を瑞々しくして生きる元気が湧いてくるのです。テレビコマーシャルが宣伝する栄養剤なんか以前はなかったのです。

 先日、ある人に戦前の青年たちと、現代の人とどちらが元気があると思いますかと聞いてみました。歳を重ねた人は昔の方が元気がよかったと応えてくれました。

 ちなみに私は、漢籍などから元気を頂いているのです。


 昨夜の空手道教室も賑わいました。終盤に組手のおけいこをいたしました。私と新進気鋭の山田師範に対して、中段突きを打ちこんで貰いました。
 一人一人突きをしている時は大したことはないように見えるのですが、実際に攻撃をさせてみると凄い威力があるのです。特に優李君は身体ごとぶつかってくるものですから、私は倒れそうになりました。
 そして西郷隆盛の漢詩「外甥政直に示す」「子弟に示す」を徹底して学んでもらいました。

 警察官志望の人がいますので、福岡県警巡査部長35歳の非違行為を紹介しました。何回も何回もお話し子供たちの身体に染み込ませる、叩き込む必要があります。
 因みに私が最初勤めた職場、同級生らは不真面目のお手本みたいな人ばかりでした。

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『不動心』(第31回)

 自然のできごとに付随して起こるようなものの中にさえ、美しさと魅力があるということを心に留めておこう。たとえば、かまどでパンを焼くとあちこちに割れ目ができるが、それはわざと作ったものではないにしろ、食欲をそそるという役目を果たす。熟した無花果(いちじく)の実も同じように割れてくる。今にも枝から離れそうなオリーブの実は、くさる寸前にかえって美しさがひき立ってみえる。
 宇宙の作用に対する感受性と深い洞察力を備えた人にとっては、副産物にすぎないものですから、このように格別に喜ばしく見えてくる。そういう人は実際の動物を見ても、画家や彫刻家の手になった、ライオンやトラが牙をむき出しにしている作品を見るのと同じように感心してながめるだろう。齢をかさねた男女にしかない円熟した魅力や、若者の人を誘惑しかねないほどのはつらつとした若さを、その思慮深い眼で感じとることもできるだろう。こうしたことは誰にでもわかるわけではない。自然とその働きに心から親しんだ人のみが、そこに感銘を受けるのである。

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「死に代えた『南洲翁遺訓』」(第107回)

 菅は明治十四年、東京で旧知の川村純義に会っています。またこの年、総理大臣になった西郷門下で旧知の黒田清隆にも面会しています。このとき菅は、「黒田は往年の黒田ではなくなった」ことに失望して、一切政治問題には触れることなく、総理就任の祝意を述べただけで帰りました。
 十七年には菅が富田利勝、三矢正元、黒崎馨の三人を遣わして、かつての西郷党の副島種臣に会見させています。

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今日は24時間テレビというのがあり、凄い場面が紹介されています。
 先ずは片足切断された人が、義足を装着し登山をしているシーンが紹介されています。そして子供たちが20人位でしょうか、縄跳びをしているシーンにも驚愕すると同時に大変感動した次第でした。

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力を同じくすれば徳を度り、徳を同じくすれば義を度る。

2017-08-26 09:31:27 | ブログ
第3161号 29.08.26(土)

天下民を佑(たす)けて、之が君と作(な)し、之が師と作す。惟れ其れ克(よ)く上帝を相(たす)けて、四方を寵綏(ちょうすい)す。罪あるも罪無きも、予曷(なん)ぞ敢えて厥の志を越(おと)すこと有らん。力を同じくすれば徳を度(はか)り、徳を同じくすれば義を度る。『書経』(秦 誓上)455

 天は下々の人民を助け育てようとして、予をその君とし、その師とされた。そこでよく上帝を助けて、四方をいつくしみ安んじようとするのである。罪があるものはこれを討ち、罪がないものはこれを安んずるので、予はどうしてその志を失墜することなどがあろうか。力量が同じである場合は徳の方を量り、徳が同じである場合は義の方を量るのがよい。

 【コメント】ここでは徳が大事であるが、徳が双方同じである時は義を量るとしているところがいいと思います。

 翻って我が国の為政者も徳と義を重んじて戴きたいものです。森友学園、加計学園もウヤムヤの内に済まそうとしている感なしとしません。

 当事者たちは権力をかさに着ていい加減にするように思えてなりません。ですから、保守の受け皿に変わる勢力を若狭さんが模索している組織に担って欲しいものだと思っています。

 今の民進党を中心とする野党には国民は期待していないので、若狭さんなら信用があるような気が致します。是非、頑張ってほしいものです。

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『不動心』(第30回)

 自分自身をうまく用うること

 一日一日と人生は過ぎ、残された時間も次第に少なくなっていく。それだけではない。たとえ人の寿命が延びていこうとも、自らの本分を理解し、神や人間に関することがらをじっくり考えるだけの精神力が持続していくかどうかは疑わしい。 もうろくしばじめたからといって、必ずしも呼吸や消化、知覚、衝動などの機能が衰えるわけではない。しかし自分の才能をうまく生かし、義務を正当に評価し、さまざまな問題を片っぱから処理していく能力、そして自らの人生に終わりを告げる時期かどうかを判断したり、そのほか経験豊富な知性が必要とされるような決定を下したりする能力というものは、すでに衰えかけているのだ。だから急がなくてはいけない。というのも、刻一刻と死が近づいているというだけでなく、死以前にすでに認識したり理解したりする力が減少しばじめるるからである。

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「死に代えた『南洲翁遺訓』」(第106回)

 このころ「国辱をそそぐ」べく、東京で学んでいた給費の秀才たちも、忠篤の下野にしたがってそろって帰郷しました。東京開成学校で学んでいた菅の甥、富山利勝も、忠篤の意をうけて陸軍教導団に入り小異だった加藤景重も、辞表をだして帰郷しました。
 この時代、もし忠篤らが恥を忍んでも職にとどまり、隠退を思い止まってゐたら、庄内の俊秀たちは続々と中央に進出して----などと考えるのは道ではありませんが、考えたくなるのも人情というものでしょう。

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この所交通事故が多発しているようです。昨日も高知でマイクロバスにトラックが追突事故を起こし、高校生たちが死傷したとの由です。
 
 私は鹿児島健康スポーツランドに週に二回ほど行っていますが、高速道路から出てきた大型トラックの暴走が目立つようです。
 これらは運転手のモラルも大切ですが、それらを所有している雇用主が無理な工程で運送させているのではないかと考えます。事故をすれば悪くすると刑事事件になることもあります。行政当局は指導の徹底をしてほしいものです。
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