味園博之のブログ-文武両道「空手道と南洲翁遺訓」他古典から学ぼう

平成の今蘇る、現代版薩摩の郷中教育 
文武両道 「空手道」と『南洲翁遺訓』を紹介するブログ

事を作すこと禮を以てせざれば、之を信ぜず。

2017-08-06 17:04:10 | ブログ
第3142号 29.08.07(月)

事を作すこと禮を以てせざれば、之を敬せず、言を出すこと禮を以てせざれば、之を信ぜず。故に曰く、禮とは、物の致なり。『礼記』(礼器第十)371

 何事をなすにしても、あるいは言うにしても、礼を心得ていないと、こちらの敬意が相手に通ぜず、信頼してもらうこともできない。即ち礼こそは人と人との間を取り結ぶためのもろもの行為の根本なのである。

 【コメント】人間社会には礼が如何に大切であるかを教え諭してくれています。これらは多くの人は認識していると思われるのですが、ついつい他を無視し我がことだけを優先しがちです。

 自分だけを無理に優先した場合、事後においてトラブルになりがちですので、できるだけ前後を配慮したいものです。78歳の今日まで元気て生かしてもらっているので、決してズルイ事をしないで、人々の為にも誠心誠意事に臨みたいと思っています。

 安倍さんもそのように申していますが、いろいろ落ちこぼれ、とりこぼしがあるようです。

 先程交番に底に板がついている草履下駄で運転をしていいか確認に行きましたら、足の親指の所につっこめればいいとのことでした。一つ一つ確認して違反のなきように運転したいと思います。

 台風には慣れているつもりでしたけど、第5号のユックリ速度には閉口しました。思うに人間の贅沢から来る異常気象からの天災地変でなければと思っています。

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『不動心』(第10回)

 欠落した人間愛

 七 良き師フロントに教えられたこと、それは、専制君主には常に怨恨と狡猾と二重人格がつきまとっているという事実。そして、われわれが貴族と呼んでいる人種の大部分には、普通の人間愛という感情が欠落しているということである。
 
 安倍総理は専制君主ではありませんが、夫妻にも人間愛が欠落していると思うのですが、如何でしょう。子供がいなくてもファーストレディとして、自宅で読書をするとか漢籍を繙くとかの心掛けであれば、その美しさが倍加するであるでしょうに、と思うことしきりです。
 総理夫人が飲み屋なんかするものではありません。

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「死に代えた『南洲翁遺訓』」(第87回)

 昔から小人ばらが徒党を組んで賢人を妨害し、結局国は滅び形跡もない例が多い。嘆いても嘆ききれるものではない。哀感きわまり、危うく声を上げて泣き出しそうになる。ああ、西郷先生はすでに亡し、永久にその後継者とてもない。しかしながら、庄内の老先生たちはその教えを信奉し、たとえ力量の比ぶべくもないとはいえ、(西郷)先生の遺志を十分に継ぐことができるであろう。願わくは人事を尽くして天命を待とう」
と、菅と会談した後の黒崎は諦めきれない心情をこう吐露していますが、それだけに、菅や黒崎やその同志たちは熱烈に西郷を尊敬し信じ、頼りとして国事を共にしようとしていたことを知ることができます。それはとりもなおさず、〔国辱をそそぐ〕彼らの目的の達成でもあったのです。この年二十六歳の黒崎はそのもっとも純真な青年でありました。

 なんと美しいお話でしょう。西郷先生をおもいやる庄内の方々の清廉なる御心に心うたれています。我が鹿児島にも心ある人はいるのですが、末裔が邪魔をしているみたいです。
 
 イト夫人の末裔、吉野の吉村松玄先生は素晴らしいですが。

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聖人は天地に参し、---以て政を治む。

2017-08-06 10:53:00 | ブログ
第3141号 29.08.06(日)

聖人は天地に参し、鬼神に竝び、以て政を治む。其の存する所に處るは、禮の序なり。其の楽しむ所を玩(もてあそぶ)ぶは、民の治なり。故に天、時を生じて、地、財を生じ、人は其の父生みて師之を教ふ。『礼記』(礼運第九)340

 政治は元来聖人の事業であるべきで、聖人が天地の中間に立ち、諸神諸霊と肩を並べて、人類の教導に努めること、それが即ち政治である。聖人が、天地鬼神の道について明かに知り得たところ、それに基づいて礼の体系が作り出されたのであり、聖人が、万人の喜び楽しむことを充分に考えて、その上で行うのが政治なのである。340

 【コメント】<政治は元来聖人の事業であるべき>でとありますが、我が国の政治を掌る人々はその人格において、胸を張って聖人たるべき資格と精神の清廉さ、そして真摯さがあるでしょうか。

 宰相経験者を『天才』と評して自分ともども売り出している男がいますが、そこには精神の清廉さがなければならないのです。土建業者的やり方で事を行い、金で人を釣るというようなことがあってはならないと思います。

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『不動心』(第9回)

 外にとらわれて中身を失わないこと

 六 文法学者として有名なアレクサンダーからは、人との会話の際に不必要なあら探しはせぬよう忠告された。彼によれば、文法の間違いや田舎なまりや発音の誤りを厳しくとがめ立てるより、疑問に答えたり相手の言葉に口添えしたり、話題それ自体(相手の言葉づかいについてではなく)をともに議論したり、あるいは他の適切な助言を用いたりして相手が正確な表現に気づくよう、さり気なくほのめかすほうがもっといい方法だという。

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「死に代えた『南洲翁遺訓』」(第86回)

 戦勝ときいてからこの前日まで、黒崎たちは何度も祝賀会をやり、嘔吐臭の充満する宴席を掃除した、とまで記しています。三矢が来て、
 「天下の事は終わった。二十四日、各旅団は一斉に城山を攻撃、西郷先生と二、三の大将は戦死。その他はみんな降伏した。今朝、政府の命令が県庁にきて、すでに掲示がでている」と黒崎にいいました。黒崎は、
 「ああ、万事休す。天に神はあるのか。心は暗く、魂は消え失せた。ああ、この人のためではなく、誰のために嘆き悲しもうや、ああ、悲しいかな」
 「天地蒙昧日月暗黒。われまた何をかいわんや、(意見を徴すべく)菅門に行く」
 「わが国はすでに西郷先生を失った。天意はもはや明らかである。いまより後は陋巷にあって一瓢の飲を楽しむ(志気のある貧乏暮らし)ばかり。まだもし天がわが国(庄内)を見捨てぬならば、諸先生に従って斯の道を天下に広めるのみ。もし天がわが國を見限るならば、私は私の好む所に従って一生を終えるのも、また何の悔やむことがない。ああ、(明治政府高官の)巧言令色の恐るべきことは誠にはなはだしい。(中国の)聖王といえども国のガンとなる悪者を始末した。

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