ブログに遊ぶ

ときめきの日々を過ごしたい

久しぶりの太陽

2012-01-31 08:23:34 | Weblog

                   久々の陽のありがたさ雪しまき 

                                          我が郷の用なき雪に沈みけり

      

 

先日、久々に太陽の顔が覗く、冬の空の3分の一位に青空が広がった。太陽が覗くと吹きまくった雪の深さがくっくりと浮かんで良く分かる。改めて今回の寒波の雪の多さに驚く。18豪雪と言って平成十八年に降った雪の嵩より多くなるのではと思う。まだ、節分(二月三日)ごろまで寒波が続くと毎日テレビで報道しています。大寒は昔の暦の二十四気の一つだそうで、今の暦で言うと一月二十日頃から二月四日の立春までの約二週間ぐらい続く、皮肉にも、その立春の頃まで大寒波が続くことになる。我が家では、四日間連続に融雪ボイラーを焚きっぱなしである。この分だと試算では寒波が過ぎるまで石油代は10万円はくだらないだろう。直ぐ傍の老人世帯では、一回の雪降ろしの人夫代は十五万掛かると聞く、今朝から三回目の雪おろしをしてもらっている、これが最後としても四拾五万円はかかることになる。年金生活者には重くのしかかって来る。春にならば消る雪なのにとつくづく思う。

                                                            

深い雪に囲まれた細い道、足の不自由な私は転ばぬように細心の神経を注いで歩く。ふと、私の後ろから、ある御婦人が私の遅く歩くテンポに合わせて下さっていることに気が付く、もし急いでいなさってはと思い、追い越しの出来ない細い道ですので、私は道の隅に横になって「どうぞお先に」と譲った。御婦人は私は急がないですから良いんですけどと言い、私を越して行った。歩きながら前を見るとその御婦人はかなり前を歩いていた。転んで「慢性硬膜下血腫になって随分歩くのが遅くなったのだなと、改めて認識する。


寒すずめ

2012-01-29 11:07:55 | Weblog

生く力何処にひそめし寒雀

寒雀まるまるとしてあつけらと

木偶乃坊写楽斎さんからお借りした写真、この可愛い姿がたまらない。

空腹を知らぬ雀や寒さなか

何時も今ごろになるとあの可愛い「寒雀」の句を詠む。「木偶乃坊写楽斎」さんは感心するほど寒雀の写真を良く捉えていなさる。私も今日の雪の晴れ間を縫って寒雀の写真を撮ろうと、冬になると雀が集まる個所を知っていますので行ってみますと、その場所は、ここ数年ほとんど寒雀の姿が見えない。減少していることは確かですが、数十年前の1/5になったと言われている。雀の住む場所は人の住む付近で共生しているので、気密性の高い住宅の普及によって営巣場所が減少したこと農村部でコンバインの普及によって落ちモミが減少しそれによる冬季の餌が不足したことなどが可能性として挙げられているにすぎない、とあった。冬の雀は温めあうのか群れていますので、また、何時か寒雀を写真にしたいと思っている。晴れた日にお米でも雪の上に蒔いて見ようかなと、つまらないことを考えている。

 寒雀ちかごろ姿見せぬかな

 


飯山市の花  雪椿

2012-01-28 08:35:22 | Weblog

まだまだと思い届かぬ雪椿

郷の衆凍ててもめげず雪椿

しっかり雪囲いされてる合間から撮った雪椿の蕾です。冬の雪と寒さにもめげず、忍耐強い雪国の人々を象徴した花、春になり元気に開花するのを毎年楽しみにしている私です。こちらでは、桜の花咲く少し前の開花だと記憶している。「椿」の花と「雪椿」の花はどこが違うのだろうとふと思う。ネットではユキツバキはヤブツバキに比べ、枝がしなやか、花弁が水平に開く、等の特徴があるとあった。また、花の変異が多く八重咲きの品種改良に大きく貢献した。別名サルイワツバキ。ヤブツバキとの交雑系統を「ユキバタツバキ」と呼ぶとあるが・・・・・・・」何だかよくわからないが、雪椿は椿の散った後に咲くとのことだ。豪雪地帯に適しているのだろう。山茶花は椿に似ていて見分けがつかない。山茶花の花びらは1枚ずつ散る、椿は花ごと散るちがいがある。雪椿の花は新潟県に多いのだろう。小林幸子の雪椿の歌「花は越後の 花は越後の 雪椿」が有名である。

 


居座る雪また雪

2012-01-27 16:10:37 | Weblog

 降る雪やただいつときの綺麗ごと

木々に咲く雪の花には寄り難し

 雪霏々と信濃に魔もの居すはりぬ

雪に雪ふるしずけさや夜の闇

 

晴れる間が無いほどに雪降る北信州、昨日から今日の午後にかけて70センチは降っただろう。下の句のように、雪と言う魔物が居座っているようだ。何時もリハビリの病院には歩いて7~8分のところなので、リハビリのつもりで歩いて通っているのですが、今日ばかりは、雪で道が悪いのでママに車で送ってもらった。リハビリの後、院内を何時ものノルマを歩き終わったので、迎えに来てもらいたく電話すると、ママと次男坊の湧也君が耳鼻咽喉科にかかるので、今出掛けたとのことだった。次男坊は耳糞を掘らせないので三ヶ月ごとに先生から取ってもらうのだそうだ。私も次男坊の診察を待って一緒に車に乗って帰ろうと思い、耳鼻咽喉科の待合室で次男坊の診察を待った。そのうちに看護師さんから名前を呼ばれたので、次男坊はママといさんで診察室に入ったが良いが、直ぐ大きな声で泣きわめいた。十分位の診察だったろう。その間泣き止まることはなかった。診察室から出て来たので、痛かったのと聞くと全然痛くないようだ。では何で泣いたのと聞くと、先生が怖かったからだと言う。ママの言うには前回は看護師さん二人に暴れないようにしっかりと押さえられたのがいやだったようだ。僕、今度から泣かないよと言う。何か気まり悪そうだった。


新年会

2012-01-26 07:23:22 | Weblog

外は雪ながき仲間と酒の宴

熱燗にさそわれ偲ぶ良き時代

福寿草よりそふ仲間古希過ぎし

 この仲間とは、かれこれ四十数年の付き合いである。若き時代は高度成長時代を味わった良き思い出がある。さらに地域の発展、しいては商店街の発展に若き情熱を結集した仲間でもある。だが、努力の甲斐もなく、郊外型大型店の台頭の大きな時代のうねりに飲み込まれようとしている商店街、それに加え過疎と少子化による人口減、政府の無策による不景気の長期化、良いことが一つも見当たらない昨今だ。だが、戦前、戦後と苦しい時代を味わっているためか、明るく強い仲間である。三十人以上いた仲間であるが、今日の出席は十数人だった。若さと希望があった良き時代の四方山話に花が咲いた。



くちすさむ舟唄

2012-01-25 10:16:39 | Weblog

熱燗や明日の英気の舟唄よ

お酒はぬるめの燗が―肴はあぶったイカがいい、で始まる八代亜記の舟唄が好きだ。私は唄のぬるめの燗より熱燗が良い。若い時から、うるさいカラオケの酒場は苦手でしたので、カラオケの無い飲屋さんのカウンターで酒場のお客さんや、女将と世間話をしながら、ゆっくり飲む酒だけだった。唄が苦手なくせに、酔いがまわると、決まってカラオケなしの「舟唄」をくちすさんだものだ。一歌唄うと、明日の英気に繋がるような気がした。二合トックリを軽く3~4本空にする豪酒でした。若い時代の放蕩がたたって、今は病気の総合商社となっている。いくら反省しても若い時代に戻らない。


戸隠のどんど焼

2012-01-24 08:15:44 | Weblog

 太鼓の音神を呼び込むどんど焼き

左義長や戸隠の神火にうつる

                                      「NHK撮るしん」の目崎 貞次さん撮影の「戸隠どんど焼き]

人垣に神の在せるどんどの火

 

毎年恒例の戸隠どんど焼き祭りが行われた。降りしきる雪の中、祓火(はらいび)が燃え上がり、勇壮な戸隠忍者太鼓が鳴り響き、一年の無病息災を祈りました。パパの実家は戸隠ですので、孫達三人はパパとママとで二十一日の「戸隠どんど焼き」を勇んで見に出かけた。冬の戸隠は、ここ飯山より随分と標高が高いため、外にでると顔が痛くなるほどに寒いと聞く、風邪気味の小さな孫達は、風邪ひかず無事に帰って来ることを願う爺でしたが、どんど焼きは無病息災を祈るだけに、火布施の神様が守ってくれたのか無事に元気で「ただいま」と興奮気味で帰って来た。「勇壮な戸隠のどんど焼き」の印象がよっぽど強かったのだろう。下の句の「左義長」は歳時記では(小正月に行なわれる火祭行事)とあった。予断となるが相原左義長と言う俳人がいる。俳人「金子兜太」は相原左義長の俳句は独特だと言う。左義長の場合は独特を求めるのではなく、自〈おの〉ずから独特なのだ。対他意識がなく、自分に即しておもうままに俳句を詠う。こんな句がある「啓蟄や兄の戦艦浮上せず」「被爆ドーム昭和忘れて忘れない」などがある。


恋を求めて

2012-01-23 11:26:27 | Weblog

恋猫や臭いを放ち闊歩する

足跡は災のかたち恋の猫

大寒に入った日は寒かったのですが、この2~3日寒さが緩んだ日が続きます。午前10時ころから時々陽が当ったりかぎったりしている。何時も屋根の雪が気になる私ですので表に出ると、この二日ばかり雨気が続いたので大分雪の嵩が低くなっておりましたが、雨の沁みた雪はかなり重くなっていると思うが、今日も寒さが緩んでいますのでこの分だと融雪しなくても良いかなと判断した。ふと前の駐車場に目をやると、少し前に新しく降った雪の上を隣の家の猫が堂々と闊歩していた。「雪はこんこ 霰やこんこ―猫は炬燵で丸くなる。」なんて童謡があるように猫は寒さに弱いものだと思っていましたが、猫も家の中ばかりに居るとストレスがたまるのだろう。それとも発情を予感してか、恋猫を探すのに寒いなどといって炬燵に丸くなってばかりいられないのかも知れない。

 


北信濃の冬と清々しい空

2012-01-20 12:43:18 | Weblog

凍てつくも吾ふところの千曲川 

 

 

 

楽しみにしている「NHK」撮るしんの写真はこのところ、冬の千曲川が二枚取り上げられていた。上の森山さんの写真は多分湯滝温泉の少し上ではないかと思うので、何時この場所を写真にしたいと思っている。また下の増田さんの写真は「清々しい空」と題して好天の千曲川の写真。いずれにしよ、曇っていても晴れていても冬の千曲川は冷たい。

 

                                                                                                                                                                                               

                                                                                                                NHK撮るしん「森山 春雄さん」さん撮影

私は千曲川とともに大きくなったと言って過言ではない。危険なことも何回となくありましたが、勉強嫌いな少年は、何時も千曲川に遊んだ。鮒を釣ったり、たまには大きな元気な鯉が掛かった。筒網でウナギを捕ったり、夏休みなどは、毎日友達と川原で野球に夢中になった。また、ブラチンで千曲川を泳いだ楽しい思い出ばかり蘇って来る。千曲川は私の「ふところ」である。

                               

            NHK撮るしん増田 恵さん撮影

 


今朝の信毎新聞から

2012-01-19 11:08:27 | Weblog

 

 私共、北信州は数年振りの大雪にてんやわんやだ。高齢者で屋根に登れないお宅は一回の雪おろしの費用は15万円はくだらないと言う。それを大雪で2~3回となれば、年金生活者だと大変な負担となる。融雪設備をした場合に、大変な費用が掛かる上、石油代が馬鹿にならない。最近は新築住宅は急な屋根造りをして「自然落下」のお宅が多くなった。それにしても広い宅地が必要となる。いずれにしても、雪の降る地方は、耐雪の家造りにも大きな費用がかかる。私共は南の地域だからまだ救える。昔から一里一尺と言って、4K北へ行くごとに30cm以上雪が多くなると伝えられている。こんなことが過疎化の大きな要因となる。

 

それぞれの状況、思いやる社会に」全くの同感です。「障害者スペース」を特権として、自分より困難な高齢者や臨月近い妊婦さんに怒鳴るなんて論外だ。このごろの社会は思いやりの心が少なくなっているような気がする。自己称賛ではありませんが、私は、足が不自由ではありますが歩けますので、リハビリの積もりで障害者スペースには車をなるべく止めないようにしています。また、「農閑期の1日に自分の幸せ思う」も共感が持てました。、戦前戦後、食べるに困る時代を経験した79歳になられる投稿者は、私と八歳違いですが、ほぼ同じ年代、苦しい思いをしたからこそ、今の食べることにも、何不自由無く過ごせることにも、数倍の幸せを感じるのだと思います。「田中角栄研究」で田中角栄の金権政治を文藝春秋に発表して有名になった評論家の「立花 隆」さんが言っている「飽食時代の終焉」と題して、日本の経済情勢はこれからどうなるか分からない。不安の連続だ。私はこのままの無策の日本では何時か経済的に破綻するだろう。そうなると自給力のない日本は戦後の配給時代に戻るだろう。飽食の時代はもう終わったのだという認識を持たなければならない、日本の将来は本当に危ないと指摘している。

 


胃カメラ検査

2012-01-18 12:30:44 | Weblog

ひさびさの朝日を包む冬の霧

冬の霧すつきり透り胃も晴れる

 

  冬の霧が覆って先が見えないほどの朝の国道を走る、車窓から撮った写真です。先日、耳鼻咽喉科の先生に喉頭癌の検査をしていただいた折に、喉に痰が詰まって違和感があると報告すると、胃カメラ検査もしておいた方が良いですよと薦められ、今日がその胃カメラの日だ。家内の運転で中野市の病院へ出かける。このごろ左足の動きを鈍くしてから、冬の運転は危険が伴うので、全て家内にしてもらうことにしている。車が高社山の裾野が伸びる中途の辺に差し掛かると霧に包まれた太陽がぼうっと眼にとまった。この分では今日は久々の良い天気となるだろう。カメラの検査のさい先は良好だと自分から決め込んだ。カメラはドックで撮って戴いているので、慣れているはずだが、やはり緊張して肩に力が入る。担当の山本先生の呼びかけと技術が上手なのか、今回の胃カメラはスムースに運んだ。                     

 検査後の先生の説明では、食堂と胃の一部に小さな「ただれ」がありますが、心配ないですよと仰った。私は即座に先生に「いままでで一番苦しむことがなくスムースでした」先生は胃カメラの腕は最高ですねと称賛した。また、二月一日に大腸のカメラ検査を今日の山本先生にしていただく、先生は今度は二月一日ですねと、声をかけてくださった。その上、胃カメラは一年に一度は撮った方が良いですよとアドバイスを下さった。先生に聞くと、カルテでは二年、間を置いたようだった。病院から帰途に就くと雲ひとつない青空の天気が待っていてくれた。

                               


孤独を楽しむ

2012-01-17 08:14:17 | Weblog

孤独さや氷柱のさがる雪の街

人は誰でも孤独です。孤独とはどういうことでしょうか。家族や友人や好きな人に会えなくて、ひとりで部屋にぽつんとしているとき、私たちは孤独を感じます。このようなさびしい感情を表現するときに、私たちは孤独という言葉を使います。                  ところで、孤独にはもうひとつ意味があります。さびしさに耐えられず、好きな人に会いに行ったとしましょう。その人としっかりと抱き合って、さびしさの感情は解消されるかもしれません。しかしながら、あなたの存在そのものは、抱きしめられたその人の腕の中で、やはり一人のまま取り残されるのです。ここに人間の「孤独」の本質があります。/私たちがこの世で生きるかぎり、このような「存在の孤独」を解消することはできません。しかしこれは絶望ではありません。なぜなら、孤独を生きるのは、また幸せなことでもあるからです。道を歩いていて、ふと夕焼けの美しさに足をとめたとき、小学校から流れてくる音楽に懐かしさを感じたとき、それらはまるで、宇宙でひとりだけ存在するこの孤独な私に向かって開かれた、たとえようもなく美しい宝石箱のようなものとして私には感じられます。あるいは、ふだん気にもとめていなかった人から、何気なく優しい言葉をかけてこられたとき、それは果てしなく遠いところから私という孤独な世界にまで届いた清らかな一枚の便箋のように、私には感じられます。存在として孤独を宿命づけられているからこそ、私に向かってときおり発せられる世界の美しい声や優しさを、私はこのうえもなく尊いものとして感受することが出来ます。たしかに孤独はつらいことではありますが、けっして絶望ではないと思うのです。(哲学者  森岡正博)

 

 

 


飯山スキー100周年記念マラソン大会

2012-01-16 14:43:23 | Weblog

 おらが郷こころと食とスキーかな

こらつしゃい沢山あるよ雪と情

    

  

飯山スキーマラソン大会

上の「飯山スキーマラソン大会」の文字をクイックして下さい。詳細が書かれています(URL)です。全国の多数のみなさまの御参加をお待ちしております。