ブログに遊ぶ

ときめきの日々を過ごしたい

一日一生の気持ちで

2016-04-30 05:53:30 | Weblog

翁草今日一日だけのこと考へる

  

 私は数種の病持ちのせいなのか、詠んだ句の如くに、このごろ強く、「一日一生」と今日一日だけのことを考え、毎日毎日を愛おしく大切に過ごそうと思う毎日です。その反面に、毎日生かされていることに感謝の日々を過ごしている。

 

 

 

 

 

 

 

 

そんなわけで、私の身体を心配してくれる少し遠縁にあたる青森の方が、特産の右の写真「黒にんにく」を送って下さった。この黒にんにくの効用を調べると、通常の白いにんにくと比較すると、S-アリル-L-システイン16倍、アルギニン3倍、総ポリフェノール6倍に増加していることが特徴だと説明されていた。その他、健康をサポートする各種必須アミノ酸がたくさん含んでいると言う。今、「黒にんにく」効用が、各方面で評判となっているようだ。毎日この「黒にんにく」を常用とし、食事に気を付けたり、適度の運動に励み、ストレスの貯まらない日々を送るよう務めている。

 

 

 

 

 

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 


復活なった礼拝堂

2016-04-28 17:59:00 | Weblog

 

 礼拝堂こころ洗いの花明り

きさらぎや讃美歌満つる礼拝堂

 

 

                                                                                                                           

 

 私が卒業しました、小学校の直ぐ傍に写真の「礼拝堂」がある。今から六十五年以上も前に                               なりますが、同級生の中で、数人がこの礼拝堂の日曜日礼拝に行っていた、友達の顔を思い出す。ですが、数十数年前から 、この礼拝堂に神父さんが不在となったのか、活動を止めていた。ところが、またここ数年前から、礼拝堂が整備され、日曜ミサ( missa ) 典礼(祭儀)が行われているようで、子供達の教育上にも、なによりだと思う。 新しい牧師さんはどんな方か知りませんが、牧師さんがいない間、傍の洋品店を経営しなさっているAさんが長い間、この教会を維持管理されていた。Aさんの御努力に頭が下がる思いでいる。

                                                          

 

 

 

 

 

 

 

 私は、小学低学年のころから、何だかこの礼拝堂に近寄りがたかった。子供こころに、このちょっと変わった建物に薄気味の悪さを感じていたのかも知れない。時々黒い長い服を着た外国人を見かけたのが不思議に思っていた。今思うと、カソックを着た神父さんだろうが、その頃は、お坊さんのとは違うお寺さんだと思っていてキリスト教を良く知らなかった。そんなわけか、この礼拝堂の中の構造をいまだ知らないでいる。そこでネットで調べ、この礼拝堂の大きさから右の写真のような礼拝堂の中を想像してみた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


菩提寺(本堂)のやまぶき

2016-04-27 04:42:43 | Weblog

 山吹と寺に自然と合掌す

山吹に託せし言葉捜しけり 

 

 先日、自宅前の駐車場に静かに咲く一本だけの「やまぶき」の花をブログにしましたが、菩提寺の本堂の入り口に沢山の花吹が咲くことを思い出し、車を送らせた。既に花がが時期を過ぎたのではないかと心配しましたが、最盛期から少し遠のいたようでしたが、本堂の前にいっぱいに咲き誇っていました。思わずして本堂と山吹に向かって手を合わせた。昨年、菩提寺の総代会で決定した、寺の周りの大きな欅の木の枝落が完成していて、本堂の周りが明るくスッキリとしていた。


熊本県の悲惨さに心痛む

2016-04-26 05:41:14 | Weblog

熊本の神の一撃春のなゐ

地震(なゐ)の後こころ痛みの春の雨

熊本県益城町の地震による家屋の崩壊

長引く余震の上に雨による地滑り災害と、悩みが多い熊本の人々にこころが痛む、私共長野県も他人ごとではなく、長野県を横断する「糸魚川-静岡構造線活断層」がある。

この活断層はかなりの大きさと聞く、もし地震が起これば、地震の規模はM8程度の可能性だと報道されている。

全国から心ある沢山の方々が義援金として協力なさっていることが毎日報道されています。私もネット上で、被災地の益城町は災害の為お返しがありませんが「ふるさと納税」で気持ちを協力させていただきました。 又、ふるさと納税は所得控除がありますので最適だと思います。

 


兄妹会の下見(別所温泉)へ出かける。

2016-04-25 12:27:07 | Weblog

 湯の里に咲く花のあり散る花も

春明り滔々と湧く歴史の湯

   

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

昨日の午後、急に思い立っようにして、来月の四月十六日に行う予定の待望の兄妹会の宿、別所温泉朝日屋さんへ下見に行くことになった。以前から下見に行こうと、家内と話してはいたのですが、昨日は二人とも予定が無かったので急に行くことにした。幸いに、朝日屋さんへ電話しましたら、部屋が空いていることでしたので運が良かった。六十人位の収容の、こじんまりとした宿のようですが、週末の日曜日でしたのに、良く空いていると思った。もっとも、昨日の土曜日が混んで日曜日になると大半の御客様は御帰りになるのかと思ったりもした。大失策のことにあわただしく家を出たせいか、肝心のカメラを忘れてしまったので宿の様子をスマホで撮って来ましたが、何が原因か分かりませんが、写真はみなぼけて撮れていた。仕方無く、今日のブログは朝日屋さんのホームページの写真をお借りした。旅館「朝日屋」さんは「ゆっこらんど」と言う紹介パンフレットで捜し、お願いした旅館でしたので、少し心配でしたが、夕食の料理は写真ほど品数はありませんでしたが、一品一品心がこもっていてなかなか美味しいかった。御風呂もゆったりとしていて、泉質もやわらかく衛生的であった。その上、肝心の、旅館の仲居さん初め従業員さんの教育が行きわたっていたことで、家内とひと安堵しました。翌日の今日、私が急ぎの所要があったので、ゆっくり出来なく早々と旅館を後にした。


移動した七福の鐘

2016-04-24 05:09:41 | Weblog

 

七福の鐘が鳴るなり春惜しむ

 

   

       

 左の鐘楼の説明の看板の字が小さいため、読みにくいと思いましたのでここに、改めて記します。

 「寺は三十六鐘なら愛宕 奥信濃も静寂な美しさを残し、文豪島崎藤村が「小京都」と呼んだ飯山町の町を代表する鐘楼、昭和六十年、「一駅一名物」として旧飯山駅ホームに建設され、訪れる人々を鐘の音で暖かく迎えました。一度訪れ度に一つの願いがかない、七度で七つの願いがかなうと言われる七福の鐘、平成二十七年三月、北陸新幹線飯山駅開業に伴い、旧飯山駅の取り壊しにより、現在地に移転されました。商売繁盛 人望福徳 結婚安産 勤労勉学 延命長寿 勇気受福 愛敬富材 願いをこの鐘の音に 「七福神の鐘 参拝方法」(打鐘不要) 一礼をした後で鐘の前で手と手を合わせながら祈願をし終わったら再度一礼をします。と書かれていた。

 

 


駐車場に凛として咲き満ちるやまぶき

2016-04-23 06:17:52 | Weblog

 駐車場の朝一眼の濃やまぶき

 山吹や懸命に咲き庭明り

山吹や道往く人にみな会釈

 

駐車場の片隅に一本だけ淋しそうに咲く山吹の花、今、一輪一輪が満開で一生懸命に胸を張るように咲いている「やまぶき」に感動を覚えた。この「やまぶき」は家内の実家があった「馬曲温泉」の入り口街道に、既に亡くなられましたが、馬曲温泉の掘削に一番熱心に努力され、村会議員もやられた故「芳川源一」さんが、沢山植えられ「やまぶき祭り」を企画実行さられた、その山吹の一株を芳川さんから分けていただき、家の周辺に植えて置いた。後に、駐車場の片隅に移動し植えたのですが、しっかり根付き、この数年見事に咲いてくれている。


新幹線新駅と在来の飯山線

2016-04-20 07:07:36 | Weblog

 秀麗に触るる景観雪解

春うららゆつたり走る飯山線

 写真の新幹線飯山駅の下に停車している列車は飯山線の在来線である。多分、都会から新幹線でおいでになったお客様をお待ちしているのだろうと思う。JR飯山線は、長野市の豊野駅から新潟県長岡市の越後川口駅に至る鉄道路線(地方交通線)である。また、この飯山線は、千曲川と並行に走っている為に、車窓から現れる秀麗なる景観が見どころであり、只今小さなブームとなっていると聞く、今日のように薄暖かいほどの好天に恵まれた日は、千曲川周辺の山々の支流の雪解けの水が増し、その流れは一層素晴らしいだろうと思う。


初こごみ採る

2016-04-20 04:51:00 | Weblog

呼んでいる大きな山の初こごみ

初こごみ胡麻和旨し夕餉かな

 

「こごみ」は山菜のなかでも真先に春を知らせてくれる。まだ寒さの残る土を割って、濃い緑色の、ぜんまい状の頭が数本萌え出ている姿を見ると、きびしかった冬も一瞬のうちに忘れさせてくれる。家内は実家の山、木島平馬曲地区の奥山へ、仕事休みの孫達のお父さんと「初こごみ」採りに出かけて行った。収穫の結果は残念なことに、少し早かったようで少なかった。馬曲の「こごみ」は奥山せいか、ぬるめがあり、すべらかである、私は、山あいの枯葉や枯草を被って、雪の下で耐え抜いて顔を出した、この「こごみ」は格別に美味しいため楽しみにしている。今夕餉に初こごみの胡麻和えをしてくれた。孫達も美味しかったのか、喜んで「初こごみ」の胡麻和えをほうばった。


北陸新幹線飯山駅開業一周年

2016-04-19 10:08:47 | Weblog

 春の駅メルヘンの世に誘はれて

北陸新幹線飯山駅開設一周年記念のイヴェントに駅構内中二階にある、パノラマテラス(交流ホール)の(天井から下げられた大きな二枚の大幕に圧倒された。このメルヘンチックの大きな絵は藤岡牧夫が描いた「五岳の風」と題した絵が拡大プリントされていた。絵の空には、たくさんの子どもたちが楽しそうに舞っていますが、もう少し経つと、北信濃はこんな風景になることだろう。藤岡牧夫画伯は1949年長野県木曾谷で生まれる。小学校5年から高校までを長野市で暮らす。多摩美術大学グラフィックデザイン科卒業後、フリーのイラストレーターとして活動、飯山から20kほど南の小布施町に「藤岡牧夫美術館」がある。

 


願う五穀豊穣

2016-04-17 06:11:01 | Weblog

 

農はじめ五穀豊穣願ふ村

種を蒔胸ときめかす若夫婦

写真の交差点より上の方は「有尾」という地域で、私共町の一番北側にあたる。ここ一帯は、農家が多く、大多数のお宅は農業に携っている。手前周辺にも田圃が沢山存在する。四月にはいり、農家が何かと忙しくなる。こらから、田植えの準備で早苗作りから、水田準備(荒起し・代掻き)、その上、畑を耕し、種を蒔き、収穫の喜びを味わうための色々な作業に入る季節がやって来た。下の句はあえて「種を蒔き胸ときめかす若夫婦」と詠った。今、私共地方も御多分にもれず農家の高齢化が進んで、専業の若い人の農業者は殆ど皆無と言って良い。何とか儲かる農業にしたいものだと常々思う。

 


赤ポスト

2016-04-15 06:12:48 | Weblog

あたたかや恋文呑みし赤ポスト

 写真の赤ポストのある御宅は「稲田紙店」を経営する、友人の稲田君の家である。彼は飯山の「伝統産業」となっている「内山和紙」を販売している。この内山和紙には、大きな問題と悩みを抱えている。以前は内山和紙の製造は冬の農閑期を利用して冬仕事として良質な和紙を製造したのが有名となり、全国の多くの表具屋さんに人気があった。だが今は、安価な化学和紙の普及と、内山和紙の製造工程が肉体的に大変なことと「内山和紙」職人さんの高齢化により和紙の製造者が少なくなっている、その上、若い後継者がいないため、今では「内山和紙」の存在が危ぶむことになっている。そううそう、今日のブログの主役は赤いポストがある。この類の筒型の赤ポストは珍しくなり、今は私が知り得る市内にある赤ポストは三ヶ所だけだと思う。この明るい色の赤のポストの色が気に入っている。 ふと、この珍しい筒型ポストの歴史が気になり、ネットで調べて見た。

 左側の黒いポストは、俵谷式ポスト明治期の発明家俵谷高七氏が考案したポストです。のポストは、明治34年(1901)に試験的に設置されました。

右側のポストは中村式ポスト中村幸治氏の考案によるもので、明治34(1901)年に試験的に設置されました。赤色鉄製の円筒形で、差入口に雨蓋がついています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

左側のポストは明治41年の回転式ポストは、故障が多いこと、手紙の投入に不便なこと等から明治45(1912)年に回転板を取りはずし、雨よけの庇を付けたものに替えました。この形のポストは長く使われました

右の黄色いポストは「高倉健が主演した映画『幸福の黄色いハンカチ』にちなんで設置された幸福の黄色いポストです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


農を知らせる雪柳

2016-04-14 08:55:12 | Weblog

 雪柳農を立ちあぐ旗じるし

雪柳雪より白く咲き満ちる

謎解けるまでのめり込む雪柳

 昨日Sさん宅へ(エニシダ)の花を撮りに行った帰り道に、今盛んに咲く「雪柳」の真っ白な花に出会う。この雪柳の花は、家内の生まれ在所では、「田植え花」と呼んでいたそうだ。高地の農家はこの雪柳が咲いたなら、米作りの第一歩を初めようと言う農の旗印だったとのことだ。それを聞いた私は「雪柳農を立ちあぐ旗じるしと詠んだ。家内の実家のあった木島平馬曲地区は、家内と一緒になる48年前には、に50戸以上あった。伝統的な「祭礼」などは、村民一丸となり祭礼を盛り上げた。私はその「祭礼」にいくのが楽しみの一つであった。また、田植機など農業機械がないあの頃は人海戦術で「結」と言って田植えなど忙しい時期はお互いに農家の人々は助け合い、お手伝いを仕合い、村人のコミニュケーションが高めた。私も田植えの手伝いに何回となく行ったことが、今では懐かしく思い出す。今のは、淋しいことに、10戸に満たなくなり、伝統文化が全て無くなっている。これは全国何処にでもある傾向のようだが、家内の実家は、雪が降らない須坂市に移転して早二十九年に入る。今になると、大雪で何かと骨がおり苦労した馬曲での生活が長かった兄さん夫婦は、今の雪が無い余りにも楽な生活に、「これで良いんかと」何時も思うと、良く口にする。兄さん夫婦は、苦しさを味わった故の幸せであるのだと思う。今は息子夫婦と孫との三世帯同居生活が、最高のようだ。若夫婦二人とも長野市に務め、孫三人を兄さん夫婦が育てた。馬曲の山の生活では、息子夫婦が長野市へ通うことが出来ないので、核家族となり、二重生活となる。兄さん夫婦は元々農業のため、須坂へ行っても、農家から農休畑を沢山借り、農業から離れることが出来ないようだ。時期になると、沢山の色々の農作物をいただく我が家は大変にありがたい。兄さん夫婦は、生活が掛かっていない気楽な農業を楽しむことが、健康の源となっているのだと思う。