秋の日の毎日めくる詩に学ぶ
「相田みつお」と「大谷てつじょう]の両詩人の一口詩を毎日目を通し、なるべく声を出して読みながら捲るのが習慣となっている。もう何年も読みながらなかなか覚えないでいる。だが二人の一言一言が私の肥やしになっているような気がしている毎日である。
秋の日の毎日めくる詩に学ぶ
「相田みつお」と「大谷てつじょう]の両詩人の一口詩を毎日目を通し、なるべく声を出して読みながら捲るのが習慣となっている。もう何年も読みながらなかなか覚えないでいる。だが二人の一言一言が私の肥やしになっているような気がしている毎日である。
新蕎麦を打つ勢いに見とれたる
名月や男の腕蕎麦を打つ
先日はお父さんの戸隠の実家とその本家に、所要がありましたので、家内と久しぶりに戸隠へ出かけた。用が済んだ後、久しぶりの戸隠蕎麦を味わいたく、行きつけの蕎麦屋さんに行くと、そこは勿論のこと、戸隠は新蕎麦の時期なのか、お客さんの多いのに少し驚いた。戸隠の蕎麦は、私共の富倉そばと違って、繋ぎに「オヤマボクチ」を使っていないせいか、蕎麦全体が白い、つなぎが小麦粉のせいなのであろう。新蕎麦の上手さが分からない私ですが、新蕎麦と聞いて何となく、蕎麦の香りが濃かったような気がした。蕎麦好きな私は一人前だけでは少し物足りないので、お店の方にお願いして蕎麦とたれを追加していただいた。蕎麦の後の「蕎麦湯」が楽しみですので、こころ行くまで、蕎麦湯を楽しんだ。久しぶりの大満足の戸隠蕎麦の舌つつみでした。
秋風のうしろへまはれしじみ蝶 藤田湘子
句の「しじみ蝶」はなんだか分からなかったので、ネットで「シジミチョウ」で調べると見たことがない珍しい蝶であった。「うしろへまはれし」は藤田湘子らし表現の仕方だと思う。私の好きな俳人は、まずは藤田湘子 があげられる。また、現代俳句教会名誉会長の 金子 兜太、前会長の宇多喜代子、現会長の宮坂静生、宮坂静生さんは、私が場末にいます俳句会「岳」の主宰で長野県の在住で、信州大学名誉教授である。宮坂先生は風土詠を得意としており、風土を概念的に捉えるのではなく「地貌季語」を生み出した俳人ですが、。宮坂静生主宰は特に風土を詠んだ俳句が多い。藤田湘子の本「俳句作法入門」何回も読み直していますが、いまだに自分の一部になっていない。
右の写真の藤田湘子の句集「神楽」を読み始めていますが、やはり感動する句に出会うと、ここが洗われる。
「梅一輪一輪ずつの放射能」などは良い。
予期もせぬ高級きはめ秋の味
例の葡萄の農家の友人Y君から高級葡萄が送られてきた。
長谷、先日はわざわざ来てもらってありがとう。分けありの傷物ですが、沢山出たので、長谷を思い出して「ジャイアントマスカット」を送りました。長谷のこと、きっと気を使い、お返しを考えるだろうが、一切御無用だからな。という添え書きが入っていた。思いも無く、たくさんの高級葡萄をいただき恐縮している。今回は彼の言い分を守り、お礼の電話だけにしておいた。
何時も笑顔を絶やさず、健康そのもので、いまだ農業と地域に貢献している彼がうらやましく思う。前にも書きましたが、彼とはかれこれ六十年近くなりますか、高校時代、同じ釜の飯をともにしたバレー部の仲間である。彼は農業科、私は商業科であった。
初秋の湖静寂しずめカヌー漕ぐ
枯れ木立写す鏡や秋の湖 (うみ)
一村 保彦さん
撮影日:2016年8月13日
場所:木曽郡王滝村 自然湖
木曽郡王滝村の自然湖です。朝になるとカヌーを楽しむご夫婦が!Tシャツではちょっと寒い位の朝、仲良く楽しんでいらっしゃいました。
我が信州は沢山の美しい自然に囲まれていることが私の誇りである。幾つだったか若いころ、この王滝村の自然湖へ行った記憶がよみがえった。季節は秋が深まった頃で、湖の周りの紅葉の美しさがいまだ目に焼きついている。こんな文面があった。
木曽御岳山麓にあって、豊かな森林と
清らかな水資源に恵まれた王滝村。
木曽の厳しい気候と大地が育む
樹齢300年の天然木曽ヒノキ林。
幾つもの支流を集めて木曽川に合流した
太平洋に注がれる王滝川の清流。
かけがいのない自然が、王滝村にあふれている。
上高地の大正池の立ち枯れの木々が幻想的だ、王滝村の自然湖の立ち枯れ木とも連想した。予断ですが、俳句では湖(みずうみ)を(うみ)とも読めます。
啄ばめば甘さ広がるスチューベン
信州の日差しの満ちる葡萄食ぶ
弟から毎年戴く葡萄「スチューベン」が届く。弟は仕事終わった後、嫁さんと二人で嫁さんの実家の農家を引く受けている。出荷をして収入が目的の農業ではないので健康のために最上だと思うが、まったく農業には素人な弟、本人曰く、有機農法なので、堆肥播き、草取りが大変なようだ。弟は農業と触れ合い始め、なんだかんだで早六年にはなる。こちらは収穫した果物のりんごはじめ梨、葡萄など、野菜は野菜で、キャベツはじめ大根などいろいろ戴き、食べ物全て買い上げのため大変ありがたい思いをしている。
明日の死を分かるか蝉のしぼり鳴き
鳴き尽し蝉の骸(むくろ)の軽きこと
蝉は七年も暗い土の中で暮らし、やっと明るい地上に出ても、たった七日で死んでしまう…運命にある。このところ、杖を使う状態ですので、車の運転は出来なくどうしても行動範囲が狭くなるため、ブログの話題に困窮しています。そんな分けでどうしても日常生活の小さなことに目をやるブログとなってしまっている。病院の定期健診や、どうしても行って見たいところがあれば、家内の協力を得て家内の運転で出かけるよにしている。日常生活に目を向けるようになると、毎日色々な出来事があるのに気がつく、今は初めて「水墨画」二十号の大きさに挑戦しているが、デッサンが終えていよいよ墨を入れ始めると同時に、私の部屋の網戸に蝉が舞いとまって、命の短きことが分かっているのか、自分の身体を震わして、しぼるように大きな声で鳴き始めた。蝉を見ると、その日を真剣に生きていることが伝わる。私も蝉に見習って充実した毎日を送らなければと思った。
きのこ時落ち着きのない男いて
山きのこ落ち葉の香り鍋にあり
初秋ではありますが、こちらでは山茸の最盛期に入ったようです。先日、知り合いから今年初めての「くりたけ」を戴いた。彼は八十三歳になりますが大変健康でうらやましいくらいです。普段腰を曲げて前かがみに歩いている彼ですが大好きな山へ行くと腰がぴんと立ち腰の痛いのが忘れるほど山に夢中なるようです。彼は大学卒業後、長い間東京でサラリーマンを経験され、会社の常務まで上り詰めた人ですが、定年の年が過ぎても会社の役員として働いていたようですが、思いあって心機一転、田舎暮らになじめない奥さんを置いて、生まれ故郷の飯山へ帰って来て一人で悠々自適の生活を送っている。少し変り種と言われるほどに生まれた故郷が大好きだそうだ。私とは、行きつけの喫茶店で知り合い、今では気の置けない仲になった。彼は春の山菜取りから始まり年中山を友達にしている。彼は沢山の茸始め山菜を採って、知り合いに分けてあげるのが楽しいようだ。彼の山歩きが健康の元なのだろう。
初秋風呂ふぐり萎みし古希なかば
秋のくれ祖父のふぐり見てのみぞみ 其角
きんたまのころげて出たる紙帳哉 一茶
冷奴一品だけの昼餉かな
冷奴気分だけでも汗ぬぐふ
中部関東地方は、連日の暑さでうんざりのようだ。幸いなのか、こちら北信州は残暑に兆しはありますが、日中はせいぜい暑くて三十度未満だ。報道では、昨日あたり埼玉県の熊谷市周辺は人間の地温を超えて四十度近いほどの残暑となるだろうとテレビニュースにあった。
ネットでは
8月8日現在岐阜県多治見ですでに39.4℃を記録しています…。
熊本県菊地市38.5℃
三重県桑名市38.3℃
岐阜県岐阜市38.1℃
とどれも38℃を超えています!
この猛暑はまだまだ続く予報のため、
今後40℃を超える所が出てくる可能性がありそうですね…。
今年の夏は本当に厳しいです!
冷房をうまく使い水分補給を意識しながら熱中症にならないよう気をつけたい所です。
関連記事:2016年は関東で熱中症患者が過去最高に?搬送者数の比較と体が弱い。と報道されていた。
御位牌の祖先と別れ盆送り
盆仕終いこころのギアの切換し
建立した長谷川家の慰霊碑
家内は、お盆が終わり、疲労と空虚感が漂うようだ。御先祖はじめ仏さんをお迎えしたりまたお送りしたりが勿論のこと、親戚の御参りくださる方々の接待、その上、東京の長女一家四人の面倒と、いろいろあわただしい御盆の期間だったようだ。私といえば、家内の手助けが出来ない上に、娘夫婦は盆休みを利用して、夏休み中の孫たちをヂィズニーランドはじめ数箇所へ連れていって殆ど留守だった。そんな分けで家内一人の肩ににかかったお盆であった。何時も思うことは東京の長女がもっと気が利いて家内を助けてくれればと思うのだが、お客様気分ですので、私は我慢ならなく娘を叱ったが、上の空、久しい帰郷のためか、毎日のように、自分の娘達と旦那さんの面倒も見ずして、地元の友達と遊び歩いていた。東京の慌しい生活から開放され友達と会うのが楽しみで帰郷しているのだろうとも思っても見た。娘の旦那さんが、家内の忙しそうな姿を見て良く手伝ってくれたが、家内は元気でいてくれるが、もし病気でも患ったらどうなるるのだろと心配した私であった。
四歳のなにも知らない終戦日
終戦後片足のない叔父想ふ
今日の「けさの一句」に俳人「土井 あき子」さんの推薦する武田禪次さんの「母に聞くその日の家族敗戦忌」が掲載されていた。土井 あき子さんは、戦後71年にあたり、敗戦の日をどう過ごしていたかを聞くことが出来る身近にいることは少なくなった。毎日の生活のなかにあった「その日」を家族はどう受け止め、乗り越えてきたのか。身内のなかでももっとも近い母でさえ、本当のことは言葉をにごしていることも多い、理不尽な日々が一家を襲ってきたことを決して忘れないために、戦争を子や孫に語り継いでいただきたい、とあった。今日は終戦後71回目の終戦記念日を迎えた。下記の大戦で犠牲になった約310万の人々を皇后両陛下が追悼された。天皇陛下はおことばで、大戦について「深い反省」の上、平和を祈る気持ちを示された。安倍首相も戦争を繰り返さない決意を表明した。私は「四歳のなにも知らない終戦日」と詠いましたが、今でも頭から離れない戦争の傷跡を思い出す。それは、母の弟さんが戦地から片足をなくして帰還された。偶然にも傷痍軍人と共に、善光寺の境内で御参りに来る人々に、恵みを求める姿を見てしまった。その時の叔父さんのなんとも言えない姿を思い出す。 その叔父さんには、祖父はじめ父たちも出来るだけの援助をしたようだった。幸いのことに叔父さんは岐阜県の揖斐川町の方と結婚され、片足のない中で努力され、小さな事業を起こした。今でもその事業を息子さんが引き継いでいる。人間はどんな苦境環境におかれても希望を持って努力すれば必ず道が開けるものだと、傷痍軍人の叔父さんから教わった気がしている。
孫たちと過ごすお盆や後幾度
可愛い孫娘がこうして仏壇に御参り姿を見られるのは、後数回だろうと、病気持ちの私は、ふと淋しい思いが走る。御盆の最中だからだろうか、今日は八月十四日、明後日になれば、御先祖始め仏様の霊が御墓に御帰りなる送り盆となってしまう。三人の孫達の幼稚園は「のの様」がいる浄土真宗のお寺さんの幼稚園でしたので、何となく「ののさん」を理解している様子だ。今の殺伐とした世に、心の教育の大切さを痛感するこの頃である。
迎火に星のかがやきありにけり
迎火や孫たち少し利口ぶり
迎へ火や余生定まらぬものなりき
本日夕方、薄暗くなった時間に、例年の如くに迎火を炊いて、墓場の御墓に鎮座する御先祖さん始め数人の仏様を自宅にお迎えした。午前中涼しいうちに、孫達とお母さんである娘と婆が、御墓を清めながら、お参りして来てくれた。迎火には、孫たちはじめ一家総出で丁寧に手を合わせて仏様をお迎えすることが出来た。婆は、孫たちに、今、みんなが元気で居れることは、お迎えした人達がいたからなんだよ、感謝しなければいけないよ、と説明していた。お兄ちゃんの椋一君と、次男の裕也君二人は理解したらしく、うなずいていたが、末孫の絢音こと「あーちゃん」はそしらぬ顔をして婆の話を聞いていた。