年新た亀の如くに七十路
来年の年賀状の大枠が固まり、大体決まった。龍の下の空白部分は手書きにし、差出人に合わせた心のこもった年賀状にしたいと思う。来年の七月二十九日に七十一歳になります。人生ここまで来ましたら、七十代を、亀のごとくに慌てずゆっくりと楽しみながらゆるやかな路を歩みたいと思います。
我が家のマスコット亀太郎君
年新た亀の如くに七十路
来年の年賀状の大枠が固まり、大体決まった。龍の下の空白部分は手書きにし、差出人に合わせた心のこもった年賀状にしたいと思う。来年の七月二十九日に七十一歳になります。人生ここまで来ましたら、七十代を、亀のごとくに慌てずゆっくりと楽しみながらゆるやかな路を歩みたいと思います。
我が家のマスコット亀太郎君
大根の有機無薬とはやりごと
カメラの調子が悪く写真はネットより拝借
何時も感謝の連続ですが、午前中、家内の兄さん夫婦が毎年越冬用の土付き大根を沢山持ってきてくれた。兄さん夫婦は今年は試験的に無農薬で大根を育てたようです。確かに例年のように真っすぐでなく曲がった大根もあった。有機野菜つくりは、草取りから虫よけまで大変な労力のようだった。年をしたので来年は減農薬にすると呟いていた。ネットで調べると無農薬大根は大きかったですが五本で1300円で売っていた。となると三〇本位戴いたのだから大変な金額になるのだと痛感した。兄さん夫婦が帰った後、新聞を開くと偶然なことに「けさの一句」に(無農薬大根に列都庁前)と野口明子さんの句が乗っていた。近年市民運動のように無農薬野菜が人気を博している。一環として青空市場で無農薬の野菜が売られて人気が高いと聴く。句では公の場である(都庁前)の措辞によって市民権が得たようである。一口に無農薬、有機野菜などと言うが、農家の作る身になると2~3倍の手間がかかる、従って価格も上記のように相当高いものになるはずだ。
冴ゆる世を吸いこんでくれ干支の龍
ここ五年ほど親戚初め、友人、知人に、二十数枚干支の色紙を差し上げている。数日かかってやっと来年の干支の龍を画き終えた。一周するには後六年、元気で描くことが出来ることを願う。欲出して、その上もう一周描くことを目標にしたい。けして上手いとは言えない毎年の干支の画ですが、楽しみにしてくれている人達がいますので、私の張りあいのひとつになっている。
南天の実ひっそりと庭守る
南天葉実に奪はれし化粧せず
実南天真っ赤に染まりどんと晴れ
我が家の狭庭には、冬を迎えて色のある植物は遅咲きの黄色い菊と真っ赤に染まった「南天の実」しかない。誠に殺伐とした庭です。この南天の実は陽あたりの良い西側に植わっているせいか、毎年赤の色が冴えている。。この写真は二日前に撮ったのですが、今日だと、家内に冬囲いされ、縄でぎりぎりに縛られてしまっていた。ナンテン(南天)は不浄を清めるということで,お手洗いの外に植えてあったり、また,料理の飾りに南天の葉をあしらったり,ナンテンの箸というのも食あたりを防ぎ,長寿を祈願するということで好まれるようである。俳句では「南天の実」は秋の季語とすることもあるようです。
寒椿明治の証し教へ候ふ
毎朝お参りする仏壇の前で、なんとなく祖父母の御位牌を見ていたら、偶然にも今日は、お祖父さんの命日だ。昭和三十三年(73歳)の今日である。お祖父は白い「寒椿」の花言葉のように、何時も謙虚で、自分を誇張しない控えめな人だったと記憶している。ですが。明治の人らしく秘めたるしっかりとした何事にもぶれない人生観を持っていた。祖父は「商人はお客さんに生かされているのだから、お客さんを超えた贅沢をしてはいけない」。と、この言葉が口癖であった。たしかに、祖父の生涯はでしゃばることなく地味な人生だった。私は高校二年の時に脳梗塞での死であった。今の医学でしたら、生き延びたのだろうと、同じ病気の私は何時も思わされています。もっと沢山のお祖父さんの人生観や経験談を教わりたかったといまだに思う。
病院に寒さをのませ歩くかな
寒い冬は暖房の効いた病院内の廊下を歩行運動の道とするのが有難いことである。院内一回りするのに、今の私は八分かかる、春までに少しずつ縮めて六分くらいにしたいと思っている。リハビリの先生に焦ってはダメですよ、富士山は五合目から急に頂上へ登りませんよと忠告される。こうと決めたら、持ち前の頑張り屋と言えば聞こえが良いが、どうしても成し遂げなければ気がすまないのだ(この性格が失敗の連続である)。七十歳になっても治らない。相変わらず無理して周りを心配かけてしまう。困ったものだと何時も思うのだが・・・・・・」
山に来て遠き山見ゆ良夜かな
秋深し石が顔出す千曲川
飯山線一輌列車帰省の子
秋深む拭き重ね行く小皿かな
(信毎俳壇の特選句、近藤善太郎さんの句)
先日病院のリハビリセンターで一二月の予約を取ろうと受付窓口に行きますと、車椅子に乗った先客がいなさった。その方の後ろへ周り待っていますと、車椅子のかたがいわく「その日は俳句教室の日で他の日にお願します」とおっしゃった。上達しない俳句を齧る私は、咄嗟に失礼を顧みず「俳句をなさっていなさるんですか」と車椅子の方に声をかけた。その方は静かに「はい相変わらずですが、豊田の近藤と申します」と答えてくださった。再び咄嗟に、いつも、「信毎俳壇」(高グレード)で特選句に選ばれるあの「近藤善太郎」先生ですかと感嘆しますと、先生なんてもんじゃないですよと笑っておられた。近藤さんの話だともう五十年も俳句に親しんでいて、教室もいくつかお持ちのようで、震災のあった栄村まで行くとのことだ。各地にかなりのお弟子さんがいるのだと思った。ときどき、リハビリ―でお会いしておりましたので、互いに軽く会釈する程度でした。近藤先生は数年前に交通事故に会って、今は改造車を運転をなさっているようだ。改めて思う、上手く俳句を詠める方は、皆さん頭の回転の良い若い時代から始めた方が殆どだ。私みたいに六十半ばから暇つぶしで始めた俳句など足元にも及ばないはずだ。でも、上達しなく、下手でも、ボケ防止の為に、好きな俳句を持ち前の心臓の強さで続けて行こうと改めて思う。
半世紀句に勤しみし石蕗の花
近藤先生を詠む 正義
野沢菜漬送る次男の顔浮かび
スキー客野沢菜漬が主役かな
野沢菜は漬込みの前に洗います。野沢菜発祥の地である野沢温泉では、温泉(源泉麻釜の湯)で野沢菜を洗うお菜洗いが秋の風物詩として有名です。温泉で洗うことで、虫離れと、丁度良いやわらかさになると言われています。 先日道の駅(千曲川)に娘に送る里芋を買いに行ったついでに野沢温泉まで車を走らせました。丁度運よく源泉の湯釜で民宿のおばさん二人がにぎやかに笑いながらたのしそうに野沢菜を洗っていました。話を聞くと、、もう殆どの旅館や民宿は野沢菜を漬けたようです。私達も、そろそろ最後の野沢菜洗で、この野沢菜は霜に当たったので漬かると、ぬめりがあって最高ですよ、都会の息子さんや親戚に送るんだと楽しそうに話していました。以前から本場野沢菜の洗う風景をブログにしたいと思っておりましたので間にあって良かった。この三日、奥信濃の特産、野采の話題が続きました。
里芋や仲をとりもつ親子かな
里芋は長女にとって宝物
「農家の直売所」道の駅へ家内と出かける。今、全国で大人気の「道の駅」。飯山市も国道119沿い(郊外)にある「道の駅」千曲川は何時行っても混雑している。県外のナンバーのお客さんでいっぱいだった。旬のごぼう、野沢菜、きのこ類、長芋、里芋、ホウレン草初め葉物、りんご初め沢山の果物など、採りたての農家直売の新鮮で安い特産品を買い求めている。特に写真のやわらかく、ぬるみと粘りのあるおいしい(木島産)の里芋が豊富に出品されていた。この里芋の美味しさが評判となり、よく売れていました。東京の長女がこの里芋が大好物ですので出初めから数回となく送っている。娘の義母の伝受か、里芋を洗って剥かないでそのまま蒸し上げて皮をむきながら塩を付けて食べるのがおいしいと聞いたので、家でも試みましたが、やはり薄味でことこと煮上げた里芋が私には最高である。
退院後、行動範囲が極端に狭くなりまして、ブログにする話題がなく困っているところへ風邪で五日ばか伏せっておりました。病院の呼吸科の先生から肺のレントゲンを撮ってもらい、抗生物質をいただき、飲み始めて三日に成りますが今朝あたりから調子が戻った気がしています。明日あたりから車を走らせ、何かを拾いブログにしたいと思っております。
わだかまり仲を取り持つ炬燵かな
今朝、三国山脈の志賀高原当たりが薄らと冠雪となった。部屋の中は暖房が利いているのか、さほどに寒さを感じませんでしたが、窓を開けると、寒風が顔に沁みて来た。いよいよ寒さの到来だ。今日は外を歩かないでリハビリの前に病院の広いフロントを数回まわって運動としようと思い、リハビリ時間の一時間前に病院に行きみっちり歩いた。病院の中は暖房が利いていて快適な歩行運動となった。
3k位はたっぷり歩けるので、これから寒くなるので、この手は最適だなと思った。
ただいまといちもくさんのお炬かな
一週間くらい前に我が家でも炬燵を据え付けた。今年は大きな炬燵にしたので12畳の茶の間が狭く感ずる。炬燵の温もりを知っているお兄ちゃん二人は話し合ったかのように幼稚園から帰るなり暖かいお炬にいちもくさん、爺はその瞬間を見たのですが、後からブログにしようと思いたち、改めておにいちゃんの炬燵に潜り込んでいる姿を頼んで撮ろうとしたら、あーちゃんも仲間に潜り込んで来た。その姿の可愛さに思わず微笑んだ。
がさがさと落葉の中の朴落葉
ふはふはと朴の落葉や山日和 松本たかし
家内の実家のの下の(平沢)に写真の林道がある。私が気に入っている場所のひとつです。秋口にはこの先の山に家内の兄さん夫婦のなめこ山があるので、足の効く頃は何回となくなめこ山に登った。、この道は今ごろ落ち葉で埋まっているころだと思いたち、家内の運転でここを訪れた。思った通り、何とも幻想的な光景でした。草履のような大きな落ち葉が散乱していたので、朴の木があることに今更ながら気が付いた。
万人の草履ちらばる朴落葉
軽快のバンド奏でる小春かな
中野西高校のマーチングバンド軽快なリズムに乗り乗りの演奏でした。
昨日と本日の二日間北信病院の病院祭が行われました。つい最近までリハビリ入院でお世話ななったので、看護師さん達に改めてのお礼と、入院で偶然に同室となって、何かと励まし合った宮崎君(高校時代の同級生)はまだ入院しているのではと思い病棟へ顔を出した。看護師さんの関吉さん、白井さん、米沢さん、小林さんなど四~五人の懐かしい顔の看護師さんに会った。元気そうな私を見て皆さん大変に喜んでくださった。肝心の宮ちゃんですが、連日痛い痛いと苦しんでいましたが、会うと顔色も良く清々しい顔をしておりました。奥さんも居たので、聞いて見ると、心臓病があるので腰の手術が出来ないと主治医に言われていたのですが、余り腰が痛いので一か八かで手術を懇願したそうです。手術が大成功で今まで四ヶ月も痛さに苦しんだことがケロットしたようです。この分だと自宅で正月を迎えられると奥さん同様に大変喜んで居りました。息子さん(東京大学付属病院の医学博士)の意見が大分あったのではと推察した。あの痛そうな宮ちゃんを知っている私ですので、自分のように嬉しかった。
七五三あまたの夢を持てるかな
秋晴れの好天の恵まれた土曜日の午前五歳と三歳のお兄ちゃん達の七五三のお祝いをした。着物と袴をはかせてもらい、腰に短刀と千歳飴を持ち、何だかわけ分からないような顔のお兄ちゃん達二人でした。
宮司さんは、うやうやしく二人のお兄ちゃんの 明日の世の光となれり七五三
成長を祈願してお祓いをしてくだださった。
今日は絶え間がく、後から 、後からと 七五三んのお祝いの
家族が見えていた。
この子等の明日を憂ふや七五三
可愛い孫の将来をふと考えるとき「不安」と言う二文字がつのる、少子化の社会、そして益々グローバリー社会、教養のない爺でもなんとなく、日本の良さが益々なくなり、生甲斐の無い社会になるだろうと、孫を見る度に余計な心配となる。