求めづに禅を極めた雪の庵
正受庵の創建は寛文6年(1666)、慧端(松代城主真田信之の庶子とも)が開山したのが始まりと伝えられています(当寺は寺とは認められず寮庵扱いだったそうです。)。慧端は飯山藩主松平忠倶と縁が深く、寺領200石と堂宇の建立など寄進しようとしましたが慧端はこれを固辞し水戸光圀(黄門からの招請も辞退したとも言われ享保6年(1721)80歳で死去するまでこの地に留まり臨済宗中興の祖と呼ばれるまでになりました。宝永5年(1708年)には、白隠が正受庵の慧端を訪れた。来庵に先立って、高田英巌寺にて聴講していた白隠は、鐘の音を開いて悟りを開いていた。しかし、聴講に同席していた慧端の弟子の宗覚が白隠の慢心ぶりを危ぶみ、慧端を訪れることを勧めたのであった。慧端は来庵した白隠の慢心を見抜き、山門から上ってきた白隠を蹴落として、その慢心を打ち砕いた。慧端は、時には廊下から蹴落しさえする辛辣な仕方で白隠を指導し、ついに白隠も正受を認められた(蹴落坂)正受庵は基本的に寺領を持たず檀家もいなかった為修業道場として利用されていましたが文政3年(1820)に五世東瞑が藩命により退去となり無住寺となり弘化4年(1847)の善光寺大地震により大きな被害を受けました。慧端の旧跡ということで本堂はすぐさま再建され、その際旧材を再利用しほぼ同じ様な形で建て替えられたそうです。明治6年(1873)に無住で檀家がいなかった事から正受庵は廃庵となり荒廃が進みましたが明治17年(1884)に山岡鉄舟・高橋泥舟らが尽力を尽くし再興、寺宝を集めなおしました。 「 飯山歴史集より」
私は、正受老人は八十歳で死去するまでの四十五年間、水戸光圀(黄門)からの二度の招請も辞退し、臨済禅のために精進する日々を正受庵で送り、生涯にわたって世俗的な栄誉を求めることがなかったことに感銘を覚える。
「正受老人の一日暮らし」
吾れ世の人と云ふに
一日暮らしといふを工夫せしより,
精神すこやかにして,又養生の要を得たり.
如何ほどの苦しみにても,一日と思へば堪へ易し.
楽しみも亦(また),一日と思へば耽(ふけ)ることあるまじ.
一日一日と思へば,退屈はあるまじ.
一日一日をつとむれば,百年千年もつとめやすし.
一大事と申すは,今日只今の心なり.
正受老人集