ブログに遊ぶ

ときめきの日々を過ごしたい

寒禽が木霊する

2013-01-31 16:23:59 | Weblog

寒禽の鋭声透かし鳴きひびく

一渓をへだて寒禽応へあふ

木島平馬曲地区の山林

先日、家内に私が足に自信がないので御悔みに行った時「馬曲温泉」の周辺の何処か雪の林を撮って来てくれと頼んだところ、場所がさなかではありませんが、雪の中を漕いで写真を撮って来てくれた。以前から「寒禽」の句を詠みたかったのですが、いざとなると思うように詠めないく大変に苦難し、やっとの思いで詠んだ駄句である。満足の句は詠めませんでしたが、時間を浪費するばかりなのでこの辺で諦めて今日のブログとしました。ちなみに寒禽は、渡り鳥、留鳥の別なく冬に姿を見せる小鳥で「冬の鳥」ともいう。寒さでふくれている鳥や寒さの中で生き生きと活動している鳥もいる。チッチッと鳴きながら枝を渡り啄んでいる。

 

 

 

 


家内の親戚の姉さん逝く

2013-01-30 17:04:13 | Weblog

冬ざれや夢を観るかに昇天す

 


写真はネットから

 普段の顔そのままの良い顔して亡くなっていた。と、御線香を上げに行って帰って来た家内の一言であった。家内の義姉の実家、つまり姉さんの弟さんの妻が、一月二十九日の夕方腹が痛いと村の診療所の先生から診ていただき、薬を処方していたいただいて、その夜は薬を飲んで寝たと言う。姉さんは、家族が朝食になっても、珍しくおき起きてこないので不思議に思い、大学が休みで帰って来ている孫がお婆ちゃんを呼びに寝室に行くと、反応がなくすでに冷たくなっていたと言う。検診の結果、心筋梗塞で亡くなったと診断、一応不審死とみられ警察も調べに来たと言う。隣に寝ていた夫は何の苦しみもなく余りにも静かに亡くなったので、気が付かなかったという。六十九歳の死であった。家内は、孫にも恵まれ、夫と息子の三兄弟が仲良く経営している仕事を手伝いながら、そのかたわら「馬曲温泉」の食堂で甲斐甲斐しく働いていた姉さんは早すぎた死だったけれど、苦しむことなく逝ったこと、考えてみれば幸せだったかもしれないと一人で呟いていた。綺麗に化粧をしてもらった妻に、夫の兄さんいわく、四十六年前俺のところへ嫁に来た時と同じ顔のような気がすると言っていたと言う。感慨深い話だと思った私である。

 


雪の正受庵

2013-01-29 14:25:30 | Weblog

 求めづに禅を極めた雪の庵

正受庵の創建は寛文6年(1666)、慧端(松代城主真田信之の庶子とも)が開山したのが始まりと伝えられています(当寺は寺とは認められず寮庵扱いだったそうです。)。慧端は飯山藩主松平忠倶と縁が深く、寺領200石と堂宇の建立など寄進しようとしましたが慧端はこれを固辞し水戸光圀(黄門からの招請も辞退したとも言われ享保6年(1721)80歳で死去するまでこの地に留まり臨済宗中興の祖と呼ばれるまでになりました。宝永5年(1708年)には、白隠が正受庵の慧端を訪れた。来庵に先立って、高田英巌寺にて聴講していた白隠は、鐘の音を開いて悟りを開いていた。しかし、聴講に同席していた慧端の弟子の宗覚が白隠の慢心ぶりを危ぶみ、慧端を訪れることを勧めたのであった。慧端は来庵した白隠の慢心を見抜き、山門から上ってきた白隠を蹴落として、その慢心を打ち砕いた。慧端は、時には廊下から蹴落しさえする辛辣な仕方で白隠を指導し、ついに白隠も正受を認められた(蹴落坂)正受庵は基本的に寺領を持たず檀家もいなかった為修業道場として利用されていましたが文政3年(1820)に五世東瞑が藩命により退去となり無住寺となり弘化4年(1847)の善光寺大地震により大きな被害を受けました。慧端の旧跡ということで本堂はすぐさま再建され、その際旧材を再利用しほぼ同じ様な形で建て替えられたそうです。明治6年(1873)に無住で檀家がいなかった事から正受庵は廃庵となり荒廃が進みましたが明治17年(1884)に山岡鉄舟・高橋泥舟らが尽力を尽くし再興、寺宝を集めなおしました。                         「 飯山歴史集より」

私は、正受老人は八十歳で死去するまでの四十五年間、水戸光圀(黄門)からの二度の招請も辞退し、臨済禅のために精進する日々を正受庵で送り、生涯にわたって世俗的な栄誉を求めることがなかったことに感銘を覚える。

「正受老人の一日暮らし」

吾れ世の人と云ふに
一日暮らしといふを工夫せしより,
精神すこやかにして,又養生の要を得たり.
如何ほどの苦しみにても,一日と思へば堪へ易し.
楽しみも亦(また),一日と思へば耽(ふけ)ることあるまじ.
一日一日と思へば,退屈はあるまじ.
一日一日をつとむれば,百年千年もつとめやすし.
一大事と申すは,今日只今の心なり.
                    正受老人集


俳優菅原文太さんの講演

2013-01-28 08:59:55 | Weblog

 福寿草農に夢をと文太さん

映画俳優として「仁義なき戦い」「トラック野郎」「青春の門」などの大ヒット作で有名な「菅原文太」さんが御隣の木島平で講演した。今は俳優のかたわら、2009年(平成21年)より山梨県韮崎市で耕作放棄地を使って農業を始めている。近年は農業政策等に高い関心を示し、多数の講演活動も行っている、その経験を生かした有意義な木島平村での公演だった。私も親戚の兄さんに誘われ講演を聞きに行きましたが、農業にはとんと経験もなくうとい私ですが、菅原文太さんの大きな人間性に触れることが出来た。写真を撮らないようにと言うことなので撮れなかった。


夫婦ともに雪かた附け

2013-01-27 09:00:41 | Weblog

寒の朝二人の絆雪かたし

 昨日の天気予報では、夜半に50cm以上の雪が降ると報道しておりましたので、かなり降ると覚悟していましたが、朝起きて見るとさほどの雪でなかった。新潟北部かから東北地方の日本海側と北海道に吹雪と大雪が降る予報だった。写真は隣の中華料理店の御夫婦が力を合わせて駐車場の雪かたずけの様子です。一回一回スノーダンプに乗せた雪を流雪溝に流すという作業、根気のいる仕事である。御主人は私と同じ年、羨ましいほどに元気で第一線で活躍である。彼の御母さんは百歳以上まで元気でいなさった。彼は晩酌のビールを楽しみに、御夫婦仲良く中華店を経営している。昨日の仲間の新年会も、彼の御店に御世話になったばかりである。病気持ちで、早十四年も仕事をしない私は、彼を見ると何時までも健康で頑張ってもらいたいと思う。


新年会

2013-01-26 12:22:45 | Weblog

若かりし時代を偲ぶ新年会

新年会白髪なれど気は滾る

 作日、若かりし頃から長く付き合いのあった仲間の新年会、カメラを持っていかなかったので殆ど同じメンバーですので昨年のブログから引っ張った写真です。昨年より二~三人は多かった。髪も白く薄くなり、すでに第一線から退いたメンバー、貧しい苦しい時代から高度成長時代とめまぐるしく過ごした連中、知りすぎた仲間なのでこれと言って改めて話すことはないが「今の時代はどうなっているんだ」俺たちにも責任の一端はあるが、政官財に肝の据わった筋金入りがいな過ぎる。ただグローバリー、グローバリーと逃げればいい気になってしょうがねーなーの一言。そんなことお構いなしの仲間と思ったが私と同じで、今の社会を愁いている一端が見えた。久しぶりに和牛の美味しいシャブシャブと旨いお酒を頂戴した楽しい一時であった。


ボインセチア

2013-01-25 23:48:36 | Weblog

 

ポインセチア置けば心の余白出づ

ポインセチアに熱き心が生まれをり

 先日、病院の帰り久しぶりに中野市の中心商店街へ車を走らせた。この街は電線を地下に埋設し道路を拡幅して、お金が掛かった再開発の八分が完成したようですので、綺麗な広々とした商店街となったが、客足はポツンポツンとしか見当たらない。方々にある商店街と同じく衰退の一途のようだった。シャッターの降りた店があちこち出初めていた。再開発の為店舗を新しく建て直した商店が借入金が負担となり経営に圧し掛かっていると聞く。ここも私共飯山の商店街と同じく郊外型大型店に対抗策がないのだろうと思う。商店街の駐車場に車を置いて、家内と街を歩いていますと、綺麗な生花初め鉢植の花が店内いっぱいに陳列している花屋さんの前で足が止まった。店に目を覚めるような赤と緑の観葉植物のポインセチアが目に入った。沢山の中から良さそうな鉢を手に持つと、余り綺麗なので心が熱くなった。このポイセチアを自分の部屋の窓に飾ったら、さぞ、心に余白が出来るだろうと思った。一鉢3800円と値札が付いていた、少し高いと思ったが家内と相談して奮発して買い求めた。店員さんの接客もなかなかでした。この花屋さんのように努力している繁盛店があるのだから、商店街が一丸になって努力すれば道が開けるのではないかと明るい気持ちとなった。


諏訪湖御神渡り

2013-01-24 08:17:14 | Weblog

御神渡もつと激しく恋の路 

先日一月二十二日に認定された御神渡

 諏訪湖で二十二日、湖面に張り詰めた氷がひび割れ、筋状にせり上がる「御神(おみ)渡り」が出現した。神事をつかさどる八剣神社(諏訪市)が同日夜、臨時総代会を開いて正式に認定し、湖上での拝観式の日程を決める。御神渡りは昨年二月四日に四季ぶりに出現しており、二季連続となる。

全面結氷後、昼夜の寒暖の差で氷が膨張と縮小を繰り返し、割れ目が盛り上がる現象。その道筋は、諏訪大社上社(諏訪市)の男神が、湖を渡って対岸の下社(下諏訪町)の女神に会いに行った「恋の通い路」と伝えられる。歳時記に「御神渡」は「氷結した諏訪湖で、氷が一夜にして大亀裂を生じ、氷が盛り上がるさま。諏訪明神が渡御する道とされる」として立派に冬の季語となっている。言葉地貌季語)を発掘してきた宮坂静生先生が言う「地貌季語」となるのかもしれない

御神渡厚ければなお厚き恋

 

昨年の二月六日四年ぶりに認定された諏訪湖御神渡


雪おろし

2013-01-23 08:13:00 | Weblog

男たち屋根を舞台に雪下ろし              

 お隣では今冬一回目の雪おろしとなりました。大きな家ですので10人ほどの人夫さんが屋根に上っていました。降ろした雪をダンプで千曲川の河川敷に運ばなければならないので一回の雪下ろしで二十万円は掛かるそうです。一冬に二回降ろせば四十万円雪の費用は重く圧し掛かると思う。年金生活が主な御夫婦は大変な出費となるとだろう。雪を降ろす業者はお金が入り、お隣のように出費する方がいる。飯山の経済は大雪の年は景気が上昇すると言う。各建設会社のダンプ車が市県道の雪かたずけで忙しく走り回る。その分市の負担が圧し掛かる。雪が降らないとスキー場が景気が悪くなる。やはり雪国は適当に雪が降らなければ経済が回らないのだろうと思う。

傘寿なる雪に負けじと心意気


お昼の立蕎麦

2013-01-22 08:14:12 | Weblog

信州の喉にすべらか寒の蕎麦

 昨日の俳句教室の成積はメタメタだった。自信作と思うこと事態、うのぼれと反省が仕切りである。三句掲出の内二句も訂正指導されてしまった。家へ帰ってじっくり復習反省したいと思った次第です。何時も俳句教室の後のお昼は教室の下にある喫茶店でサンドイッチとブレンドコーヒーのMをいただくことにしている。何時も四〇〇円なりの質素な昼食である。今日は暖かい、信州立食い掛け蕎麦と思い、久しぶりに駅構内の蕎麦屋さんで喉を潤す。今日の句、蕎麦だけは歳時記にはなく、蕎麦の冬の季語は、「蕎麦掻」「蕎麦刈」「蕎麦干す」「蕎麦湯」で蕎麦単独では俳句とならない。そんなわけで勝手に「寒の蕎麦」と読ませていただいた。「初蕎麦」と読みたいところですが「初蕎麦」は「新蕎麦」と同じく秋の季語となる。小さな疑問ですが冬に蕎麦をおいしく食べた場合は季語は「蕎麦」を使えないとすればどうすればよいのだろう。次回の教室で先生に聞いてみたいと思う。

 


今日は大寒

2013-01-20 09:48:33 | Weblog

 マスクして道を拾ふや寒の朝

       大寒や明日へきちんと枕置く(今朝のラジオより)

 

今日は一月二十日大寒の日である。一年でもっとも寒い時期という、今日は昨日よりゆるんで暖かい、小寒から数えて十五日後とされており、小寒から大寒までの十五日間と大寒から立春までの十五日間の合計三十日間を「寒さの内」とい言われている。今私共地方はインフレンザ、ノロウイルスが流行っているようだ。昨年は三月に入ってもインフレンザガが流行した.まだまだ雪と寒さとの戦いの日々が続くことだろう。私は風邪ひきが禁物ですので、しばらくは歩くことも自粛の時が続くだろう。

大寒やいま痩せどきの千曲川

 パソコンにあった常盤大橋から戸狩温泉スキー場が望む冬の千曲川

 


雪女郎の夢

2013-01-19 14:22:46 | Weblog

夢芝居追いし追われぬ雪女郎

写真ネットから

 この連日の雪のせいなのか、この世にいるのかと思うような超美人の「雪女郎」が舞台に立った夢を見てしまった。何時もその夜の夢はすぐに夢のように消えてしまうのですが、昨夜見た、美人雪女郎の夢はいまだ消えないでいる。夢に出て来た美人雪の妖怪は私を目向きもせずに、何故か、また若い時代の恋仇だった友が出てきて美人雪女郎を夢中にさせた。久しく、ドキドキと胸がときめいた夢だったのに、またしても、もてる男に奪われて、私は劣等感さいなまれてしまった。そんなに良い男ではないのに何時も負けてしまう。夢に見る恋仇の彼を何時かキャフンとさせたいのですが、何時も負けっぱなしの私である。またしても後味が良くなかったが、反面恋の夢なんぞは久しぶりでしたので、なぜか悔しさが忘れて一人ニヤニヤの昨夜の夢だった(笑)


大好きな煮凝

2013-01-18 10:10:35 | Weblog

煮凝のごとく固まる家であれ 

写真はネットより

昨夕食はカレーの煮付けだったので家内に二切れ余計に煮るように頼んだ「家内は煮凝りにするの」と言う。何時も今時分の寒い時期にゼラチン質の魚を食べて煮凝魚にして、暖かい御飯に乗せていただくのは大好きな私である。魚ならなんでもかたまりますが、特にフカザメなど鮫類やエイやカレーなどは良く固まる。煮ることで魚の皮のタンパク質、コラーゲンを溶かしだし、冷やせば固まる。今は寒さで窓際に一夜置くだけで、煮凝りが出来る。また、和食料理としてなかなかおつなものだ。良くゼラチンの出る魚を好きなように煮て、骨とかヒレとか食べられない部分を取り除き、いくらか身を残してだし汁と一緒に型に流し込んだら冷蔵庫で固め、固まったら中身を抜いて包丁で切って皿に盛り、南天の葉か生生姜を薄く切って添えると特殊な寄せ物の一品料理となる。


気が乗らずの水墨画

2013-01-17 08:30:48 | Weblog

 筆乗らず父の形見の初硯

 

 

新年二日の書き初めに、左の水墨画、霧の掛かったブナの林を画こうと決めていましたが、何故か気が乗らずして遂に今日は十七日となってしまった。七十歳過ぎた人生、増しては病持ちの私ですので、一日一日を濃縮に過ごさなければと、新年の誓いにしたはずなのに、またまた持ち前の怠け癖が持ち上げている。若者は豊富な時間に恵まれているが、その分、未来に対する希望と不安が大きいが、高齢者は、持ち時間は少なく、人生サバイバルレースの生き残りである。希望と不安と覚悟のちがい。それが老若のちがいであると言い切れると、何方かの本で読んだ記憶が蘇る。生前の父は筆字をたしなんだ。遺品を見るとかなりの字を書いた。その父の残してくれた硯を水墨画に使っていることも重なり、怠けてはいけないと思い思い、自分の怠け心とのサバイバルレースがいまだに続いている。

 

 

 年男なまけこころと縁きれず

気を入れ替えて紙の上に筆を運んでは見るが、上手く筆が乗らない。もう何枚目かな、新たに気を取り直して画き始めはするが、途中ですすめなくなってしまう。上手くいかなかった箇所を見直しはするが、どうも思うようにいかない。やはり真剣なこころが何処へ遊びに行ってしまう。今年の年頭に誓ったような具合に行けない。やはり今年も自分の中に潜んでいる怠けこころとのサバイバルレースとなるのだろう。正月そうそう暗くなってもしょうがない。もうどうにもならない覚悟の人生、そうあわてても仕方ない。慌てずマイペースでいこうと、いつもの癖で自分を自分で許してしまう。