五月闇水音荒き千曲川 (準特選句)
薫風や政にも絆あれ
「飯山市民芸術観賞会」で中国四千年の歴史の舞台で、訓練された演技に、久しぶりにハラハラドキドキの瞬間を楽しんだ。このように、色々な方面で、中国と日本との民と民との絆が存在するのに、私には、中国の「まつりごと」に一抹の不安があり信頼感が湧いてこない。中国は何時何を起こすか分からない国である。隣国の大国、誠に残念なことであると常々思っていることである。
餌があり無垢なるしぐさ夏雀
先日歯の治療をしていただいた「信州口腔外科インプラントセンター」の診察待合室の大きな窓越しの外に、広々と粋な縁側が広がっていた。そこに、数羽の模型の鳥が置いてあり、容器に小鳥の餌が置き散りばめてあった。そこへ数羽の雀が餌を求めにやって来ていた。待合室の御客様はその可愛い雀の仕草を見ていて癒されている様子でした。こんな細かい気配りに、北村医院長さんの人柄が伺われた。先日もブログにしましたが、院内全ての気配りが患者にとっては心休まる静かな空間である。こんな全てが、北村医院長に対する信頼感がそれぞれの患者さんに伝わっているのだろうな改めて思った。
観光や歴史と栗のからめたる
今日は小布施にあります、「信州口腔外科インプラントセンター」の北村先生に歯を抜いていただくために出掛けた。私は「脳梗塞」発病以来十四年の歳月が過ぎた。その間、再発のことを頭から離れた日は一日も無かったような気がしている。数種類の薬の常用のせいか歯が悪くなり、治療のため、この3~4年前から直ぐ傍の歯医者に通うようになった。私は若い時代から、母が歯が良くなかったためか、うるさいように朝、夜と歯磨きを薦められ、歯にだけは自信があった。一歩の歯の治療から始まると次から次ぎへと連鎖するように歯が悪くなってきた。北村先生とお付き合いするようになったのは、親知らずの歯を抜いていただくのが最初だった。病気再発防止の為に「血液をさらさら」にする薬を常用していますので、歯を抜くときには最低一週刊は薬を止めなければならない。そこで、心配の私は、歯医者さんに相談すると、薬を止めないで歯を抜くことが出来る先生が小布施町にいなさると聞き、北村先生にお願いするようになった。先日、掛かり付けの歯医者さんに抜いていただこうと、薬をしばらく止めていたため「脳梗塞」が再発し、大変な思いをしている方の話しを、そばの雑貨屋さんの主人から聞き、情報の大切さを痛感した私である。
夏の栗我が未熟さに身を重ね
「信州口腔外科インプラントセンター」の北村先生の歯医者さんは、待合室初め御便所などの衛生的さと細心な気配り、何よりも最新な設備に何時も感心させられている。こんなことから患者さんとの信頼関係が生まれるのだと、来院する度に再認識する私である。その上、数人の歯医者さんと歯科衛生士さん初め、フロントに働いている皆さまの接客が患者の心を温かくするだろうなと思わされる。
小布施町(おぶせまち)は、長野県の北東に位置する町、歴史的遺産、戦国時代の猛将福島正則が徳川幕府によって広島藩50万石から川中島藩(高井野藩)2万石に減封されて終焉の地となった。また、幕末の豪商高井鴻山が招いた葛飾北斎や佐久間象山、小林一茶ら当時の一流文人との交流の地となる。その上、栗の産地で、栗菓子を繋げたまちづくりで人気を呼び、今や北信濃地域有数の観光地として認知度も高く、毎日沢山の観光客で街は活気にあふれている。ここまでに小布施を有名にした仕掛け人は大変な御努力が有ったのだと思う。街づくりはいったん軌道に乗ると、「かんてんパパ」など有名店、人々を集める魅力ある設備が結集し、益々観光客が増えるのだと、小布施の街を訪れる度に思う。
蓮の花未知なる仏手をひろげ
長野県北信州木島平村の観光情報を発信するサイトに ... 大賀蓮の見 頃は7月中旬~8月中旬頃に村内の稲泉寺に咲く大賀蓮は二千年以上前の種であり、現在では他の品種とあわせ五千平方の蓮園が寺を囲んでいる。 この数年、口コミで広がったのか週末になると県内外から、この大賀蓮を見に来るお客様が増加していると聞く。木島平観光協会でも、年々期待を深めているとのこと、先日少し早目かなと思い思い、写真を撮りに出掛けましたが、平日のせいかお客様が少なかった。何がキッカケだったか忘れましたが、横浜市からおいでになったと言う、団塊を過ぎて六十代半ばと推察した御夫婦と親しく話す機会に恵まれる。その御夫婦は、家内の生まれ在所「馬曲地区」の下の「平沢地区」に若い時代に職場が一緒だった方を訪ねがてら以前に情報誌で知った、この大賀蓮を見に来たのだと言う。「平沢地区」へは初めての訪問らしく、平沢の「山浦浩」さんを訪ねられたけれど、私には分かりませんでしたので、のある場所を、持っていた俳句集の一枚を使って平沢の地図を書いて渡しながら、に行ってその方の名前を訪ねるようにと、なるべく親切丁寧に知らせてあげた。御夫婦に大変感謝され少し暖かな気分なった。話しの中ではカーナビを供えて有るようだったが、良くわからないようだった
蓮の花咲きて父の忌近かりき
七月十二日は父の命日である。そんなこともあり、毎年この蓮に会いに来るようにしている。父は割と賑やかなことが好きな人でしたので、この場所は毎年一番賑やかに、しかも凛々しく咲く蓮園であるが今年はもう少し賑やかさが欲しかったような気がした。でも、蓮たちは父を待っていたかのように頬笑みを浮かべて咲いているように見ることが出来た。こんな機会にでしか父を思い出せない親不孝者ですが、商人らしく何時も笑顔を絶やさない温厚な人であった。私には商売を始めた明治の苦労人の祖父の思い出が詰まっていますが、二代目のどちらかと言えば静かな父の思い出の方が薄い。でも父は戦争に行き大変な思いをしたことを想像するが、私達には一切戦争の話をしなかった父でした。死か生かの話したくない辛い経験をしたのだろうと何時も推察していた。その父も今から一六年前八十五歳の生涯を閉じた。
蓮の花仏の姿身に入れば
今年は雨が少なかったせいなのか、大輪の大賀蓮が少ないようなきがした。この蓮の写真を撮るのに、撮影モードダイヤルをAに合わせるのだが。絞りの値が上手く合わないのかな色々工夫したが、あいかわらずの出来となった。「使用説明書」を見直して勉強のし直しが必要な気がしましたが、このごろ細かい説明書を見るのが面倒ですので、カスタマートセンターへ電話して詳しく伝授をいただくことにしている。目的の花の周りの「ぼやしが」どうも上手くいかないでいる。
新緑の鹿教湯の辛き日々想ふ
十四年前鹿教湯温泉病院で、共にリハビリ療養に励んだ病友から、丁寧な暑中見舞いメール(写真添付)が届く。私はまだ五十八歳のため、将来への不安が交差する辛い鹿教湯病院でのリハビリ入院の思い出が走馬灯のように蘇った。彼はリハビリ療養の時から大きなものを失ったにも関わらず明るく前向きだったことを思い出す。鹿教湯病院の後、県のリハビリーセンターで懸命に第二の人生を求めて、リハビリに励んだようでした。彼は仕事柄、右手の大事な機能を失いながらも、県リハで新しい見地を生み出し、新たな生甲斐を自分のものにした努力家である。PCの技術を持って第二の職場につき、今では無事に退職されて、可愛いお孫さんがいて奥さんとの静かな毎日を送っている。人生は大きなものは失っても前向きで有れば、また新しい何かが生まれるものだと、つくづくと彼を見ると思う。
朝顔や平凡と言ふ日のはじめ
今年の朝顔は、玄関の階段の上がり口に、大きめの鉢植えの朝顔が二鉢元気に育っている。婆の肥料が良好なのかな、花も葉もなかなか元気である。朝顔にカメラを近ずけてAの絞り優先オートで背景をぼかしかったのですが、絞りの数位が上手くいかないのか思うように撮れなかったが、それでも、手前と奥が鮮明に撮れたので、まあこの位で良しとした。婆は、どうも今年の朝顔は、鉢に直接種を蒔いたのでなく、一度目が出た朝顔を、他の場所に移し替えて「移植」したとのこと、移植した朝顔を再び鉢に植え直したようだ。直接タネまきと、移植のどちらでも育てらるが、どうも移植のほうは、葉に艶があり、花も元気に咲くようだ。初めてと言ってよいほど、咲いた朝顔をじっくり鑑賞出来た。朝顔は日没してから約10時間後に開花するので、早朝のうちが、花に勢いがあるため、歩いた後の鑑賞が一番である。
青田風豊かな稔り思はせて
みゆき田をかすめて涼し青田風
病持ちけふも青田にはげまされ
この場所は何故か何時も気になる、私の何となく好きな田園風景である。季節の変わるごとに意味もなく、この田圃に出向き、季節ごとに何かしかブログにして来た。今日も青田にそろそろ実が入るころだろうかな、などと、ふと農業に素人な私は気にかかった。咄嗟にこの場所に車を走らせていました。久振りに会うこの田圃は相変わらず元気な青田で覆われていた。良く稲のそばへ近寄って見ると、まだ稲の実の姿が目に入らなかった。まだ少し早かったようだ、天気予報では午後は私共「みゆき野」地方は三十度以上となる猛暑と報道していましたが、微風の北風が吹く涼しさに満たされる田圃だった。減反、TTP問題などが騒がれている昨今、何時も癒してくれる、この大好きな田園風景は何時までもこのままでいて欲しいと一人勝手に願う私であった
風鈴の音に眠りし音に醒め
写真ネットより
日本人は昔から夏を涼しくするためにさまざまな工夫をしてきた。打ち水、うちわ、すだれ、風鈴。なかでも風鈴は、音からも見た目からも涼を感じる「夏の風物詩」として多くの人に愛された。風鈴の心地よい音色はゆったりとした気持ちにさせてくれる。縁側があり、夏になると、すだれを通して涼しい風を呼んで軽やかな透き通る風鈴の音が懐かしい。私のところは、鉄骨の家となり縁側に廊下をとるスペースがないため、すだれや風鈴を下げる情著ある場所が無い、エアコンの人口風はどうも私の身体になじまないでいるが、このところの暑さでは熱中症の心配がはしり、やむなくエアコンという風に頼わざるを得ない毎日である。昔は縁側のある広々とした和室で大の字になり雨戸を開けっ放しで風鈴の軽々とした音を誘い団扇を仰ぎ仰ぎ、自然に昼寝の眠りについたものだった。その頃の周りはコンクリートの無い緑豊かな環境が暑い夏でも涼しい風を呼んでくれた、懐かしさを思い出す。
雲れ日の泰山木の白よごれ
俳句教室の七月二十九日の兼題に「木の花」を頂いていますので、歳時記を捲っていると「泰山木の花」と九語もの、長々とした季語が目に入る、北米原産のモクレン科の常緑高木。初夏、白色で芳香のある大輪の花を開くと記されてあった。どんな花かと思い、Googl で検索すると、高さが10mにも20mにも大きく生る木で葉が尖っていて、白い花が咲いている写真だった。花は白一色らしい、この地方に見当たらない木だが、何処かで見たうる覚えがあるので、良く考えてみると、家内の母の実家の庭にある木ではないかと思い、早速車を走らせた。やはり庭先に堂々と「泰山木」の木が座っていた。家内の従兄に当たる兄さんに聞くと「大山木」だと言う。大きくなる木と有ったので「大山木」ともいうのかもしれないと勝手に解釈した。花が見当たらないので兄さんに聞くと、今年は陽気のせいか少ししか咲かないとのことだった。それでも、木の中間に一輪だけ元気に咲いていたので、物置の二階からやっと撮れた。
灯台下暗しとは良く行ったもので、家内いわく、直ぐ前の小島さん宅の庭に「泰山木」の木があって、お椀形か杯の形をした白い大きい花がつい最近まで咲いていて、つい先日散り落ちたばかりだよと、私の部屋から泰山木を指差した。確かに葉が尖っていて表面には光沢があり、裏面は毛が密生しており錆び色に見える部分があった。冨田の兄さんとこの「泰山木」は大きいですが、小島さん宅の庭木としている泰山木はまだ細々としていた。毎日、朝歩いているのですから、珍しい木を見たら感心を寄せるのが当たり前ですが、そこが凡人の所以である。
大空に信号機なし夏燕
今日はいろいろスケジュールが詰まっていまして、簡単なブログといたしました。今日の掲出句は以前詠んで「俳句嚢」にファイルしてあった夏燕の句ですので、何年か前にブログしたような、しないようで曖昧さですが、今日の簡単なブログといたしました。写真は望遠で偶然と言って良いほど、一眼レフのシャッター優先オートSで撮影しました。以前から、数回となくも挑戦しましたが、数日前にやっとの思いで撮れたと言う感じでした。私の今の腕では、まぐれとしか言いようありません。
緑陰の暖簾潜りて食べ処
緑陰の中に深緑色の暖簾が掛かった手打ち蕎麦の旨い御店が気に入って、新緑の時期になると、年に数回となく、家内と、この蕎麦処「浅葉野庵」にお昼を兼ねた食事に訪れる。空気の透き通った森林浴気分のなかの「蕎麦処」は、熱中症が心配すほどに暑い昨日のような日に、冷房がいらなく、大き目の扇風機一台で充分に涼が取れるほどの涼しさであった。深き緑陰が涼しさを呼んでくれるのだろう。
夏の昼貌を見合せ舌つづみ
珍しく家内の方から「ビール少しぐらいはどう」なんて嬉しいことを言ってくれた。驚いたのは私である。以前の私でしたらこんな環境にいると、必ずビールを所望したものですが、思うことがあって、ここ半年以上アルコール類を止めて居るので思いもしなかった。根は嫌いではないので、すぐに顔が緩んだ。旨い蕎麦の前のビールが、程よい気候の中で最高に旨かった。何時もの腰があり、香りとのど越しの良い手打ちそばを堪能出来て、有難い今日のお昼食であった。
涼風の潜む気配のありにけり
この「蕎麦処浅葉野庵」は小菅神社参道の入り口にあり、聞くところによると、この小菅地区の御出身で長野市で電気工事会社を経営している方が、歴史の深い小菅神社を広く知らしめて地区の活性化の為に、オーナーとして、一役かってこの「浅葉野庵」を造り経営していなさると言う。広くこの「蕎麦処」が知れ渡るまでかなりの赤字を背負って頑張って来られたと聞きおよんでいますので、なおのこと応援したくなるような気持ちとなった。また、小菅神社は長野県飯山市にある神社。戸隠・飯綱とともに信州三大修験霊場の一つ。 修験寺院が小菅神社の起源である。その後、幾度かの退転と再建を繰り返した ...また三年ごとに行う「小菅神社」の祭りは歴史を継いだ勇壮な貴重なお祭りとして、内外に知り渡っている。そのお祭りが今月の十五日に盛大に行うべく、祭りの準備が進められていた。
水馬のもうこれ以上痩せられぬ
恥ずかしいことに「水馬」を「あめんぼ」と読むことを知らなかった。歳時記に詳しくは夏の季語として「あめんぼ」「あめんぼう」「すいば」「みずすまし」とあり、また、あしたか、海水馬、水蜘蛛、川蜘蛛、水黽(かわぐも)と水馬の別称として幾つも載っていた。弟が仕事終了後、若い時から趣味であった「ヘラブナ」釣りを再会したと聞き、「水馬」の写真を頼んで置いた。釣りをしたことない私からすれば、「キャッチ&リリース」の「へらぶな」釣りのどこが魅力なのかさっぱり理解できないでいる。「へらぶな」を釣る人達は、皆さんその魅力に引きずられると聞く、浮の一点を見て何時間も当たりを待つなんて到底私には出来ないことであるが、でもこの釣りは負けず嫌いな方や気の短い人が夢中になると聞きますが、またその辺が理解できない。忘れていた、弟に頼んでおいた「あめんぼう」の写真が届いたので以前「あめんぼう」を詠んだ句が「俳句嚢」にファイルしてあったので、その句を引きだして、今日のブログとした。