今日は暖かく良い天気に恵まれましたが、病持ちの私は、寒い冬は風邪引くと大変なので、どうしても家で過ごすことになる。歩く運動は機械運動となっている。従って、外からの情報は殆ど得ることが出来ないため、写真も不足がちになります。ブログは日記だといわれていますが、毎日書かなくもと思いたったら、なんだか気楽になった。そんな分けで無理に話題を探さず気楽に書こうと決めた。今日のブログは少し理屈ぽくなりますが「なぜ生きる」からの抜粋となる。お役に立つか、かってですが気楽に書こうとおもう。
「生きていて良かった」と満足する「人生の目的」を
私たちは、昨日から今日
、今日から明日へと進みます。;光陰矢の如し;といわれるように、本当は猛スピードで走っているのかもしれません。小学、中学、高校と進学し、受験時代は死ぬほど勉強、大学に入れば死ぬほど遊ぶ、就職したら死ぬほど働く。人生の荒波に投げ込まれた瞬間から、絶えず泳ぐことを強いられます。生きるとは泳ぐことだといえましょう。「生きるために生きる」と言い張る人は、「泳ぐために泳ぐ」と言い張る人です。流れにただよう浮き草は、あてどのなく往きつ戻りつ、やがてみずから腐ってゆきます。泳ぐために泳ぐ人の悲運は明らかでしょう。「飛ぶために飛ぶ」飛行機の末路と変わりません。「生きるために生きる」人生を、空の旅にたとえたなら、どうなるのでしょう。速度や高度はどのくらいにするのか、風向きの変化や気圧配置によるルート変更、エンジントラブルの対処などは、「飛び方」の選択であり、「どう飛ぶか」の工夫です。それらの前に知らねばならいのは目的地であり、「どこへ向かって飛ぶのか」の方向です。行き先知らずに飛び立つパイロット、いないでしょう。飛ぶために飛ぶ飛行機は、墜落の悲劇あるのみだからです。同様に、「生きていて良かった」と大満足する「人生も目的」がなければ、生きれば生きるほど苦しくだけの一生で終わってしまうのではないでしょか。
苦しみの新しい間を楽しみといい、楽しみの古くなったのを苦しみと言う
現今は、;本当になすべきこと;を探求する、 人間らしい精神が危機に瀕しています。科学文明が破壊しているのは、自然環境だけではないようです。刹那的快感に救いを求める人が増え、「依存症」の言葉が、ちまたにあるれるようになりました。;わかっちゃいるけどやめられない;なにかにのめりこんでいなければ、じっとしていられないのです。一日一回はパチンコせずにいられない「パチンコ依存症」デパート狭しと買い続ける「買い物依存症」など、何か気晴らしがなければやっていられない、生きづらさの反映といえましょう。薬物依存も減っていません。経口の覚醒剤も登場し、小学生すら手を出す始末です。中毒者の幻覚による凶悪犯罪も増え、第三次乱用気といわれるようになりました。一人になるとさびしくて、不特定多数と性的関係に走る人が増えています。それらの人によって性交渉は、漠然とした不満を埋める手段となっているのです。「今、楽しいことをやらばいいんだ。それが、その時その時の、生きる目的。そうやって生きていくのはなんのなめ?そんな面倒な問題は、忘れたほうが面白くいきられるよ」そんな人もあるでしょう。本当にそんな主張が貫くことができるのでしょうか、いろいろ「楽しみ」の実体を考えて見たいとおもいます。まず、「欲望を満たす喜び」から、見てみましょう。私たちの欲求はさまざまで、おいしい物が食べたい、流行の服が着たい、車がほしい、恋人がいたら・・・・・・そのほか、あげればきりがありません。欲望を満たす幸福感です。たとえば喉が渇いたときコーラを飲めば;スカットさわやか;な快感を覚えます。しかしその気持ちのよさもつかの間で、もう一口、また一口、と次第に渇きが癒されるにつれ、爽快感は減退します。渇きが減っていく過程だけがおいしいと感じられるのです。百パーセント;渇き;がなくなってからのコーラは、逆に苦しいものとなるでしょう。痒いところ掻いている快感が、やがて痛くなると同じです。不満がなくなると苦痛にかわる。これは、「限界効用逓減の法則」と名付けられている、いろいろな場面で見られる現象です。デートのよろこびも、新しく始めた趣味の楽しみも、回数を重なれるにつれ、かっての興奮が味わなくなってくるのではないでしょうか。欲望を満たす;気持ちよさ;は強烈な幸福感ですが、直ぐ消え去る宿命は、まぬがれようがありません。苦しみの間を楽しみといい、楽しみの古くなったのを苦しみといわれる、ゆえんです。