ブログに遊ぶ

ときめきの日々を過ごしたい

戸狩駅発朝一番の列車

2014-08-31 07:00:34 | Weblog

過疎の里心に風の沁む身かな

空列車擦れ音重く秋の朝

戸狩発朝五時十四分の一番の列車が五時三十分頃、私が歩くコースの踏切でチョクチョク遭遇する。その一番列を踏切で待っていると、驚くことに私の前を走る二両の列車に一人の御客さんも乗っていなかった。まるっきり空っぽである。これには驚きを隠せなかった。普段は少なくとも十数人は乗客しているなーと思っていた。気がつくと今日は日曜日である。多分平日は長野への通勤客が乗っているのだろうと思う。それにしてもいくら過疎化が進んでいる地方であっても、乗客がゼロの列車を見たのがはじめてであった。次の駅の飯山駅だと朝早い一番列車とは言え、乗客はあるのだろう。私共夫婦は東京へのセカンドオピニオンや娘のところへ行く時は、必ずこの新幹線と繋がる一番列車を利用しているが・・・・・・・・・・」。


句友の死

2014-08-30 07:50:50 | Weblog

 菊枕惜しまれて逝く句友かな

一瞬に消へる微笑み水引草

 



オフ句会の写真。後列左端が百朗さん。(写真提供:正義さん)
 パソコンでの 右脳俳句 の句友の百朗さんこと「牧野正二」さんが急死されたニュースに触れ、衷心より御冥福をお祈りいたします。「右脳パソコン俳句発足から御付き合いをしていただいている、同じ長野県の「龍 夜」が百朗さんの回想を述べていますのでい以下を明け下さい。  ありがとう百朗さん 私の御悔み文と写真が投稿されています。

女郎花と瓢箪

2014-08-29 07:46:05 | Weblog

  女郎花人のまごころ触れ生くる

瓢箪や明日にたのしみ広がりて

                                            

 

 

  毎朝の歩行運動の途中のお宅の瓢箪の成長を勝手に楽しんでいる。このお宅の主人は私より二年先輩で、長い間共に商工会議所の役員として活躍してきた中である。先輩は一線から退いてから趣味にしている「日本画」と「水彩画」を楽しんでいなさる。もう何回も県展に入選される、セミプロ級の腕である。私は毎年楽しみにしていることは、先輩が描いた絵をカレンダーにしてプレゼント下さることです。たまたま先輩に会うと、情報不足の私は、先輩との話しに、話しが尽きないほどに、先輩の情報通に驚かされるばかりである。

                                   

 

                                   

 

 

 

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歩いておりますと、写真にしました女郎花らしい花をが群生しているお宅を発見したので、女郎花かどうか自信が無かったので、写真にして来て早速「花図艦を調べたり、ネットで捜しますと、まさしく「女郎花」であった。私共の地方では、私が知らないのか、はなかなか上の写真のように「女郎花」を沢山咲かせているお宅に遭遇するのは珍しい。来る九月一日の俳句教室に先生から戴いた兼題の中に「女郎花」がありましたので、既に「さびれたる温泉宿に女郎花 」と詠って投句を済ませた。写真の「女郎花」を目のあたりにして観賞しますと、こんな句が浮かんだ。「女郎花人のまごころ触れ生くる 」と、女郎花は男朗花(おとこえし)と反対に美女を圧倒する美しさから来る花だ。花言葉に「まごころ」「親切」「美しさ、美人、佳人」「心づくし」など。「まごころ」を詠ったことは偶然で、こんなことがあるものだと思う。俳句教室に掲出した句より気に入りましたが、既に遅しである。こんなことが、この頃チョクチョクある。未練、未練の連続である。 

                                      

                                                                           


毎朝菩提寺に手を合わす

2014-08-28 10:57:04 | Weblog

 くりかへす南無阿弥陀仏虫の声

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                  

 

 

早朝歩く道すがら写真の二寺院がある。右の寺院は家内の実家(福原家)の祖先が祀られるている真宗寺の六角堂(納骨堂)で、下の写真は私共「長谷川」家の先祖が祀られている光蓮寺である。このお寺に毎朝感謝の気持ちを込めてお参りをしている。二寺院とも浄土真宗本願寺派(西本願寺)通称御西の寺で親戚関係にあると言う。真宗寺は文豪島崎藤村の「破戒」に出てくる蓮華寺のモデルとなったお寺。境内には「破戒」の第一章を刻んだ文学碑もある。創建は鎌倉時代にさかのぼり、寺の名称や宗派、場所を転々とし、江戸時代の1604年に現在地に定着したと伝えられている。。昭和27年(1952)の飯山大火の際に山門や本堂等を焼失し、藤村が訪れた時代から残っているのは右の写真の六角堂(納骨堂)のみが、当時の名残をとどめている。

 

 

  

 

 

       

 

 写真の左の寺院は私の先祖が祀られております「光蓮寺」で光蓮寺(こうれんじ)は、真宗寺と同じく浄土真宗本願寺派の寺院。甲斐の国、武田信玄の弟武田信繁の孫正善が開基とされる。宝暦3年(1753年)当寺で生まれた、雲室上人は江戸時代の画僧、学者として知られている。従ってこの寺院の個人の名前は武田と呼んでいる。今から四〇年以上になりますが、今の住職が若い時分に大雪の年で雪降ろし人夫が明日来ると言う前の夜に運が悪く本堂が雪の重さで崩壊してしまった。当時は立派な寺院でしたが、歴史ある貴重な財産を失くしてしまった。その後、檀家総代であった私の父達が、寺の再建に奔走し、当時では高額な金額を檀家の皆さんの御協力により御奉仕を頂いて今のコンクリート建の立派な寺院を建立することが出来た。父は本堂の建立の会計を預かり大変だった事を覚えている。そんな為か父がお寺さんから戴いた戒名は寺に尽くしたと言う「尽行院釈正円和敬居士」を戴いた。そんな父に尊敬の念を抱いている私である。

                                                                                         

                                                                                                          

                                                                                                           

 

 

 


座右の銘

2014-08-27 07:24:07 | Weblog

 座右の銘荒波のごと天の川

在りし日の翁に会いたし秋の夜

私の若い時代からの座右の銘は、恥ずかしながら「運鈍根」と「従流志不変」でした。この座右の銘を持って事にあたったつもりでした。今月の一日に市民会館で「飯山市市制施行六〇周年記念」で「飯山市名誉市民」の学校法人文化学園理事長の「大沼淳」さんが「飯山に生まれ育って思うこと」と題して記念講演を行った。その中で偶然にも私の座右の銘としている「運鈍根」について話しがあった。「根」については、「私の「根」は飯山で育てられた。雪に耐え春を待つ心。「根」がなければその町の継続性がない。終戦後飯山の人々は過酷な時代の中全力を尽くして生きて来た町、そんな飯山に生まれたことを誇りにしていると話された。この「運鈍根」は近江商人の言葉で「鈍」はどんな苦しいことでも我慢強く耐え「根」は一生懸命に努力すればきっと「運」が開けると言うことのようです。この「運鈍根」は若い時代に私の店の経営に御指導いただいた「山田先生」からいただいた言葉だった。また「従流志不変」は時代の流れには逆らうことはなく従いますが、自分の志は変えないということ、私はこれと言って強い志のある人間ではありませんでしたが、一旦決めたことは、どんなことがあっても、諦めたり曲げたりしなく、ことにあたった積りでした。根は我がままのせいであったかも知れなかった。また写真の「運鈍根」と彫られた衝立ですが、私は若い時代から何かに付き御指導いただいた尊敬する「飯山仏壇店」の社長さんである大先輩の「飯山仏壇」の仏壇師に泥だらけになっていた樹齢三百年以上の欅の木の根元を横に切って戴き、磨き上げ、飯山仏壇漆を塗って「彫り師」である先輩社長さんに硬い欅の木に「運鈍根」と彫っていただき、仏壇の金を沁み込ませていただいた。尊敬する先輩は八十三歳で亡くなられて早八年になる。今では私の貴重な宝物である。


髭剃り

2014-08-26 07:40:18 | Weblog

剃刀の肌よく滑る今朝の秋

  毎日髭剃りが習慣ですが、本来私は剃刀での髭剃りは禁じられているのです。と言いますのは病気の為、毎日血液をサラサラする薬「ワーハリン」を飲んでいますので、もし間違えて手元が狂って肌を切ることがあったら、出血が止まらないで、大変な目にあう恐れがあるからである。ですが電気カミソリでは、どうも剃刀と違って髭剃り後の感覚がスッキリしませんので、どうしても剃刀を使うことになります。そんな分けで細心の注意を払いながら、剃刀を滑らせる。また髭剃り後のシエーブローションが、これまたスッキリして爽やか気分となる。常用の剃刀は入り替え刃で少し高めですが、肌を切ってはいけないので、滑らかに剃れるように早目早目に新しい刃との交換に心がけている。本来私は心身ともに面の皮が厚いのですが、剃刀との緊張感がこれまた良い。つまらない小さなことのブログと成りましたが、病気となり社会とのかかわりが薄くなって十七年になろうとしています。一線から遠ざかると当然のように社会の諸々の情報が遠ざかります。そんなわけで、どうしても日常の私生活が中心となってしまいます。只今は市長選挙の前哨戦で私共地方はにわかに、騒がしくなっています。立候補予定の両派から決起大会など諸々の御誘いがありますが、以前と違い奮起するという気持ちが薄れているこの頃です。

 

                                         

 


初使いの夫婦茶碗

2014-08-25 10:24:09 | Weblog

 

秋の夜夫婦茶碗に願ひ込め

夫婦茶碗伴に長きと秋の夜

 

 

 

先日「使わなかった父母の夫婦茶碗」のタイトルでブログにしました、食器棚の奥に仕舞い込んでおいた「信楽焼夫婦茶碗」を家内と相談して、伴に昨夜の夕食から使い始めた。句にしましたように「伴に長きと」「願い込め」のように一日も長く父母の形見の「夫婦茶碗」を使えたらと願う秋の夜でした。私達夫婦は昭和42年11月23日(勤労感謝)の日が結婚式の日でしたので「平成26年」を「昭和89年」と置き換えれば89年から42年を引くと結婚して何と47年になり、驚くことに後3年で金婚を迎えることになる。 

 

 

 

  

 右の写真は昭和六十三年に迎えた両親の金婚式の写真である。両親は五十八年の夫婦生活であった。父母ともどもに、戦前戦後の激動の時代を働きぬいた。私にはただただ商売一筋の両親であったとように思う。私共夫婦も両親のように仲良く元気で五十八年以上夫婦でいられたらと思うこの頃である。両親の夫婦生活に達っするには後十一年、ともどもに頑張らなければと思うのですが、私は病持ち、両親の夫婦生活に達することには自信がありませんが、これを機会に十一年を目標にしたいと思う記念の日となった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


.久しぶりの添削されながらの特選句

2014-08-24 08:04:32 | Weblog

 前回、八月十八日の俳句教室は久しぶりに添削されながらも「特選句」一句をいただく。どこか一安心な気分となる。特選句は八十句から九十句の中の五句だけですが、教室の皆さんそれぞれに上達されていなさるので、中々特選句に恵まれないでいる。                    

                             ( 立秋の光りて曲がる千曲川  準特選

               中七の「光りて曲る」が「きちんと言ったのが良いと評価されるが「曲がる」の「が」がいらないとのこと

                        (2) 健康のほか願ひ無き秋に入る   特 選

            中七と下五が「ほか願ひ無「き」を「し」に「秋に入る」の動詞を「今朝の秋」と名詞に添削される。整理しますと

                     添削句   「健康のほか願ひ無し今朝の秋」 となる。     

                       (3) 投網漁川面に崩し秋の雲    普通選

       上五と中七に添削 「朝より(あしたより)投網の音や」秋の雲 整理しますと

                     添削句   「朝より投網の音や秋の雲」  となる。


千葉名産梨届く

2014-08-19 07:35:47 | Weblog

 友からの梨の一個の重さかな

 楽しみの大まるまるの梨を剥く

 待望の千葉の友人から名産の梨「幸水」が届く、家の孫達は友人B君からの梨を心待ちにしている。今年の梨は何時の梨より大きく、甘くて、瑞瑞しく、シャキシャキとした歯ごたえが最高だった。千葉地方は、ニュースでは収穫時に雨が多かったようですが、今年は春先の気温が低くて桜の開花が遅れたようですが、五月以降、暖かな日が続いて、順調に育ち例年以上大きな梨が実のったようだ。


新幹線飯山駅開業イベント

2014-08-16 09:04:39 | Weblog

 秋の夜明日の飯山先見へぬ

 

 

 沢山の見物者の中、ぬぐうようにして捜した場所は写真に最高のスポットでしたが、写真の未熟さから上の新聞のように駅全体をスクリーンにした映像が全然撮ることが出来なく真っ黒になってしまった。恥ずかしい限りである。ふきつにも、明日の飯山がお先真っ暗で消えてしまう予感がしてならなかった。飯山市民が一丸となり真剣に努力しなければ、新幹線は地元の期待に答えることは出来ないだろうと思う。成熟に近いこの日本、そうやたらに他力本願的に私達「故郷」の発展は望めない時代でだろう。

 

 

 

 

 

 


納涼花火大会と終戦日

2014-08-15 08:12:26 | Weblog

       

揚花火空で太鼓を打つごとし 

 大花火悪しき心臓増す鼓動

 故郷のさまよい知るや揚げ花火  

 

             

    

  昨夜は夏の夜の風物詩、千曲川河畔の花火大会だった。この花火大会は飯山商工会議所の主催ですが、句の最後に「故郷のさまよい知るや揚げ花火」と詠いましたが、多分故郷に帰郷した人々の楽しみの一つとなっていると花火だと思いますが、花火を見る度に年々淋しくなる揚花火に遭遇し、生まれ故郷の経済の彷徨する衰退さが目のあたりにしたことだろうと思う。

この頃の不穏な空気終戦日

 敗戦忌議論のしない若き者 

 終戦日初めて聞こゆ蝉の声

 今日は終戦日、昭和二十年の八月十五日 ボツダム宣言を受託し、無条件降伏 という悲壮な結末で終わった日である。国の内外を問わず無数の犠牲者を出すという。戦争というものは如何なる理由があっても二度と起こしてはならないと痛感させられた、八月十五日はその思いを新たにする日である。

 

 

 

 


御先祖様をお迎えする

2014-08-13 19:09:49 | Weblog

父の背を流すが如く墓洗ふ

迎へ盆父と飲みたし語りたし

 

   今日十三日は迎え盆、午前中涼しい内にと、菩提寺の裏山へ長女の夫、つまり義理の息子と家内と三人で新たなる気持ちで御先祖をお迎えしようと、お墓の掃除に出かけた。お墓までの坂道は私にとっては少し難儀ですので杖を使って登ることが出来た。私も協力させていただた坂道は奇麗に登りやすく整備されていた。春の御彼岸以来のお墓掃除とお参りでしたが、行ってみますと、すでにお墓は奇麗に掃除され盆花がたむけられていた。多分弟夫婦か妹夫婦のどちらかが、一足先に墓にお参りしたのであろうと推察した。改めて、納得いくまでお墓を更に奇麗に磨きたて、新しい花をたむけ、お参りを済ませて来た。

 

 

 

 

 夕方玄関の階段の上がり口で、迎え火を焚いて、孫達は五人揃ってかがり火に手を合わせてお参りした。予想通り、何にも興味を持つ次男坊「ゆうーちゃん」はお爺ちゃん何故火を付けてお参りするのと聞いて来た。「迎え火」と言ってね、火を焚いて、お爺ちゃんのお父さんとお母さんとそれにお爺ちゃんのお爺ちゃんとお婆ちゃんを呼んで「ゆーちゃん」達悪いことをしないで、毎日お利口で過ごしているか、山のお墓から風に乗って見に来るんだよ。良くいらっしゃいましたと言って、火を焚いてお参りし、お呼びするんだよ。お家の御仏壇に三日泊まって「ゆーちゃん」も知っている、お山のお墓へ帰るんだよ。と言うと、早速「だってお爺やんのお父さんとお母さんの姿が僕には見えないよ、と言い出した。それを聞いていた「おにいちゃん」は、お爺ちゃんのお父さんやお母さんの魂いが来るんだよと説明してくれた。流石お兄ちゃんだと思った。分かったんだか、分からないんだか、半信半疑の様子の次男坊「ゆうーちゃん」であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


菩提寺の伝道

2014-08-11 06:20:24 | Weblog

伝道に自分を重ね秋の朝

 毎朝歩く道筋に菩提寺の本堂に繋がる参道がある。その参道の入り口に立ちお参りするのが日課となっている。参道の他に少し離れた場所にもう一本本堂に繋がる道がある。その道を少し上がったところに、菩提樹が掲げる「掲示伝道」があると、家内から聞いてはいたのですが、その場所は登り坂ですので、参道入り口のお参りだけで過ごしておりましたが、家内いわく今の伝道は私達の過ごした人生そのものですよと言うので、今朝はその「掲示伝言」を拝見しに行った。写真のように「悲しみの深さは 贈り物の大きさ」と掲げてあった。ブログですから自分をさらけ出すのも良いと思い、今日のブログにしました。今、つくづくと思うことは、私は三代目の苦労の知らないぼっちゃん経営でした。時代は高度経済成長に乗って驕りがあったのか、三十代前半に力もないくせに、長野市の老舗のデパートの地下に、その頃では、長野県で一番大きい魚の専門店を開店させた。その経営は大失敗で、世の中の厳しさ心底から味わった。この教訓を生かし、昭和五十四年に飯山へ帰って、今迄の苦労の知らない人間性初め諸々から経営を見直し、一から立て直そうと決意しましたが、長野での借金が大きく再建の道は平たんな道ではなかった。御蔭さまで、家内初め、従業員と歯を食いしばって何とか再建に漕ぎつけることが出来た。その時代の苦労と深い悲しみを思えば、今は、清貧生活ながらも、孫に囲まれて大過なく過ごせていることが、喜び一杯の大きな贈り物だと心から思っている日々である。


八月十八日の俳句兼題を投句

2014-08-08 10:51:29 | Weblog

  (1) 立秋の光りて曲がる千曲川

  (2) 健康のほか願ひ無き秋に入る

(3) 投網漁川面に崩し秋の雲

                                                              

 

 

 

 

 

 

 

 昨日のブログで「水墨画」が思うように描けず、放り出したい気になっていることを書きましたが、その上、輪を書くように「俳句」も詠めないでいる。特に俳句は成績が悪く、このところ半年近く「特選句」に恵まれていない。時間を捜しては人さまの秀句を詠むのですが・・・・・」今だ俳句を自分のものに出来ないでいるのだろうと思う。俳句を詠みながら、以前に味わったことのある詠んだ後にハットした感覚を味会うことが出来ないでいる。七十三歳になって今更焦ることはないと思い思い、何となくスッキリとしない日々を過ごしている。次回の十八日の兼題である「立秋」「秋に入る」「秋の雲」「盆過ぎぬ」など、秋がテーマですが、やはり今回も思うように詠めないけれど、捌いてくださる「利之」さんに投句する日が迫るばかりですので、次回も不成績に終わると思い思い今日の午後の投句となった。