ブログに遊ぶ

ときめきの日々を過ごしたい

干し柿(市田柿)

2015-11-14 11:33:34 | Weblog

 古里の景色いつしん柿垂れる

 

 

 

 

 

 

 

 

    

 

市田柿の干し柿風景、ネットより

 干し柿で有名となった「市田柿」、長野県は下伊那郡高森町の市田地域で栽培されていたことから名前のついた渋柿の名である。その干し柿はかなり昔から有名のようだ。この渋柿を、干し柿にしたものも「市田柿」と呼んでいる。市田柿は一口大で食べやすく、鮮やかなあめ色の果肉をきめ細かな白い粉が覆い、もっちりとした食感と上品な甘味があるのが特徴。この自然の甘さをドライフルーツであると全国にファンがいると言う。消費減と後継者不足で全国のつるし柿の生産が減少している中、この市田柿の生産は若干ですが、増えていると聞く。この数年楽しみにしていた、友人の「長張」君が干し柿を造らなくなつて、彼から届かなくなった。孫達は干し柿が大好きですので、今年は市田柿をネットで注文しようかなと思っている。


正受庵の蹴落として坂

2015-11-11 13:55:30 | Weblog

. 晩秋の歴史の坂に脚すくむ

道鏡慧端(正受老人)は慢心の白隠を蹴落とした言われている「蹴落坂」

 あの白隠禅師の慢心していたところを厳しく指導し、正しい悟りに導いたと言われている道鏡慧端(正受老人) 、ネットでは宝永5年(1708年)には、白隠が正受庵の慧端(正受老人)を訪れた。来庵に先立って、高田英巌寺にて聴講していた白隠は、鐘の音を開いて悟りを開いていた。しかし、聴講に同席していた慧端の弟子の宗覚が白隠の慢心ぶりを危ぶみ、慧端を訪れることを勧めたのであった。慧端(正受老人)は来庵した白隠の慢心を見抜き、山門から上ってきた白隠を蹴落として、その慢心を打ち砕いた。慧端は、時には廊下から蹴落し、白隠が大悟したと思い込み慢心していたところを厳しく指導し、正しい悟りに導いた。以後、白隠は正受老人を師と仰いだという。

 

 

 

 


今日は立冬

2015-11-08 13:44:22 | Weblog

 

立冬や辺りまだまだ色褪せず

 今日は暦の上では立冬、そのせか、朝から冷い小雨の降る日だった。所要があったビルの片隅に今盛りの真っ赤な植物に出会う。情報では今、小諸懐古園の周辺の紅葉の色が最高だと言うことのようだ。良く街の街路で見かける楓と紅葉とは大きく違う木ですが、名前はど忘れてしまった。私ども地方の、紅葉や楓の色より一層赤の色が濃いような気がした。


遺作となった水墨画

2015-11-03 11:25:52 | Weblog

穏やかに濃淡ひそむ初秋かな

 昨年の初秋に「大腸癌」で帰らぬ人となった、水墨画教室の石井さんが県の水墨画展で見事に入選された。その長野県の入選作品集の中から引っ張り出した風景画である。作品集からのスキャンのですので、画の中に線の影が残ってしまった。石井さんは長い間「通信教育」で独学をなさっていなさったとのこと。飯山の私共の教室を知り、毎回休むことなく、山ノ内は須賀川からおいでになっていた。私共の先生である「吉越窿師」先生から指導を受けると、めきめきと、私なんか足元にも行かないほどに上達なさった。やはり、通信教育で独学で習うほどに絵が好きであったのであろうと思う。大腸を摘出した後「抗癌剤」を打ちうち教室へあの温厚篤実な顔を見せて一生懸命に絵に向かっていなさった。その真剣さは、適当な私なんか恥ずかしくなる位いであった。石井さんは、中野市「陣屋」と言う作品展示場で、「水墨画」、「日本画」、「水彩画」、「油絵」の友人と合同四人展を開催していると聞き、教室の仲間と中野市へ見に行った。そこには、見覚えのある、教室で先生に指導を戴きながら描いた作品が数点展示されていた。勿論のこと入選した上の作品が真ん中に展示されていた。、四人展が終わった間も合い頃、彼の娘さんが教室においでになって、石井さんの訃報を報告なさった。娘さんから、石井さんは私共の教室に来ることが唯一の楽しみであったと、感謝の言葉を戴いた。私と言えば、このところの病気入院なので、半年ほど教室に出ていない。また、春になって暖かい陽気になりましたら、再会したいと思っている。


懐かしの蒸気機関車

2015-11-02 10:20:11 | Weblog

機関車に昭和の匂ひ枯すすき

 このところ秋の日差しがやさしい好天が続いていましたが、今日は朝から雨降りとなった。予報では今日一日雨らしい。昨夜の13時ごろ厠に起きた後、何故か眠らなくなりましたので、テレビでも見て、目を疲れさせたら眠くなると思い立ち、テレビにスイッチを入れる。夜中のテレビでしたのか、無音で運転する「蒸気機関車」の画像だけが映っていた。その後、熟睡できませんでしたが、何時もの時間に目が覚める。今、免疫力が落ちています私は、今日のように寒くて雨の日は、風邪ひきが心配ですので、外に出れないでいる。こんな日はブログの話題に苦慮してしまう。、今日のブログに何を書こうかと考えたら、昨夜の「蒸気機関車」のテレビを思い出し、PCから蒸気機関車の写真を引っ張った。沢山の「蒸気機関車」の写真の中から気に入ったSLの画像を見つけた。写真を見ながら句が浮かばないかと思いますと、偶然にも上の駄句が浮かんだ。私が小さいころの昭和の時代、SLの飯山線に乗ってトンネルを抜けると車内に煙が入り込んで来て、その臭いが懐かしく思い出され、煙の匂いを「昭和の匂ひ」とした。また、SLの両側の「枯すすき」が印象的でした。

 


前の小島宅の鯉

2015-11-01 09:28:40 | Weblog

 

 あぎといの鯉落ちづかず秋深む

 晩秋のやわらかな日が射す部屋の窓を開け外を眺めていると、前のお宅の主人が私の二階の部屋の下に立ち「閑のようだから、お茶飲みにでも来ないかね」と声をかけてくれた。少し遠慮するように答えると、隣の建設会社の社長も来ているのでと言う。入院や病院通いで、近所付き合いが疎かになっている私ですので、諸々の街の情報に疎くなっているので、御主人達の「お茶飲み」こ快く付き合うことにした。前のお宅の二人の男のお子さんは二人とも独立して、長野へ家を構えたので、奥さんと二人だけで静かな生活をしていなさる。家の七人の大家族とは大いに違う。雪が降るせいと、職場がないせいなのか、どうも、若者は地元にいついてくれない。お茶飲の中でやはり人口問題の話しになった。御主人はすぐさまPCで調べると、1954年(昭和29年)に近隣との合併当初は、確か「46,000人」以上いた人口が、過疎化が著しく進み、今年の9月の国勢調査では21、497人のようだ。このままだと、先日の新聞報道では平成40年には、国の予想では16、000人となる模様だつたが、飯山市の「地方創成計画」では新幹線駅の有効活用で観光の推進と、定着人口を増やす施策を発表していた。それでも飯山市が計画している人口は確か16,800人のようだ。お先真っ暗な飯山市となる。勿論そんなことは関係なく、前のお宅の池の鯉は口をパクパクしなら悠々と池いっぱいに泳いでいた。