ブログに遊ぶ

ときめきの日々を過ごしたい

大掃除

2012-12-30 13:59:09 | Weblog

 褒められて孫は競って煤払

 耳が痛くなるほど「良い子でないとサンタさんは来てくれないよ」と言われに言われながら、待ちどうしかった孫達。クリスマスにサンタさんが来て、孫達が夢にみるほど欲しかったオモチャをプレゼントしてくれた。弟の湧也君などは、爺「サンタさんてすごいな、僕が欲しかったオモチャをプレゼントしてくれたんだよ」と嬉しそうな顔をいまだ浮かんでくる。その後、私共の兄弟からいろいろいただきものが続いて御機嫌の孫達、その連続か、婆におだてられたり褒められたりで、年の暮れの大掃除を一生懸命でお手伝いしてくれている。孫達は何となく、クリスマスから年の暮れへと移り変わる日々、そして新しい年が来ることを肌で感じているらしい。今年一年つたない私のブログに訪問下さいましてありがとうございました。来る年は、少しでも先の見える明るい年でありたいと衷心より願っております。それでは、皆さん良いお年をお迎えください。

 


明るい冬日差す

2012-12-28 08:09:58 | Weblog

ひとしきり冬日のなかの日和かな

冬日背に不自由な足の軽きかな

 風邪で伏せっている約一週間、雪国は傍若無人に雪が舞い降りていた、なんて優しいものではなく、吹雪の伴った雪国の本格的冬模様だった、こちら雪国は北へ行くごとに一里一尺といい、雪が多くなると言う。ようやく、昨日は冬日の差す澄みきった天気に変身、私は風邪が完治したと判断し、嬉しくなり冬日の街に出た。辺りの空気が降りたての真っ白な雪に洗い直されたように、空気が澄んでいた。こんな気持ちの良い日はつかのまで、もう今日からどんよりとした曇った天気にとなる。その上天気予報では、また、今夕方から再び雪となる模様だ。

 

 


今日からボチボチとブログ再会

2012-12-27 08:35:54 | Weblog

     寒月や島争わず句を競い  森山誠一

    寒月に表面張力感じをり   正義

 

       寒月や荒んだ世に剣気差す      正義

  雪の中、足が不自由で思うように行動できず、ブログにするネタに困っていますので、パソコンを覗きながらのブログとなります。

 韓国、中国との関係が、絶海の無人島の領有をめぐって険悪になった。両者それぞれの言い分もあるが、ここ数年、急成長した経済力と軍事力を踏まえた中国の姿勢は強硬である。だいたい、おとなしかった人間が、金や権力を握ると途端に態度が大きくなるのと同じである。弱いときにいじめに遭った者は報復を考える。両国紛争の原因になった無人島の所在や存在など知らなかった両国民のほうが多い。都知事の暴走を恐れて国有化した政府も、まさかこれほど中国がいきり立つとは想定外であったようである。燎原の火のように、中国全土に拡大した反日感情は、巧妙な煽動者に誘導されて、一種の集団催眠に陥り、さらにネットの煽動によって百を超える都市で、抗日デモに発展した。デモ参加者の一部は暴徒と化し、日系の企業、工場、店舗を破壊、略奪、放火など暴虐の限りを尽くし、裏返しにした日本車の上に英雄気取りで飛び上がる。暴徒の大半は職や居場所がなく、社会の片隅に吹きだまっていた鬱屈を晴らすのに、反日デモは絶好の機会であった。無警察状態の中で暴れまわっても処罰されず、日頃、高嶺の花とあきらめていた日本製高級品を略奪して、これが翌日には闇市に出まわっている。暴徒の中には戦争の無惨さを知らず、対日宣戦布告せよと息巻く者もいる。恐らく彼らの大半は、紛争の口火となった無人島の歴史も所在地も知らないであろう。要するに、社会に所を得ない不満の解消を、無人島があたえてくれたのである。国の面子や意地をかけて無人島のために開戦すれば、どんなに巨大な喪失と、国土の破壊と、人心の荒廃を招くか。かつての日中・太平洋戦争の歴史の教訓から、なにも学んでいないことになる。        森山誠一                                               

 

                                                                                                               


国勢選挙の投票

2012-12-16 11:56:56 | Weblog

 一票の重さ感ずる年の暮

木枯らしの吹きまく予想政界に

 日本は、今迄ないほどの、内外に多くの困難を抱えている大事な時期であるにもかかわらず、政界はじめあらゆる分野に、筋を通し信念を持った人物がいなく無責任が横行している。日本列島人物不足である。特に絶望感を大きく持つのは政治家と官僚である。毎年のように変わる国の宰相、国際的には益々信用が失っている日本である。私は今迄にないほど、こんなに政治不信に陥ったことはない。考えてみると民主主義の原点である国民が選んだ政治家だ。こんな弱体政治になったのは国民の責任もおおいにあると思う。私は、コンクリートから人へに期待した一人であるが、良いことを並べつのはどんな馬鹿政治家でもできる。。不信に落ち行った私は、今回、投票せずに、国民の政治不信を知らしめたいと思い、投票しないことに内心決めていた。ところが、家内いわく、それじゃお爺ちゃん責任のがれというものだよと、家内に促され、私も信念のないままに、シブシブと孫達を連れて一家で投票に出掛けた。この可愛い孫達の将来に希望と生甲斐のある日本でありたいと常々思う私である


お兄ちゃん達の音楽の先生の御努力

2012-12-15 08:31:50 | Weblog

音楽の浮かぶ楽しさ石蕗の花

お兄ちゃん達が御世話になっております「中央幼稚園」の子供たちは歌が大好きだ。これも熱心に音楽教育を取り入れた副園長の山崎さんと御婦人の沼田秀美先生の御努力が大きい。山崎先生は「中央幼稚園」の実績が評価され長野市にある清泉女学院短大の準教授としてむかえられた。常に音楽が沁みついているせいか温厚篤実な先生である。


霧の花

2012-12-14 11:31:33 | Weblog

霧の花青空に映えて満開に

刻おしむ霧氷咲たる命かな

 今朝は氷点下何度となったか分かりませんが、このぐらい寒くなりますと、以前に、千曲川辺の柳の木に迸るように咲く霧の花を思い出した。今朝から太陽が当たる天気の良い日でしたので霧の花は解けてしまったらと思い、とりもなおさず思い出の場所へ車を走らせた。幸いに思った通り霧の花で満開の大きな柳の木に会えた。青空と千曲川の流れとその上霧の花、こんな自然に会える喜びを改めてかみしめる私であった。


101歳の御老婦逝く

2012-12-13 11:42:06 | Weblog

 百歳の明るさ残し枯るるかな

 傍のお寺さんの前住職の御婦人が101の齢を全うされ本日葬儀となった。このところ人の逝くブログが続いてしまいましたが自分でも晴れた気分ではない。ついでですが、東京の私の長女が嫁いでいる姑さんの母が102歳でつい先日亡くなった。新聞のお悔やみ蘭を見ると九十歳以上の方が珍しくない時代、高齢化社会と言われるのも無理からぬことである。「夫逝きて一人の余性帰り花」今日の御葬式の御婦人は前住職が亡くなって四十数年は経つだろうと推察しています。東京の長女の御婆さんといい、今日のお寺さんの老夫人は共に百歳を超えて亡くなると、詠んだ句のごとく「枯れる明るさ」があるような気がしています。


氷見の寒ぶり

2012-12-12 11:13:01 | Weblog

一湾の鴎ざわめく鰤起し

鰤起し空へ波打つ氷見の沖

 

 成長とともに呼び名が変わる出世魚の代表格である鰤である。
初冬に「鰤起こし」と呼ばれる雷鳴がとどろき沖が荒れると、まるまると太った鰤が氷見湾内に入ってきます。この時期、定置網で獲れる鰤は重さ10Kにもなる大物。荒波にもまれ身が引き締まり、最も脂がのった美味しさから、とくに「寒鰤」と呼ばれ珍重され、その極上の味は氷見の名にふさわしい風格さえ感じさせてくれる。今年は12月現在順調な水揚げで賑わっていると報道されている。一本10K以上の鰤が「氷見寒鰤」とされ一本十万円以上の高値が付く。数年前までは毎年この「氷見の寒鰤」を楽しみに一本ものを捌いて、おじちゃん(弟)と半身づつに分けて、お刺身、照り焼き、塩焼、シャブシャブ、西京漬にしたり、お雑煮の具として、ふんだんに楽しんだ。

 寒鰤の包丁さばきまた楽し

 

 


軽妙な語りの小沢昭一さん逝く

2012-12-11 09:43:09 | Weblog

昭一的こころの逝くや寒椿

 中村勘三郎さんに続き、またおしい人が逝く、私もファンでしたが、長く続いたラジオの「小沢昭一の昭一的こころ」であの軽妙な一人語りがたのしかった。 また小沢さんは映画、一人芝居など多方面に活躍され、特に感心があることは俳句を長く詠んでいることである。私の書棚に座っていますが、小沢昭一さんの「俳句武者修行」という俳句の本がお面白い。高浜虚子の孫のホトトギスを主宰する「稲畑汀子」さんの句会はじめ、藤田湘子、黒田杏子、黛まどか、金子兜太など俳句会では有名な俳人の句会に武者修行に行った様子が面白く書いた本である。小沢さんの俳名は「変哲」だそうだ。句会の「東京やなぎ句会」のメンバーは早稲田の友人永六輔、加藤武初め落語の柳家小三冶、入船亭扇橋さんなど十数名で三十数年続いているそうだ。小沢さんは三十年以上も俳句を続けていると、俳句の難しさ、奥深さは、もうみんな十分分かっておりますし、それどころか、私なんぞは、大げさでなく、もうこの句会なしに私の人生はありません。月一回の句会が、少年のようなウブな心で、待ち遠しくてならないのです。と語っていることが印象深かった。また、小沢昭一さんの父親は今は長野市ですが、上水内群古里村富竹の出身の為父親の墓参りの為にチョクチョク長野市に足を運んでいたとのことだった。

 

 

 

 

 


年賀状

2012-12-10 18:49:48 | Weblog

賀状画く何か言葉を添へるかな

年賀状の大枠が完成する。何時もそうしているのだが、何かそれぞれの人に合った言葉を添えていた。ただPC仕上げのだけの年賀状でなく、相手に何か暖かいものが手書きで伝われば良いかなと思っておりますが、お一人お一人の顔を浮かべながらの言葉はなかなかスムースにみつからない。そんなため、大変時間を要する年賀状となる。毎年添える句ですが今年は「年新た日本を洗い直すかな」は、今経済初めあらゆる面で内向きな日本、何とか国民一人一人の発想の転換で、明日に希望が持てる元気な日本を取り戻したいと願望の句です.

 


雪の到来

2012-12-09 15:59:13 | Weblog

 やって来た怒涛の如く白き使者

音もなきく一心腐乱夜の雪

このところ、新潟以北日本海側と北海道に12月に初めてのドカで雪が降った。幸いに長野県の北部、私共まで及ばず内心ホッとしていましたが、さにあらず、一日遅く、昨夜はかなり降った。朝になると消雪パイプの水は出ないは、流雪溝の水が回ってこないわで住民は大騒ぎしていた。5~60cm一度に降ると幹線道路以外は殆ど車が動かなくなる。今は全てに車生活であるためどんな細い道でも冬中車が通るようになっている。やっと午後になり消雪パイプも流雪溝もスムースに流れるようになり、一安心、家内は一日中雪に翻弄され、大変に疲労が重なったようだ。


シャコバサボテンかも

2012-12-08 12:38:17 | Weblog

サボテンは冬日の部屋に咲き誇る

おのが座におのれ坐りぬ冬の花

 

カニサボテン」を、PCの俳句嚢で季語検索しますと該当するものがない、そこでネットで調べると、カニサボテンは「シャコバサボテン」と同じと思っていましたが、違うようだ。見た目の違いは、カニバ・サボテンは葉が丸く、シャコバ・サボテンは葉が少し長いとのこと。葉のギザギザにも違いがある。そして何よりも、開花期が違う。カニサボテンは年度が替わってからで、年末に咲くのはほとんどがシャコバ・サボテン、従って今、盛んに咲いているのはシャコバ・サボテンらしい。シャコバ・サボテンは冬場北半球でクリスマスの時期に開花することから「クリスマスカクタス」とも称されれている。そこで「クリスマスカクタス」で検索しましたら冬の季語として乗っていた。今、家では二鉢あるシャコバ・サボテンが綺麗に咲き始めている。私は鑑賞だけですが、普段の手入れは家内である。上手く咲かせるには、作業のひとつに葉摘みがあるらしい。また、暑さや多湿を嫌うようでなかなか大変なようだ。


来年の干支を画く

2012-12-07 11:56:20 | Weblog

 来年の干支を画くや師走かな

 来年の干支を画いて見る。来る年の干支は「蛇」であるが白蛇が縁起が良いといわているそうなので白蛇を画いた。下手な干支の画ですが毎年待っていて下さる方々が居る。色紙に画いて差し上げるようになって確か九年目となる。今年画いて一周りするには後三後年だ、健康で、一周の十二枚の干支の色紙を画くのが第一の目標だが、出来ることなら、もう一回り画けば、私は八十六歳となる。幾つもの病気持ちですが、大目標を持って日々健康に気をつけて過ごしたいと、干支の絵を画く度に思うことである。PCで「俳句嚢」というソフトを長年使っておりますが「季語検索」に「来る年」は新年の季語としてありますが、来る年の「る」を取って「来年」だと季語にならないようだ。この点が俳句の面白さであり、不思議さでもある。


中村勘三郎さん逝く

2012-12-06 08:41:47 | Weblog

癌晴がんば)れず役者の逝くや蝶凍つる

 

                                                     ある日の勘三郎さん(ネットより)

今年7月に食道がんの摘出手術を受け療養中だった中村勘三郎(57)に重篤情報が飛び交っている。「中村勘三郎」といえば、数ある大名跡の中でも、最も古い歴史と伝統ある名前である。それを49歳という若さで襲名した勘三郎は、歌舞伎界には欠かせない存在だ。
 
 歌舞伎関係者が語る。
 
 正直いっていまの歌舞伎界に、今年7月に食道がんの摘出手術を受け療養中だった中村勘三郎(57)に重篤情報が飛び交っている。「中村勘三郎」といえば、数ある大名跡の中でも、最も古い歴史と伝統ある名前である。それを49歳という若さで襲名した勘三郎は、歌舞伎界には欠かせない存在だ。
 
 2000年に初演の「平成中村座」は江戸の芝居見物をモチーフに人気を博し、ニューヨーク、ベルリンなど海外でも公演を行なってきた。
 
 また、野田秀樹や宮藤官九郎らとも組み、常に新しい歌舞伎を創り上げてきた。コクーン歌舞伎では若い人たちに歌舞伎の面白さを伝え、現在に続く歌舞伎ブームの礎も築いた。
 
 いま、客を呼べる歌舞伎役者といえば、勘三郎、坂東玉三郎、片岡仁左衞門の3人だが、興行面でも勘三郎が出るのと出ないのとでは大きな違いがある。
 
 以上の役者は存在しません。人気、実力ともに飛び抜けていますし、世話物、時代物、道成寺、何をやらせてもうまい。それに、若い人が歌舞伎を見るきっかけを作ってきた功績は誰にも真似できるものではありません」と 「ネットからの記事」にあった。

一方中村勘三郎さんが兄のように親しんでいた「まつもと市民芸術館芸術監督の串田和美」の由縁のある地、松本で数回歌舞伎公演を行い、地方の歌舞伎を知らない人達に歌舞伎を魅了させた実績が大きい。勘三郎さんは松本の地が大好きだった。東京生まれの東京育ちの勘三郎さんは故郷を持たない為か、松本へ来ると、空は高いし、空気は澄んでいるし、山はきれいだし、それに何よりも人間があたたかくて親切で、かと言って節度を心得て決して踏みこんでこない。そういうところが、照れ屋で以外に不器用な東京っ子の気質にぴったりあったのだろう。と信毎新聞に「エッセイスト関容子」さんが書いていた。