社会の荒廃 研究室(蜻蛉の眼鏡)

国連の女子差別撤廃条約に基づく男女共同参画を強行する女性独裁権力(フェミニズム)の社会病理に言及、コメント欄も充実。

浜崎あゆみの言う「愛の形」とはどういうものなのか? --あゆ&長瀬破局--

2007-07-18 12:12:33 | 結婚、恋愛

 7年間の交際、結婚秒読みと言われながらも破局した浜崎あゆみと長瀬智也、浜崎の公式ファンクラブのHPでは「愛には色んな形がある」、「私達の愛の形はこれなんだよね」と円満な別れを強調しているが、これに違和感を感じた人は決して少なくないのではないだろうか。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070718-00000000-dal-ent&kz=ent

あゆファンに報告「正直すぎてごめん」(スポーツニッポン) - goo ニュース

 だいたい、別れというのは、愛が存在しなくなったから別れるわけで、別れた後で「私達の愛の形はこれ」と言ったところで、意味不明である。それに「愛には色んな形がある」というのも、何でも自分らしさで正当化してしまおうというフェミニズム社会の影響をもろに受けた言い回しだ。別れることも愛だとでも言うのだろうか。

 次に、「7年間の年月を共に歩んできた同志なわけだから、いきなり『さよならっ。ハイ、他人。』なんてなるわけでもなく、今までと変わらず連絡も取り合うし、一緒にゴハン食べたりするんだなぁ」というのは、浜崎はそういう願望かも知れないが、長瀬の心はそれで納得しているのか考えたことはあるのか。結婚という束縛には囚われずに自由に生きたい、でも都合のいい時だけ長瀬にも逢いたい、そうした意識もフェミニズムを絵に描いたようなものである。

 更に、「私たちは恋人同士という枠を越えて、家族のような兄弟のような、そんな関係になったんだ。これからは恋人同士という関係ではなく、兄弟仲良く相変わらずなうちらでやっていこうって話し合った感じなので温かく見守って下さいましっ」というのは、全く矛盾した言い回しだ。「家族のような兄弟のような」と言うのなら結婚すればいい話だ。敢えてそれを拒否したのは家族関係になることを拒否したからではないのか。

 以上の様に、浜崎のネット上での発言を見る限りでは、人気低下を防ぐためにその場の体裁を繕っているだけのようにしか感じられない。

 私は浜崎あゆみの生い立ちなど良く知らないので想像しか出来ないのだが、恐らくトップスターとして芸能界に君臨するうちに、自分がかぐや姫のような崇高な存在であると勘違いしてしまい、女性として求められる家庭的な妻として必要な心遣いや思いやり、そして優しさというものを失ってしまったのではないかと思う。

 更に、相手の長瀬と比較して、自分はトップスター、相手は中堅グループの一員ということで、社会的地位や収入の差など、自分より見劣りする長瀬を半ば軽蔑的な目でしか見れなくなったということではないのだろうか。

 しかし、そういう見方をするなら、山口百恵と三浦友和は結婚しなかったはずだ。結婚というのは、決して社会的地位や収入だけで決めるものではない。大切なのは、相手を思いやる優しさと協力意識である。

 少なくとも、これまでの報道を見る限りでは別れの判断は浜崎の方が有力的だったと感じられる。7年間もの交際期間を無駄にした責任というものを浜崎はどう感じているのだろうか。いつまでもかぐや姫でいられるわけではない。昨今の自己中心的な女性の風潮がこうした芸能界にも表れている。