社会の荒廃 研究室(蜻蛉の眼鏡)

国連の女子差別撤廃条約に基づく男女共同参画を強行する女性独裁権力(フェミニズム)の社会病理に言及、コメント欄も充実。

神田沙也加結婚、フェミニズムが働く女性の鑑と賛美する母松田聖子との確執、翻弄された聖子

2017-04-27 12:58:14 | 芸能、音楽

 タレントの神田沙也加(30)が俳優の村田充(39)との結婚を発表したことを受けて、ネット上では様々な反応が見られる。このニュースはヤフートップでもかなり長時間掲載されたのだが、そこには、母である松田聖子の話題を避けるような空気が感じられる。

 神田沙也加は神田正輝を父に、松田聖子を母に持つ、いうなれば芸能界のサラブレッドだ。両親の離婚後は母聖子の下で育てられ、15歳で芸能界入り。カレーのCMなどで共演したり、紅白歌合戦に2人で出場するなど、仲良し母娘の印象があった。だが今回の結婚発表では、神田と村田、そして父神田正輝との3ショットの写真をネットに載せている。何か聖子だけが蚊帳の外の様な雰囲気を感じさせる。

 ヤフーコメント欄でも、聖子に批判的なコメントも目立った。聖子は子育て出来なかった、親の七光りに頼らずミュージカルなど自ら道を切り開いた沙也加は立派だ、母親を反面教師にしたからいい子に育った、など。逆に聖子が離婚再婚を繰り返していることを取り上げ、沙也加も同じ道を辿るだろうなどといったコメントには大量に反対投票が付くなど、徹底して聖子との違いを強調するようなコメントが支配的だった。

 一説には、沙也加と聖子との関係が悪化したのは、聖子の男性関係を巡るものだとも言われている。また聖子の下で育てられたとはいえ、実際に育児をしていたのは聖子の母、つまり沙也加の祖母で、聖子の母親としての存在感は決して大きなものではなかったとも推測できる。父とは別居、母も仕事に男に奔走、そうした環境で沙也加は寂しさを感じていたのだろうか。自らの手記にもそれを思わせるようなコメントがあったらしい。

 だが、聖子が結婚した昭和60年は男女雇用均等法が制定された年。当時からフェミニズムは拡大を続けていて、結婚後も仕事を続ける姿勢にフェミは聖子を絶賛した。一方でその5年前に結婚引退した山口百恵に対してフェミは女性の社会進出が後退すると批判的だった。また10年ほど前にも聖子の働く母親としての姿はNHK特集にも取り上げられ、新たな女性の生き方のお手本のような報道がされていた。

 そんな聖子が子育てをまともに出来なかったという論調が支配的になれば、当然フェミ政策は失敗だったという結論になる。フェミとしては劣勢になることをものすごく嫌うので、ネットの随所に工作員を配置し、絶対にフェミ優位の論調を維持しようと工作活動をする。しかし今回はそうした必死さが見られない。

 もう今更いちいち工作活動をしなくてもフェミ勢力の拡大は安泰であるという余裕の意識もあるかも知れないが、このまま聖子を悪者にしてしまうわけにもいかないはずだ。それとも、これもフェミの新たな戦略なのか。

 ただ、聖子の男性関係については、個人的には気の毒な部分もあると私は感じている。何故なら、聖子があのような人生になったのも、郷ひろみとの破局が発端だと思うからだ。当時の聖子はまだまだ純粋だったはず。破局会見での「今度生まれ変わった時は一緒になろうね」という言葉は決して着飾ったものではないと思う。郷は聖子に家庭に入ることを望んだ。しかし聖子は結婚後も働くことを望んだ。折り合いが付かず破局となってしまった。だが結婚後も働くという聖子の意志は明らかにフェミの影響によるものだ。いわばフェミが2人の結婚を破談させたと言っても過言ではないだろう。そしてここから聖子の歯車が狂い始めた。正輝との結婚も失意の聖子にタイミングよく現れた男性だったからということもあるだろう。他にも石原プロ絡みの噂も囁かれているが、事実確認のしようがない。

 だが決して聖子は郷のことを忘れたりはしない。聖子が男性と付き合う時には常に郷のことが頭にあるのではないだろうか。まるでジュディ・オングの「魅せられて」の歌詞に登場するような「好きな男の腕の中でも違う男の夢を見る」そうした女を実践しているかのようだ。

 しかし聖子が自分の胸中を包み隠さずに話せる相手がいるかというと、恐らく誰もいないだろう。ましてや娘の沙也加になど話せる訳がない。従って、沙也加には聖子が単なる男狂いの女にしか見えなくなってしまう。しかしそれが却って沙也加の人格形成に良い効果をもたらしたとすれば、何だか皮肉な話でもある。

 因みに今回の報道で、神田沙也加の親が神田正輝と松田聖子だということを知らなかった人も意外に多いらしい。これも時代の流れなのか。だが紅白に母娘で出場した時には歌う前のインタビューでも「母とこうして歌えることを光栄に思う」と沙也加は話していたくらいだから、それでも知らなかった人が多いというのはちょっと理解に苦しむ。

 ともあれ、今後は沙也加の夫婦関係にも世の関心が向くことだろう。もし離婚でもすればすぐにマスコミが押しかけ、蛙の子は蛙などと聖子と比較して騒ぎ立てることだろう。沙也加もそれを判っているだろうから、決して離婚はしないように努めるはずだ。とにかく、沙也加には幸せな結婚生活を送って欲しいと願うばかりである。


ベトナム女児殺害、事件報道は全てフェミ権力の強化に利用される、一方で冤罪の指摘も

2017-04-19 21:54:34 | 事件、事故

 ベトナム女児の殺害事件で逮捕された男は保護者会の会長だったということで全国に衝撃が走っている。もう誰を信用すればよいのか判らないという声が上がるのも当然だろう。だがこの事件に関しても大きな権力により演出されているに過ぎないという見解もある。

 さゆふらっとまうんどのブログでは、この事件は明らかな冤罪であると結論付けている。逮捕時に容疑者は不当逮捕であるなどの供述をしているという報道があったようだが、現在では黙秘しているとのことだ。しかし本当に黙秘しているのかどうかは判らない。本当は無実を訴え続けていても、権力が介在していれば都合の悪いことは報道されないし、警察も発表しない。そう考えると、さゆ氏の見解も決して無謀ではないだろう。

 では本ブログではこの事件をどう捉えようか。例えば容疑者が真犯人だったとしたら、その犯行理由は何かという視点で考えてみよう。報道では容疑者がロリコンであるというものもあるが、どうも信じ難い。この事件を単に性的目的の事件と考えてしまうのはそれこそフェミ権力などの権力側の思う壷だ。

 私は被害女児と容疑者の子供との間で何らかの争いがあったり、或いは親同士の争いがあったりといった、何らかの紛争が犯行理由に繋がっているのではないかと推測する。そうした理由があれば、容疑者が真犯人というのもある程度納得がいくのではないだろうか。少なくとも性的理由よりは考え易い。

 しかし報道は権力の下に操作されている。従って争いが理由だったとしても、それらは報道されずに強引に性的目的に結び付けてしまうか、或いは争いを理由としても、争いの発端や非は容疑者側の方にあるとするなど、必ず全面的に被害者擁護の報道に偏ることだろう。つまり盗人にも五分の利という理論は全く通用しないのだ。

 では何故そのような加害者100%悪の論調を作りあげようとするのか。それはフェミ権力が男=悪VS女=善の構図を強化したいからである。そしてとにかく男は既婚未婚問わず性欲の塊であるという印象操作をして常に女性は性被害の危険に晒されているという風潮を強化させたいからだ。それにより女性専用車両や災害時の女性専用避難所など、女性専用の諸施設の正当化と更なる拡大が出来るからだ。

 全ての事件、そして報道はフェミ権力などの権力側の野望に沿う形で利用されていくということを忘れてはならない。


引退の浅田真央、平成の大和撫子に相応しい

2017-04-12 21:52:15 | 芸能、音楽

 会見の最後まで笑顔を絶やさず、記者からの質問に一つ一つ丁寧に答えていた。だが最後に彼女の目に涙が浮かんだ。それでも後を向き涙を拭い、カメラの前で涙を見せようとはしなかった。最後まで女王としての意地と心の強さを見せてくれたのかも知れない。

 フィギュアスケート女子、浅田真央選手が引退を表明、本日12日に会見を行った。会見の模様はテレビでも生中継されるほど全国が注目した。

 浅田の経歴を今更説明するまでもないだろう。15歳で初出場したグランプリファイナル(GPF)でいきなり優勝し、一躍有名になった。当時はトリノ五輪の代表選手の選考の話題もあり、浅田にも出場の期待が高まった。しかし年齢制限に引っかかり、出場は叶わなかった。その後は、ライバルと言われたキムヨナが台頭し、バンクーバー五輪ではキムヨナに敗れ、銀メダルに終わった。しかしこれら一連の経緯には、キムヨナに対する甘い採点や、それらの背後にある反日的な政治権力などが噂された。当時浅田のコーチだったタラソワ氏も、ショートプログラム(SP)終了後に、「何でキムヨナの点数があんなに高いの」と不満を漏らしていたという。五輪終了後の会見でも採点の話題が出たが、この時も浅田は、「採点のことは自分では言えないので」、と言及しなかったものの、「全て完璧な演技だった場合何点出たのかとは思う」と答えている。

 浅田の素晴らしさはスケート技術だけではない。その人格も高く評価されてきた。インタビューや会見でも質問には常に丁寧に答えていたし、決して批判的なコメントはしなかった。ソチ五輪の時に森喜朗元首相が「大事な時にすぐ転ぶ」と浅田を評したことに関しても、浅田は決して森氏を批判しなかった。記者クラブの記者達が何とか浅田の口から批判的なコメントを出させようと必死に質問を投げかけるが、浅田は「特に何も思ってない」、「自分ではちょっと違うかなとは思うが森さんにはそう感じたのだろう」などと上手くかわした。だが再三にわたる記者の質問攻めに浅田も空気を感じたのか、最後に「森さんも(転ぶ発言を)後悔してるかも」と答え、場内から拍手が沸き起こった。しかしこれは批判めいたコメントを言わないと記者が納得せずに会見が終わらないからと浅田が記者を気遣った発言だったのではないかと思う。そもそもあの時の会見はソチ五輪を終えての会見なので、森氏の転ぶ発言を持ち出すのは本旨から外れるのだ。

 こうした浅田の姿勢は今日の会見でも同じだった。「結婚の予定は」とか、そんなことを聞かれても「あります」などと答えるわけがない。それよりも「結婚はいつ頃までにしたいか」といった内容の方が良かったのではないか。それでも浅田は丁寧に「ないです」、「相手がいれば」とごく普通の回答をした。また「トリプルアクセルに何と声をかけたいか」など、判断に迷うような質問にも「何でもっと簡単に跳ばせてくれないの」と的確に自分の思いを表していた。

 こうした浅田の品格は、幼少の頃から学んでいた山田満知子コーチの影響が大きいと思う。過去に山田満知子コーチにインタビューした内容がネット上にあったのを記憶している。今でもあるかも知れない。それによると、山田氏は教え子達には人としての振る舞いなどを教えているといったことが書かれていた筈だ。「たとえ大会で優勝しても、あの子は性格が悪いんだよ、と噂されたら優勝の価値も下がってしまう」浅田はこの教えを忠実に守ったのではないだろうか。

 更に浅田が恵まれていたのは、スケートの練習に費やす時間があまりに長く、フェミニズムが作り上げた世間の歪みをあまり意識することなく過ごせてこれたということもあるだろう。いくら元々は性格のいい子であっても、フェミは心の放射能なので、どうしても影響されてしまう。浅田はスケート漬けになっていたために却ってフェミ汚染から身を守ることが出来たのだと思う。だがこれが本来あるべき大和撫子の姿なのだ。

 キムヨナがいたために浅田は反日勢力からの標的にされてしまった不運な面もあるが、それに加えて洗脳出来なかったフェミ陣営も歯がゆい思いをしているだろう。しかもそれが幅広い世代から高い評価を受けた女性だとなると、今度はフェミは浅田の画面からの抹消を画策しているかも知れない。浅田がフェミ汚染されてしまわないように、国民も注視していく必要があるのではないだろうか。そして最後に、浅田真央氏には心から御礼申し上げたいと思う。


事件や事故は意図的に起こされるものなのか? 何が起きてもおかしくない時代へ

2017-04-05 10:23:46 | ネット媒体

 マスコミ報道を鵜呑みにしてはいけないということは本ブログでも何度も主張してきた。また他サイトでも同様の論調はある。そして国民も徐々にではあるが報道に関してそのタイミングや意図などを考えるようになってきたと思う。

 しかし、まだ大多数の国民は漠然と報道を見ているだけで、それらについて深く考えてないのが現状だ。それには色々な理由がある。例えば仕事や生活等で精一杯で他に目を向けている余裕がないとか、或いは考えても良く判らないとか、考えたところで自分にとって何か利益があるとは思えないから、など事情は様々だろう。

 かくいう私も、報道には裏があるといったことは主張しても、それらがどんな思惑で繋がっているか的確に捉えるのは非常に難しいと思っている。フェミ関連の話題なら大体見当は付くのだが、フェミとの関連性が一見すると判らないような物事だと、なかなか関連性は掴めない。

 例えば、今回紹介するさゆふらっとまうんどの動画では、我孫子市女児死体遺棄事件と那須雪崩事故、そして格安旅行会社てるみくらぶ破綻のニュースの繋がりについて解説しているのだが、私はこの動画を見るまでこれらの関連性には全く気付かなかった。普段から報道に疑念を持っている者でもなかなか気付かないのだから、ただ漠然と見ている人達が気付かないのも無理もない。

・那須雪崩死亡事故は、人工雪崩によって意図的に起こされた。
https://www.youtube.com/watch?v=Ax3zCwx8FGs

 とにかく、この動画を見て欲しい。全部で30分くらいあるので、それだけの時間がある人にしか見えないのだが、確かになるほどと思うところはある。実際に人工雪崩があったかどうかは判らないのだが、もし人工的だったとすると全ての辻褄が合うというのがさゆ氏の見解のようだ。

 そして更にこの先、何が起きるかということも予測して欲しいと思う。どんな事故、事件が起きるのか。具体的に挙げだすときりがないのだが、いうなれば何が起きてもおかしくない時代になったということなのだろう。最早想定外の事態などこの世に存在しないということなのかも知れない。