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おかあちゃん牧師の日記

新船橋キリスト教会の牧師です!
日々の生活のこと、教会のこと、
家族のことなどを書いています!

五郎くんのホットケーキ

2013-12-17 08:07:45 | 信仰 聖書

今年のクリスマスで活躍するのはこのお話し。

「五郎くんのホットケーキ」

実はこのお話し大学生?神学生?のころに出会いました。
当時、広島の植竹牧師が、
公園伝道を勧めていらっしゃって、
一度講演会の中で、
デモンストレーションとして、
実際公園で子どもに話すようにして話してくれたのがこのお話し。
そのお話しのテープを掘り起こして、
当時はそのままコピーしてお話したものです。
確か…。 

亀田にいたときにも、
紙芝居を作って(そのときには自分で絵を書き)、
クリスマスに、主人にお話ししてもらったことがあります。 

今年は、
台湾で知り合った日本人のお友達、エリカが、
このお話しのために紙芝居を作ってくれたので、
早速、教会で用いようと思っています。

明日の日本語クラスと課輔班、
そして次の日の幼稚園でのクリスマスでお話しします。
子どもたちの喜ぶ顔が目に浮かびます。

ストーリー知りたいですか?
下に貼り付けましょう~。
ぜひ教会で用いてください!

五郎くんのホットケーキ

 

五郎くんは男ばかりの5人兄弟の長男、5年生。両親はちり紙交換のお仕事をしていて、朝早くから夜遅くまで働いていてとても忙しいのです。みんなが学校から帰ってくるころには、もうおなかがペコペコ。そこで五郎くんがいつもホットケーキを作ります。

 「おい、フライパンを持って来い!」「あと、小麦粉、砂糖、卵、バターもな。」「ボールに泡だて器、フライ返しも忘れるな!」みんなおなかが空いているのでよく言うことをききます。 ボールにバターと砂糖、卵を入れてよく混ぜます。そして小麦粉、ベーキングパウダー。生地がふんわりなめらかになったら、フライパンにバターをしきます。「よ~し!流し込むぞ!」ジュワーッ!!いいにおいがしてきます。
 弟たちは一斉にフライパンを覗き込みます。「兄ちゃん、兄ちゃん、いいにおいがしてきたな。」「もうひっくり返してもいいんじゃない?」「まだまだだ。ぷつぷつ泡が出てくるまで我慢だ。」「おっ、いい感じに焼けてきたぞ。さて、ひっくり返すか。よっ!」「兄ちゃん、いい色だな~!」「ああ、もうすぐできるからな。」 さあ、ホットケーキが出来上がりました。大きなお皿を出して、ホットケーキを載せます。「さあ、切るぞ!」「兄ちゃん、公平にな。」「わかってるよ。」でも、5等分って難しいのです。切り終わると大きいの、小さいの様々です。 「小さいお皿を5枚持って来い!」「兄ちゃん、おれこれ!この大きいの!」「だめだめ!一番大きいのは、一番大きい俺がもらうに決まってるだろ!」「え~、ずるいよ!」「二番目に大きいのが二番目。三番目に大きいのが3番目、4番目に大きいのが4番目。そして一番小さいのはチビだ。」「やだ~!僕のこんなに小さいよ。お兄ちゃんのと取り替えてよ!」「だめだ!お前はチビなんだから一番小さいのでいいんだよ!」「やだ!やだ!」とうとうチビは泣き出しました。わ~ん!!「やだ、やだ、やだ~!!」「うるさい!」五郎はゴツンとチビの頭を叩きます。そうするとますますチビは大きな声で泣き出すのでした。

  さて、五郎くんは教会学校に行っています。毎週みんなでゲームをしたり、賛美をしたり、聖書のお話を聞いたりするのが大好きなのです。教会学校の先生も大好きです。五郎くんの分級の先生は若くて優しい女の先生。五郎くんの大好きな先生です。 ある日先生が、五郎くんに話しかけました。「五郎くんは、何人兄弟なの?」「五人兄弟で~す!」「5人?多いのね。…わかった、五郎くんの名前からすると、5番目ね!」「ちがうよ。一番目、長男だよ。」「そうなんだ。ところで五郎君の兄弟は仲良しなの?」「全然、いつもけんかだよ。」「え~?何で?」「チビがうるさくて泣くんだ。」「何で泣くの?先生に話してみて。」
 「実は…」五郎くんは、お父さんお母さんの帰りが毎日遅いこと。だから、みんなでホットケーキを作って食べること。でもできたホットケーキを切ると大きい小さいができて、それがもとでけんかになることを詳しく話しました。
 「ふ~ん、そうなんだ。」先生は少し考えた後で、こんな提案をしました。「ねえ、ねえ、五郎くん。明日から1週間は、五郎くんが一番小さいホットケーキを食べることにしない?」「え~!やだよ!僕大きいのが食べたいよ。」「じゃ、五郎くん、もし1週間我慢して一番小さいホットケーキを取ったら、先生五郎くんにシューっクリーム5個買ってあげる。それでどう?」「えっ?シュークリーム5個?一人で5個も食べれるの?う~ん。…わかった!僕やってみるよ!」

  さて、月曜日みんな学校から帰って来ました。「よし!ホットケーキを作るぞ!」「フライパン持って来い!あと、小麦粉、砂糖、…!」「よし、焼くぞ!」ジュワーッ。今日もきれいなホットケーキが出来上がりました。「さあ、切るぞ!」五郎くんはいつになく慎重に切ります。でも、微妙に大きさに違いが出ました。「じゃあ、この大きいのは…」「ぼく!ぼく!」チビが泣きそうな声で大騒ぎします。「よし、チビにあげよう。二番目に大きいのが4番目、3番目に大きいのが3番目(三番目はいつもいっしょ。笑)4番目に大きいのが二番目。そして一番小さいのが俺だ。」
 みんな、唖然として五郎を見ています。「なんだ、なんだ。早く食べろよ。」「兄ちゃん、どうしたの?」「おなかでも壊したの?」「いや俺にはシュー…いやいや、何でもない、兄ちゃんあんまりおなか空いてないんだ。早く食べろ。」二番目と三番目はこそこそ言っています。「兄ちゃん意地汚いから、きっと何か変なもん食って、腹壊してんだよ。ははは。」それでも、みんな嬉しくて、特にチビは大喜びでホットケーキを食べました。今日はけんかもチビが泣き叫ぶ声もありません。
 次の日もホットケーキを焼きました。そして大きいのをチビに二番目に大きいのを4番目に…。「兄ちゃん、いいの?」「いいんだ、いいんだ、気にするな。」3日目、4日も続きます。家の中が変わって来ました。あんなにうるさかったチビも最近はいつもにこにこして、お兄ちゃんに甘えるようになってきました。そうすると、五郎くんもチビが何だかかわいく思えてくるのでした。そのうち五郎くんは思いました。「何だか、シュークリームのために1週間我慢していたけど、何だかもうどうでもよくなっちゃったな。来週からも俺が小さいのをとるか…。」

 そして土曜日最後の日。五郎くんは大きなホットケーキは更に大きく、小さなホットケーキは更に小さく切りました。そして大きなホットケーキをチビのお皿に、一番小さいホットケーキを自分のお皿にのせました。「兄ちゃん、兄ちゃんのそんなに小くていいいの?」「おなかすいちゃうよ。」「いいんだ、いいんだ。みんな早く食べろよ。」  「兄ちゃん、ぼくのを少し上げる!」二番目が自分の分を少し切って、五郎くんのホッとケーキの上にのせました。3番目も「ぼくも!」と言って、やはり自分の分を少し切って五郎くんのお皿にのせました。4番目も「ぼくだって!」と自分の分を少しのせました。チビもみんなを見て「ぼくも、ぼくも!」と自分の口に放り込みかけていたホットケーキのかけらを五郎くんのホットケーキの上にのせました。小さなホットケーキの上に大きなピラミッドができました。
 五郎くんは大きなピラミミッドとその向こうにある兄弟たちの笑顔を見ながら、ちょっと涙が出そうになりました。はじめはいやいやはじめたことでした。でも自分が変わった事で兄弟たちも変わったのです。五郎くんはとても幸せな気持ちになりました。

 次の日、五郎くんは教会学校に行きました。真っ先に分級の先生のところに行って、1週間のことを報告しました。「そう、よかったわね。これ約束のシュークリーム。五個買ってきたわよ。」「ありがとう、先生!」五郎くんはくるっと振り返ると兄弟たちのところに行きました。「おーい!チビ!シュークリームあるぞ!みんなで一緒に食べようぜ~!」「わーい、お兄ちゃん!」
 

  一番大きくて強い人が小さくて弱い人のようになると、みんなが幸せになるんです。五郎くんが変わったら兄弟が変わったよね。みんなのうちで一番強いのはだれ?お母さん?お父さん?ひょっとして君かな?君が変わると家族が変わるよ。
 じゃあ、世界中で一番強い人はだれ?馬英九?オバマ? 神さまだよね。神様が一番強くて、何でもできるお方。その神様が小さな弱い人間、しかも赤ちゃんになって生まれてくださった、それがクリスマスなんだよ。イエス様は神さまの子で大きな力を持っていたのに、その力も位も全部捨て、人間としての生涯を歩んでくださった。そして最後は、十字架にはりつけにされて死んでくださった。神の子だもの、力はあったのです。十字架に付ける兵士や人々をやっつけることだってできたのです。でもそうしなかった。一番弱く、小さくなってくださった。それは私たちの罪の罰を私たちに代わって受けるため。イエス様が私たちの代わりに十字架にかかってくださったから、そのことを受け入れて、信じた私たちは喜びをと平安でいっぱいの新しいいのちをいただけたんだよ。そして、神さまとも人とも仲良くできるようになったんだ。
 私たちもこの小さく弱くなってくださったイエスさまを心のお迎えしようね。そしてわたしたちも自分が一番の人生じゃなくて、みんなの幸せのためにすこしだけ弱く、小さくなってみない?お祈りしよう。

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We are the reason

2013-12-16 08:13:10 | 信仰 聖書

We are the reason.wmv

クリスマスが近づくと聴きたくなるこの曲。

イエス様がこの地上に生まれてくださった理由(わけ)、
それは私たち。

イエスさまが生涯苦しみを受け、
十字架の上で罰せらた理由、
それは私たち。

私たちはその理由を知り、 
生きる意味を見出した。
そして、今度は私たちが彼のために生きる。

私たちが生きる理由、
それはイエス様。

 

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教えられたこと

2013-12-03 08:56:29 | 信仰 聖書

大学では社会福祉を学んでいたのだけれど、
当時の先輩がFBで
同志社大学の木原活信教授の言葉を紹介していました。
どんな人なのだろうと、その方のブログまでたどってみたら、
その先生の言葉が心に響いてきました。

以下は、木原活信先生のブログから抜粋。

  援助者であると自負する者に欠落している視点は、苦しみ倒れている側の目線である。誰かを援助しようとする強さの視点(誰が隣人か)ではなく、誰が援助してくれたのか(誰が隣人になったか)という視点は苦しむ当事者の視点である。それは自らの無力さを認めた弱さの視点でもある。律法学者の「誰が隣人か」に対してイエスの革新的な問い返し(「誰が隣人になったか」)によって改めてこの問いに真摯に向き合う必要がある。そして苦しむ者の傍らに寄り添うイエスの姿とサマリヤ人を重ね合わせてみると、ここに福祉と福音を説くカギがあるように思う。
傷つき倒れる物からの視点

ふむ。
クリスチャンはよく援助者の側に身をおいて、
このたとえ話「よきサマリヤ人」を読む。
でも援助される側、当事者の側に身をおくときに、
このたとえ話は、
また違った意味合いをもってくる。

できれば当事者にはなりたくない。
でも、当事者にならなければ、
見えないこともある。
 

「キリスト者にとって愛するというのは、愛せないという、その自覚から始まる愛のことだと思います。それが世俗の社会福祉との決定的な違いだと思います」
(故嶋田啓一郎先生)

この言葉を引用しながら、

他者を愛そうと必死になって、結局、愛することができないという挫折感と「弱さ」への自覚、それは絶望感ですらある。だが、それならば、開き直ってもう何もしないというようなニヒリズム(虚無主義)ではない。
愛せないという弱さの自覚から始まる愛。それはもはや自力によって達成されるような愛ではなく、神の愛しかないという徹底的な他力という発想の転換への入り口でもある。
(「愛せない」ことから始まる社会福祉)

この言葉も示唆に富んでいる。

先生の言及する
「神の愛しかないという徹底的な他力という発想の転換」
ホントにそこから始まるのだと思う。
 

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祈り

2013-11-18 10:09:43 | 信仰 聖書

上の2人が通うモリソンには、
英語で聖書や信仰について学びたいお母さんたちのための
"Asian moms book study meeting"
というグループがありす。

わたしもこのグループに加わらせてもらって、
もう2年ぐらいになるかな?
毎学期、いろいろな英語のテキストを読むのですが、
今学期はこの本。

親が子どものために祈ることの大切さ、
何をどうやって祈るかを学べる本です。

2週間前に読んだところから学んだこと。
それは、祈りをもって子どもを守るということです。
 

親はできる限り子どもを守りたいと思う。
そして、子どもが親の目の届く範囲にいるときには、
ある程度それも可能。
でも、子どもはどんどん離れていく。
幼稚園や学校に行き始めると、
すでに親の目は行きとどかない。
そしてやがては親から自立していってしまう。

だから、祈りをもって子どもを守る。
いや、祈りを通して神さまに守っていただく。 


この本の筆者の息子が高校生のとき、
毎日お友だち2人と一緒に、
順番に車を運転して学校に通っていた。

ある日、子どもが朝家を出てしばらくしてから、
病院から電話があった。
息子たちが乗っていた車が事故に遭ったとの知らせ。
車は大破してしまい、
更に悪いことには、
だれもシートベルトをしていなかったとのこと。

両親はすぐに病院に向かう。
朝も子どものために祈った。
車中も聖書のみことばを思い巡らしながら、
2人で心を合わせて祈る。

他の2人の子どもは、重症だった。
運転していた子はハンドルで胸を打ち、
フロントガラスが割れて顔に大きな傷をつくった。
助手席の子は車から飛び出したらしい。

ところが、祈られていたその子は、
後ろの座席に座り、
フットボールのユニフォームが入った
大きなかばんを抱えるようにして座っていたため、
ひざと背中の打撲ですんだ。
それは奇跡的な軽症だったという。 


やっぱり祈りだと思う。
祈りが家族を守るのだと思う。

大きな問題にあたって、
出口が見えないときも、
祈りってさえいれば、
全ては神さまのみ手の中のこと、
安心して解決のときを待てばいい。


そうそう、土曜日も奇跡みたいなことがあった。
愛家教会でいつも親しくしてもらっているJさん、
モリソンでメンテナンスの仕事をしている方。
土曜日の朝、彼は出勤して仕事をしていた。
三階ぐらいの高さがある水のタンクの上に上って、
何か作業をしていたらしい。

うちの息子Kも学校にいた。
「ライフガード」という科目の補講で、
プールで先生と何人かの学生と一緒にいた。

そんな時、
Jさんがその水タンクの上から落ちた。
そして、ちょうどそのタンクのあたりを眺めていた先生が、
落ちるその瞬間を目撃した。

何しろライフガードを教えている先生だ。
対応がすばやかった。
学生たちを使って、
すぐに救急車を呼び、
応急処置をした。

あと幸いなことに、
Jさんは、下までは落ちなかった。
真ん中あたりの足場のところに落ちたのだった。

不幸中の幸いが重なった。

神さまだな…と思った。

Jさんは、その日中に退院した。
外傷が少しあり、足のじん帯を痛めたようだけれど、
骨折もしていなかった。 

感謝主! 

 

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カナの婚礼

2013-07-17 11:21:07 | 信仰 聖書

夏休みの間は、
毎週金曜日にバイブルタイムを持ちます。
「子どもの頃のイエス様」、
「バプテスマのヨハネから洗礼を受けるイエス様」、
「サタンの試みを受けるイエス様」、
「12弟子の召命」を続けて学んで、
今週は、「カナの婚礼」の箇所です。

イエスさまの公生涯におけるはじめての奇跡です。

それから三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、
そこにイエスの母がいた。
イエスも、また弟子たちもその婚礼に招かれた。
ぶどう酒がなくなったとき、
母がイエスに向かって「ぶどう酒がありません。」と言った。

すると、イエスは母に言われた。
「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方。
わたしの時はまだ来ていません。」
母は手伝いの人たちに言った。
「あの方が言われることを、何でもしてあげてください。」

さて、そこには、ユダヤ人のきよめのしきたりによって、
それぞれ八十リットルから百二十リットル入りの石の水がめが六つ置いてあった。
イエスは彼らに言われた。
「水がめに水を満たしなさい。」
彼らは水がめを縁までいっぱいにした。
イエスは彼らに言われた。
「さあ、今くみなさい。
そして宴会の世話役のところに持って行きなさい。」
彼らは持って行った。
宴会の世話役はぶどう酒になったその水を味わってみた。
それがどこから来たのか知らなかったので、
――しかし、水をくんだ手伝いの者たちは知っていた。――
彼は、花婿を呼んで言った。
「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、
人々が十分飲んだころになると、悪いのを出すものだが、
あなたは良いぶどう酒をよくも今まで取っておきました。」
イエスはこのことを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行ない、
ご自分の栄光を現わされた。それで、弟子たちはイエスを信じた。

新改訳聖書 ヨハネの福音書2章1~11節

実は先週の祈り会のときに、
驚くべきことを聞きました。

きのう記したS伝道師の奥さんのお母さんは、
今年の初めぐらいに癌が見つかり、
すでに第三ステージだと診断されていました。

私たちは、祈り会の度ごとに、
お母さんの癒しのために祈っていましたし、
お母さん自身もクリスチャンだったので、
癒しのために祈りつつも、平安に療養していました。

ところが、
先週の水曜日にS師の奥さんが、
こんな報告をしたのです。

「母の癌が癒されました。
医者が、以前は確かにあった癌が、
見つからないと言うのです。」

ハレルヤ!!

まさに奇跡ですね。
インドネシアみたいなところだと、
神様は時に本当に鮮やかに奇跡を現されます。

「カナの婚礼」のお話の準備をしているときに、
ふとこのことを思い出しました。

しかし、水をくんだ手伝いの者たちは知っていた。

お母さんの主治医は、
何が起こったのかさっぱりわからないでしょう。
まだイエス様を信じていないS師母の兄弟も
何が起こったのか理解できないはず。

でも、遠くにいる私たちは、
祈っていた私たちは知っています。
彼女に何が起こったのか。
どなたか彼女を癒したのか。

感謝主!!

 

 

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年賀状

2013-01-09 21:52:33 | 信仰 聖書

たぶん85歳半ばぐらいだと思います。
西大寺教会のしまだれいこ先生からの年賀状。

もちろん絵も字もご本人の作品。
芸術的にもすばらしいけど、
先生が書かれると、
みことばの重みが違います。 

神さまに生かされていることを知っている
信仰者の謙虚さが伝わってきます。

 

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I can only imagine

2012-11-25 22:55:15 | 信仰 聖書

先日のリトリートのワーシップタイムのときに歌った曲、

I can only imagine

この曲があんまり良くて、
その後も頭から離れません。

天のみ国でイエスさまに会うその日のことを
イメージしている歌です。
歌いながら、何だかすごく感動してしまいました。

皆さんにもシェアしたくて、
久々に貧しい英語力で歌詞をちょっと訳してみます。
間違ってたら教えてくださいね。

 

イメージすることしかできないけれど、
どんな感じなんだろう、
あなたの横に並んで歩くときというのは。 

イメージすることしかできないけれど、
私の目は何を見るんだろう、
あなたのみ顔が私の前にあるとき。

あなたの栄光によって取り囲まれ、
私の心は何を感じるんだろう、

あなたのためにダンスを踊る?イエス様、
それともあなたへの畏れで動けない?

あなたのみ前に立つことになるんだろうか?
それとも私はひざをかがめる? 

ハレルヤと歌うのだろうか?
少しでも話せるのだろうか? 

私は、ただイメージすることしかできないけど。
イメージすることしかできないけど。
 

私はただイメージすることしかできないけど、
その日が来たとき、
私自身がみ子の中にあることがわかる。

ただイメージすることしかできないけど、
私がなすであろうすべてのことは、
永遠に、永遠にあなたを賛美することだけ。

ただ、イメージすることしかできないけど。 

 



 

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弱い人々には

2012-07-15 22:15:54 | 信仰 聖書

「弱い人々には、弱いものになりました。
弱い人々を獲得するためです。
すべての人に、すべてのものとなりました。
それは、何とかして、幾人かでも救うためです。」
Ⅰコリント9:22 

今日の礼拝説教は、王牧師。
上の聖書箇所は今日のテキストの一部です。

説教の始まる前にこの聖書箇所が週報に書いてあるのを見て、
ドキリとしました。

弱い人を獲得するためには弱くならなければならないのだ。
それを強く神さまに語られた気がしたのです。

そう、イエス様のように。

イエスさまは全知全能の神の子であられるのに、
人となってこの地上に生まれてくださった。
そして人としての生涯を全うし、
私たちの罪の身代わりに十字架にかかって死なれ、
とことん弱くなってくださった。
それは、私たちの救いのため。 

私たち立新教会は、
弱い人たちに寄り添う教会を目指しています。

彼らの救いのために私たちも弱くなる。
それは、具体的にどうあるべきなのか、
もう一度問われた思いでした。

 

さて、でももともと今日の説教者は主人のはずでした。
昨日の晩遅くにアメリカから帰ってくるはずだったのです。

ところが、悪天候のため飛行機は飛ばず、
台湾行きの飛行機に乗るためには、
さらに3日も待たなくてはいけなくなってしまったのです。

ということで、
主人が帰ってくるのは、火曜日の夜遅く。

あらら…です。

でも、これも神さまのご計画の内なんでしょう。
神さまのご計画はいつも最善。

だからやっぱり、感謝主!
 

 

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時間は神さまのもの

2012-03-09 10:27:51 | 信仰 聖書

時間は神さまのものだと、
わかってはいたけど、
最近ホントにそれを実感しています。
 

実は来週の火曜日には、
愛家教会の婦人会でお話をしなければならなくて、
その準備が、
ずっと気になりつつの毎日でした。

でも、この2,3週間、
本当に忙しかった~。
 

中国語でのお話は、
とにかく準備に時間がかかる。

最近は、普段の日本語クラスの準備に加えて、
新しい教会での課補班でも、
聖書のお話をしたり、
讃美歌の指導をしたりしているので、
その準備もあったりして、
なかなか、まとまった時間がとれなかった。

それでも、今日の午前中には、
語学学校で、中国語のチェックをしてもらえるように、
予約を入れていたので、
どうしても、それに間に合わせなければ
ならなかったのです。

しかも、こういうときに限って、
いろんなハプニングが起こったり、
予定外のスケジュールが入ったりして、
そのために、たくさんの時間を費やすことになったりするから不思議。

でも、そんなときには自分に言い聞かせるのです。

大丈夫。
時間は神さまのもの。
神さまの支配の中にある。

自分で、無理矢理時間を作らなくても、
絶対に必要な時間を備えてくださる。

だから、毎日の生活の中で、
特に、神さまのための時間や、
人を愛するとか、助けるとか、
そういうことのための時間を削っちゃいけない。 

本当に信仰が試されるのです。
 

でも、でも、
感謝主!

お話の準備できちゃったもんね。( 'v')v

今日の午前中には、
語学学校で、
ちゃんとチェックしてもらってきました。

あとは、細かいところを直して、
上手に話せるように練習するだけ~!

でも、土日もハードスケジュール。
神さま助けてくださいね。

時間は神さまのもの。!(^^)! 

 

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福音春聯

2012-01-22 22:41:58 | 信仰 聖書

台湾では、
旧暦お正月前、年末の大掃除が終わると、
玄関にこんな赤い紙を張ります。

これは春聯(チュンリエン)と言って、
魔よけと福を呼ぶ意味があるようです。

普通は、家族の安全と健康を願う言葉や、
お金が儲かるようにとか、
そんな言葉が書かれるのですが、
これは「福音春聯」。

「基督是我家之主」
「聖經諭世弟兄安」
「天道傳家子孫福」

と書いてあります。

「キリストは、我が家の主」
っていうのが気に入りました。

両脇の言葉は、
よく分からないけど、
何か、いい感じじゃないですか。(笑)

ということで、
今年も我が家は、
イエス様を主とした家として、
恥ずかしくない歩みをしたいですね!

感謝主!

 

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