毎日のできごとの反省

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小林よしのりは漫画家であって、思想家ではない

2019-08-09 12:20:17 | Weblog

小林よしのりは漫画家であって、思想家ではない

 小林よしのりは漫画家であって、思想家ではない。小生は自明のことを言っているのに過ぎない。しかし、ご本人は「戦争論」や「天皇論」なる漫画を描いて、思想家気取りであるように思われる。漫画で思想を論ずることが、絶対に不可能である、とは言わない。しかし小林の書いている漫画は、芸術作品であって、思想論文ではない。悪くすればアジびらに等しいものすらある。自分の論敵を醜悪に描くことによって、どぎつく相手を罵るのに、等しいものすら珍しくないからである。

 芸術作品は、鑑賞者の五感を通して情感に訴えて自分の目的を達するものである。小林の漫画の場合、自分の主張を読者に伝えることが目的である。そのために、視覚に訴える漫画と言う手段によって、情感に訴えて主張を伝達する。思想論はこれと違い、多くは文字により論理を構成して、理性を通して主張を伝えるものである。手段が情感に訴えるのと、論理によって理性に訴えるのとの大きな違いがある。

 例えばある雑誌で、八木秀次氏が「特別永住制度」を「在日特権」のように間違った主張をしていると、言うのだが、ある事例を持ち出して強烈な漫画でインパクトを与えて、あたかも反論しているようなのだが、そこには理性に訴えるものはなく、脅迫的に読者に結論だけ押しつけているのだ。表現の強烈さによって、説得される読者もいるだろう。しかし、八木氏の主張を丹念に論破する姿勢はなく、一方的な決めつけだけである。

 二葉亭四迷が文学を志したきっかけは、ロシア文学が革命を成就するための爆裂弾のようなインパクトがあることに魅せられたのである。このことはロシアの革命文学と言う芸術によって、情感によって革命思想に取りつかれるロシア人が多いことを知ったためである。革命思想論のような論理で理性的に説得するよりも、遥かに効果があるものと知ったのである。このように、芸術は説得力はあるが、あくまでも理性によってではない。だから革命思想が正しいか否か、を論理的に検証をしない、という重大な欠陥がある。

 芸術に拠って説得された人々は、正しい理想にかぶれたのではないかも知れないのだ。小林のように芸術によって、擬似思想論を展開する手法には、このように重大な欠陥を有している。流石に非難されて最近では小林は、「論敵」を醜悪に描くことは減っているようだ。しかし、漫画表現を使って正邪を判定させようとする手法は相変わらずである。

 多くの論者は、女系天皇論などで小林を批判している。しかし、小林は芸術家としての漫画で、擬似思想を語っているのだから、論ずるに値しないのである。漫画で思想家を気取っているのは、大間違いである。最近は明治の壮士を扱って、派手に血を流すシーンを描いて悦にいっている。本人も壮士気取りなのであろう。思想家としては論ずる手段を持たない、取るに足らない人物である。

 しかし、二葉亭のように、芸術による爆裂弾に等しい効果は、むしろ下手な思想論より大きい。だからむしろ厄介である。これまで閲したところ、保守ないし右翼を気取っているが、小林には定見がなく、その時のカッコよさを狙っているにすぎないようである。その証拠に、既に初老の域に達した肥満した男性であるにも拘わらず、漫画に描かれる小林は、常に美青年なのである。

小生は嫌味を言っているのではない。これを論文によって文字で表すなら「私はハンサムな青年です」という間違ったことを書いていることになるからである。これは漫画が芸術であって思想論ではないから許されるのであって、思想論で、そのように書いたらその時点で信用を失う、虚偽記述なのである。結局小林よしのりには、分際を知れ、というのが、最も適した言葉である。付言するが、小林は漫画を伴わない論文の類も書いているらしいが、それは芸術としての文学に等しいものであって「論文」にはなっていないことは想像に難くない。



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