ガジ丸が想う沖縄

沖縄の動物、植物、あれこれを紹介します。

懐メロ

2019年03月22日 | 沖縄05観光・飲み食い遊び

 今年1月、カラオケに誘われ出かけた。カラオケ嫌いの私が「認知症予防になるよ」と誘われ数年ぶりのカラオケ。従姉2人、従姉の夫とその親戚2人、私の計6名のオジサンオバサンのグループ。その内、1人の女性が数年前に脳梗塞で倒れ、以来、体が少し不自由になっている。声も大きくは出せないが、でも、頑張って歌っていた。
 それから数日後、この集まりのリーダー的存在であるMe子からメールがあって、「カラオケ大会は月一の定例会にします」とのこと。体の少し不自由なK姉さんが前回終わった後すごく喜んでいたと聞いていたので、そういうことになるかもといくらか予想はしていた。カラオケ嫌いの私も「認知症予防に」ということもあって了承する。
 さて2月24日、第2回Meカラオケ会(仮称)に出かける。2回目なので、私も事前に古い歌の本を借りて、歌いたい歌を選んでいた。歌うことそのものは前回同様そう楽しいことではなかったが、みんなとワイワイ楽しい時間を過ごすことができて楽しかった。そして、事前に候補に入れていた歌を10曲ばかり歌った。そして、その最後の2曲目くらいから歌うことそのものを楽しむ方法を見つけることができた。
     

 楽しむ方法とは、上手に歌おうとするのではなく、自分の心のまま好きに歌うこと。音符通りに歌うのではなく、伸ばしたり溜めたり自由気ままに歌うこと。
 最後から数えての2曲目だったか3曲目だったかに私は「知床旅情」を歌った。加藤登紀子ではなく森繁久彌の「知床旅情」。歌っている内に森繁久彌の顔が思い浮かぶ。「魅力のある爺さんだったなぁ」と思いながら歌っていると、気持ちよく歌えた。
 それまで数曲は歌っていたがそれらの時はそんな気持ち良さはなかった。森繁久彌の顔を思い浮かべていたら「好きに歌おうぜ」という気分になっていたようだ。その時、カラオケの機械は点数を出す設定にはなっていなくて確かめることはできなかったが、おそらく私の「知床旅情」は低い点数だったに違いない。その後、「ゴンドラの唄」を歌った。これは森繁久彌ではなく志村喬の顔が浮かんだ。志村喬が夜の公園でブランコに揺られながら歌うシーン。映画『生きる』の名シーンだ。これも自分の好き勝手に歌って気分が良かった。これもおそらく、点数を出す設定なら低い点数だったに違いない。
     

 好き勝手に歌うことがカラオケを楽しむ方法の1つと気付いたのだが、もう1つ、懐メロを歌うのも楽しむ方法の1つではないかと思った。懐メロはその名の通り懐かしい。
 若い頃、私は今流行っている歌が好きでそれを聴き、それを歌っていた。そして、父が懐メロを聴いたり歌ったりするのを鬱陶しいと思っていた。そんな私が、もうすぐオジーの歳になってやっと懐メロ好きになり、父の懐メロ好きも理解できるようになった。
 「知床旅情」は私の若い頃の歌だが、「ゴンドラの唄」はもっと昔、私の父が生まれる前の唄、ネットで調べると大正4年(1915年)に発表された歌謡曲とのこと。私も子供の頃に耳にしていると思うが、映画『生きる』で強く印象に残っていて、若い頃からこの歌は好きな歌となり、ギターを奏でながら歌うこともあった。今でもギターコードは覚えているし、たぶん弾ける。歌詞も1番2番はそらで覚えている。良い唄です。

 いのち短し 恋せよ乙女 紅き唇 褪せぬ間に
 熱き血潮の 冷えぬ間に 明日の月日は 無いものを

 いのち短し 恋せよ乙女 黒髪の色 褪せぬ間に
 心の炎 消えぬ間に 今日は再び 来ぬものを

 懐メロは若い頃のあれこれを懐かしく思い出す。「知床旅情」はギターを弾いて女子にモテようと思っていた高校時代、浪人時代を思い出し、「ゴンドラの唄」は、これも高校時代、浪人時代に観た映画『生きる』を思い出し、当時周りにいた(同級生など)美少女たちを思い出し、甘~い気分に浸れる。懐メロは心の薬になると思う。
     

 記:2019.3.17 ガジ丸 →沖縄の生活目次


アカギカメムシ

2019年03月20日 | 動物:昆虫-カメムシ・セミ

 カメムシ界代表

 沖縄の動物を紹介するようになってもう14年ほどになるが、当然ながら(分母が大きいので)その内昆虫類が最も多く、既に300種を超えている。その多くは既に物覚えの悪い私の脳味噌から消えているが、有名どころはその姿と共に記憶にある。
 物覚えの悪い脳味噌ではあるが、14年前から図鑑を見る機会が多くあったので、まだ出会ってもいない昆虫でも記憶に残っているものもある。図書館から借りる昆虫図鑑の全てに、昆虫だけでは無く身近な動物を紹介しているほとんどにも記載がある有名どころはたいてい覚えている。カメムシなんて世の中の美女たちに見向きもされないであろうが、ほとんどの図鑑に載っているアカギカメムシは、未遭遇だが私の記憶にあった。

 アカギカメムシは『ふる里の動物たち』によると「アカギによくつくカメムシ」なのでその名がついているようだが、『沖縄昆虫野外観察図鑑』には寄主としてアカメガシワ、ウラジロアカメガシワ、オオバギ、カキバカンコノキとあり、アカギはなかった。
 それでも、オオバギはアカギよりもさらに多く見られる樹木であり、アカメガシワもしばしば見かける樹木。たとえアカギが寄主でないとしても、それらが寄主であれば本種はどこにでもいるカメムシの種類と言える、はずだが、長く発見できなかった。
 アカギカメムシはしかも、体長もカメムシの中では大きい方で、色も赤や橙や黄色だったりでよく目立ち、1本の寄主樹木に大量に発生するともあって、そこにいればすぐに気付くはず。しかも私は、虫の写真を撮ってやろうという意欲のあるオジサンだ。どうして有名で目立つ虫に遭遇できないのか、今から思えば不思議なことであった。
 2018年12月、今住んでいるアパート、2階の私の部屋から階段を下りて1階の出口前、最後の階段の片隅に彼はいた。彼はしかし、既に死んでいた。
 
 アカギカメムシ(赤木亀虫):半翅目の昆虫
 カメムシ科 種子島以南、台湾、東南アジアに分布 方言名:フー
 名前の由来は『ふる里の動物たち』に「アカギによくつくカメムシなので」とあった。ではあるが、『沖縄昆虫野外観察図鑑』に記載されている寄主はアカメガシワ、ウラジロアカメガシワ、オオバギ、カキバカンコノキとあり、アカギはなかった。
 出現は周年。「寄主の葉上で集団を作ることがあり、8~10月には集団の個体数が多くなり、1本の寄主に1~2千個体も見られる」とある。であれば目立つはず。
 やや大型のカメムシで体長19~26ミリ。体色は紅色から橙黄色まであり、背中には黄白色に囲まれた黒斑が数個ある。大きさも色も模様も目立つ。どこにでもいて、しかも大群になり、体長も大き目で色も目立つ。なのに長く発見できなかった。
 「8~10月には集団の個体数が多くなり」の頃の体色は概ね橙黄色で、その前の7月頃、幼虫が産まれる頃の体色は橙赤色とのことで、さらに目立つようである。
 「母虫は孵化まで抱卵し続け、口器から水分を出し卵塊表面を湿らせる。天敵(アリなど)の攻撃に対しては体で卵を覆い隠すか、臭気を放出して追放する。いわゆる子守虫としてよく知られる」と『沖縄昆虫野外観察図鑑』にあった。見上げた母である。
 分布の種子島以南は奄美大島、沖縄島、石垣島、西表島となっている。
 
 横から
 
 仔虫

 記:2019.3.17 ガジ丸 →沖縄の動物目次

 参考文献
 『ふる里の動物たち』(株)新報出版企画・編集、発行
 『沖縄大百科事典』沖縄大百科事典刊行事務局編集、沖縄タイムス社発行
 『沖縄昆虫野外観察図鑑』東清二編著、(有)沖縄出版発行
 『沖縄身近な生き物たち』知念盛俊著、沖縄時事出版発行
 『名前といわれ昆虫図鑑』偕成社発行
 『いちむし』アクアコーラル企画発行
 『学研生物図鑑』本間三郎編、株式会社学習研究社発行
 『昆虫の図鑑 採集と標本の作り方』福田春夫、他著、株式会社南方新社社発行
 『琉球列島の鳴く虫たち』大城安弘著、鳴く虫会発行
 『沖縄の生きものたち』沖縄生物教育研究会編著、発行


愛する自由

2019年03月18日 | ガジ丸のお話

 「娘が結婚することになった。」と友人のMが言う。
 「そりゃあ、おめでとう。で、相手はどんな男?」
 「さぁ、俺はまだ会っていない。男か女かも判らない。」
 「男か女かも判らないって、・・・あーそうか、あれか。」

 「あれか」というのは那覇市のパートナーシップ登録という、同性同士の婚姻(と同等の関係)も認めるという制度。2016年7月に施行されたもの。
 ここで言うパートナーとは、どちらが夫でどちらが婦であるかという夫婦関係というより、互いに信頼し合い愛し合う共同生活者という意味であろうと思われる。

 「相手が同性の女かもしれないということか?」
 「あー、何となくそんな雰囲気がある。すげぇ仲良しの友達が1人いるんだよ。」
 「そうか、しかし、まぁいいじゃないか、愛し合う人がいるなんて幸せだよ。」
 「うん、しょうがないかと俺も半分諦めている。同棲して5年位になるしな。」
 「で、結婚披露宴はいつだ?俺も招待してくれ、大いに祝ってやるよ。」
 「バーカ、披露宴なんてできるかよ、みっともない。籍を入れるだけだ。」

 上記の話から約1ヶ月後のこと、Mから電話があった。
 「驚くな、娘が妊娠したぞ」って。そして、その約1年後にMの娘に可愛い女の子が無事産まれた。さらにそれから約1年後、彼女のパートナーにもこちらは元気な男の子が産まれた。「父親は誰?」と問う者はいない。それぞれの子供を我が子として扱い、お互いを愛し、子供たちを愛し、家族仲良く幸せに暮らしたとさ。めでたしめでたし。
     
     
     
     

    ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆ 

 人間も動物なので子孫を残すという本能を持っている。よって、愛し合う相手は肉体的に異性ということになる。ではあるが、心と体が異なる性の人にとっては、子孫を残すという本能を持っているのにそれができない。子孫が絶えてしまうことになる。
 子孫が絶えるということは、パートナーシップ登録という同性同士の結婚が増えると、ただでさえ減りつつある日本国の人口がさらに減ることになる。近い将来、団塊の世代が後期高齢者となり、少子化が益々進むとなると、国の存続さえ怪しくなる。
 国が滅びてはいけない。で、同性同士の結婚が増えても人口が減らない策を考える。

 遺伝子操作によって同性同士でも子供ができるようになる、とまで行かなくても、どちらか一方の近親者の卵子なり精子なりを貰って体外受精し子供を得ることはできるに違いない。そうやって、同性同士でも子供を持ち、家族をつくることができる、はず。愛の無い異性の夫婦より、愛し合う同性夫婦の方が愛のある家庭を作れるに違いない。子供を虐待するような、死に至らしめるような親は出てこないに違いない。と思う。最近、そういった悲しいニュースを聞いて、「それくらいなら」と上記の話を思い付いた。
     

 記:2019.3.10 島乃ガジ丸 →ガジ丸の生活目次


クテーラン、フシガラン

2019年03月15日 | 沖縄04行事祭り・生活風習・言葉

 姉の友人が関わっている演劇が近く(3月末)上演される。作品名を『クテーラン人びと』といい、そのあらすじは、宣伝チラシにあるのをそっくり引用すると、
 「ヤマトの要らんモノは沖縄も要らん」。日本一根気がないといわれるウチナーンチュが、オカミ相手に根気勝負。負けたり負けたりたまに勝ったり。カチャーシーとチルダイ繰り返しても、ナイビランムノーナイビラン・・・後略。
 略した後半はおふざけの言葉遊びのようなのが続くので、作品は喜劇仕立てなのかもしれない。喜劇仕立てで「ウチナーンチュは負けないぞ」を語るのかもしれない。
 クテーランは沖縄語でクテーユンという動詞の否定形。クテーユンは沖縄語辞典によると2義あり、第一義は「答える」という意、第二義は「応える」で「彼女に振られたことが精神的にとても応えるんだ」などという時に使う「応える」。クテーランはその否定形なので、「どんな苦難であっても応えないぞ(負けないぞ)」というような意。
 劇『クテーラン人びと』は舞台が辺野古新基地のようなので、国から嫌なものを押し付けられて、それに抵抗し、権力によってその抵抗が押し潰されそうになっても「クテーランぞ」ということだと思われる。負けずに挫けずに抵抗を続けていくということ。
     

 辺野古のことを考えた時、私はクテーランという言葉がちっとも思いつかなかった。この劇のチラシを見て、「そうか、そうなんだよな、現場で反対運動をしている人たちはそういった根性で毎日声を上げているんだよな」と改めて気付かされた。
 私は、現場を見に行って反対運動をしている人たちの話を伺い、エールを送ったことはあるが、実際にそこに立って彼らと一緒に反対の声を上げたことは無い、基地のフェンスに反対を意思表示するリボンを結んだこともない。私は日和見人である。
 日和見人は、基地建設に反対は反対なんだが、フェンスの向こうのアメリカ兵を嫌ってはいない。基地の存在も否定はしていない。兵士も同じ人間、中には「人の嫌がる軍隊に召されていく身」に嫌々なってしまった人も多くいるであろう。沖縄の人と仲良くしたいと思っている人も多くいるであろう。そんな彼らと罵り合いはしたくない。
 戦わない日和見人はだから、クテーランは日常よく耳にする言葉なんだが、辺野古からクテーランという言葉を連想しなかった。辺野古を考えた時私が連想するのはフシガランという言葉。これも沖縄の日常でよく耳にする言葉。ラジオからの国会中継を聴いているとそう感じる。「県民投票の結果については真摯に受け止める」と言いながら「工事は粛々と進める」という安倍総理のすっとぼけた答えに対しフシガランと感じる。
     

 フシガランは沖縄語辞典に記載がない。で、素人の私が勝手な解釈をする。
 ランはクテーランのランと同じく、動詞の語尾について否定の意、特に不可(~できない)を表す。で、フシガランの基本形はフシグンとなるだろうと思ったが、フシグンも辞書になく、フシから始まる動詞はないかと探したらフシジュンというのがあった。フシジュンは「防ぐ」という意。とすると、フシガランは「防ぐことができない」となるが、私が使ったり聞いたりしているフシガランは「耐えられない」とか「飽き飽きする」とかいう意である。夏の夜、叩いても叩いても蚊がやってきて不快な思いをしている時などに、「クヌ(この)ガジャン(蚊)よ、フシガランさぁ」とフシガランは使える。
 ちなみに、沖縄語辞典によると、耐えられないはシジララン 飽きるはニリユン。
     
 追記:2019.3.17
 昨日(16日)夕方、知人とユンタク(おしゃべり)している内にふと、フシガランを思い出し、彼に訊くと、「うんざりする、じゃないの」と教えてもらった。確かに、フシガランの意味としては「うんざりする」がピッタシくる。

 記:2019.3.15 ガジ丸 →沖縄の生活目次

 参考文献
 『沖縄大百科事典』沖縄大百科事典刊行事務局編集、沖縄タイムス社発行