ガジ丸が想う沖縄

沖縄の動物、植物、あれこれを紹介します。

娯楽の必要

2018年03月09日 | 通信-社会・生活

 テレビを観ていた頃だからもう7年近くも前となるが、「最近の子供は創造する力が弱くなった。私が子供の頃は自分たちで工夫して遊びを作ったものだ。最近の子供達は与えられたテレビゲームに夢中になっている」といった内容のことを聞いたことがある。
 「そんなこと言ったら、あんたが子供の頃に読んだ絵本も漫画も、観ていたテレビアニメも特撮物も与えられた物じゃないか」とその時の私は思った。
 与えられた物といっても、絵本にしろ漫画にしろ、テレビアニメにしろテレビゲームにしろ、それらの概ねは子供にとって成長するに必要なものだと私は思う。私だって子供の頃はマンガ大好きアニメ大好き少年だった。しかし、大人にはどうか?
 例えばテレビ、テレビという娯楽は人間にとって必要なものなのだろうか?と考えてみる。私の家にテレビは無い、テレビを観なくなってもう何年にもなるが、テレビを観なくても私は何も困らない。大人にとってテレビは無くてもよい物と思う。テレビに限らず、そもそも娯楽は人間にとって必要なものか?ということもついでに考えてみた。

 じつは最近(1年ほど前)まで、「娯楽の多くは庶民の不満を和らげるための支配者による餌ではないか」と私は思っていた。もちろん、全ての人にとってそうであるというわけでもなく、全ての娯楽がそうであるというわけでもない。「あんなこんなの楽しみを与えてやるから、一所懸命働いて、お国のために税金を納めろ」というような餌ではないかと思っていた。国によるそんな陰謀があるかもしれないと思っていた。
 しかし、よーく考えてみると、その考えは正確ではないと気付いた。たとえそんな陰謀があったとしても、ほぼ全てといっても良い多くの人にとって娯楽は必要であろう。多くの人にはストレスがある。ストレスがあるから娯楽が必要なのだと考え直した。
 「人生は重き荷を負うて」(徳川家康の言)生きている以上、大きなストレスが人に圧し掛かる。そのストレスを我慢ばかりしていたら楽しくない。楽しくないどころか、精神的に大きな負担となり、それが不満となり、人生が不幸となってしまう。
 不幸を感じてばかりいると、精神的に病んで元気がなくなるかもしれない。あるいは、自暴自棄になって犯罪を犯すかもしれない。元気のない人が多くいて、犯罪も多く発生する社会は楽しくない。楽しい社会を作るためにも娯楽は必要なのであろう。
     

 私は、新居に越してからもテレビを置いていない。よって、テレビはまったく観ていない。テレビは私に必要か?と問えば、「無くて良い」となる。情報はラジオからで十分だし、テレビは私にとってストレス解消のための娯楽にはならないと思う。
 そもそも私には、腰痛を患う前まではストレスをほとんど感じていなかった。手足を思いっきり伸ばし好き勝手に生きて、やりたいことをやり、言いたいことを言ってきた。そんな人間にストレスなどあろうはずがない。しかもその上、「やりたいことをやり、言いたいことを言う」ことそのものが私にとって娯楽になっていたと思う。自給自足芋生活を目指して畑仕事をしていた頃、私は楽しかった。愉快な気分を多く味わった。

 娯楽は必要だと思う。愉快な気分になることは生きる上で必要なことだと思う。愉快な気分でいる人が多い社会はきっと、平和で楽しい社会になるのだと思う。
     

 記:2018.3.9 島乃ガジ丸


糟漬

2018年03月09日 | 飲食:飲物・嗜好品

 日本酒の肴

 2014年2月のことだからもう4年前のこと、糟漬(かすづけ)を自作した。糟漬にしたのは豚肉と鯵(あじ)。ちなみに、糟(粕)漬とは「肉・魚または野菜を酒糟・味醂糟に漬けること。また、その漬けたもの。」(広辞苑)のこと。ついでに、酒糟とは「清酒の醸造に際し、もろみをしぼったあとに残ったかす。」(〃)のこと。
 豚肉の糟漬も鯵の糟漬も「酸味が少々強いかな」と感じたが、清酒のかすに漬けた食物だもの、当然のごとく日本酒の肴にピッタシとなった。
     
     

 翌年(2015年)の3月にも糟漬を作った。その時の材料は鱈(たら)、鶏肉、そして、ニンジンなどいくつかの野菜。鱈は漬かり過ぎたのか酸味が少々強い。鶏肉は程良い酸味でまあまあ美味しかった。それよりも、ニンジンがとても美味しいと感じた。
 糟漬けの調理法、ちゃんと調べたわけではないが、自分の経験から安全を優先し、ニンジンなど野菜は生で食ったが、肉、魚は七輪で焼くなど十分に火を通して食った。
     
     
 さらにその翌年の4月、豚のレバーを糟漬にして食ってみた。不味くはなかったがこれはイマイチ。これはまた、日本酒の肴としてもイマイチであった。
     

 酒粕のことを沖縄ではカシジェーという。沖縄のことなのでその糟は日本酒のそれではなく泡盛の酒粕。『沖縄大百科事典』にはカシジェーそのものではなくカシジェーエーイが載っている。カシジェーエーイは「泡盛の酒かす(カシジェー)のあえもの」で、「カシジェーは酸味を帯び・・・沖縄独特の酒かす・・・あえる材料にはおもにズイキ、キュウリ、モヤシ、白身の煮魚などが使われ、独特の風味を持つ」とのこと。

 倭国の酒粕は広辞苑にあり「清酒の醸造に際し、もろみをしぼったあとに残ったかす。蒸留して焼酎を製し、また食用とし、奈良漬・魚肉漬などを作るのに用いる」のことで、私が使用した酒粕はこっちの方。スーパーにカシジェーは置いていないが、清酒の酒粕は普通に置いていて、いつでも入手できる。

 記:2018.3.7 ガジ丸 →沖縄の飲食目次


生きるための想像力

2018年03月02日 | 通信-科学・空想

 2018年2月15日から引っ越し作業を始め、2月26日には概ね終了。退去に伴うガスの閉栓や水道の閉栓を済ませ、不動産会社の検査も27日の午前中に済ませた。
 引っ越し作業が「26日には概ね終了」と言っても、旧居から新居へ荷物を運び終わって、旧居の掃除を済ませ、新居の、取りあえずの寝る場所を確保して寝泊りはできるようになっただけのこと。運び入れた荷物の半分は片付いていなくて、1部屋に押し込んでいる。新居のガスが使えるようになったのは27日の午後、その日やっと風呂に入る。
 28日は朝から1日中、荷物の整理、片付け、部屋の掃除をし、昨日も、昼間に3時間ほど外出したが、朝から前日と同じ作業をする。それでもまだ終わっていない。
 引っ越しの荷物運びに12日間も費やしたのは、荷物を自分の小さな車で運んだので一遍に多くを運べなかったからでもあるが、1度に載せる荷物の量が前回に比べ半分以下になったからという理由が大きい。腰痛で一遍に多くを、私の腰が運べなかったのだ。
 新居の、荷物の整理、片付け、部屋の掃除に時間がかかっているのは、これもまた腰痛のせい。腰が痛いので休憩時間が長くなっている。休憩時間が長くなっているお陰でこんな駄文を書く暇があるというわけ。駄文書きは私のストレス解消に役立っている。
     

 2017年8月10日、映画を観に行った。映画が終わって椅子から立ち上がった時、腰に激しい痛みを感じた。映画館から出てバス停まで歩いている間にその激しい痛みがしばしば腰を襲った。痛みでスタスタ歩けない、老人のようなゆっくりとした歩みになる。激しく痛むとゆっくりも歩けずに立ち止まる。しばしば立ち止まり、「うーん」と低いうなり声をあげ、そしてまたゆっくり歩くを繰り返して、やっとバス停に着く。
 畑仕事で腰を屈める作業、例えば草抜き作業を1~2時間もやると腰が痛くなる。それは普通によくあることだが、腰の痛みが「普通じゃない」場合は、特別なこととして日記に記してあるだろうと思って調べてみた。2017年5月4日に「腰が痛い」とあり、その後も何度か記されていた。そして、8月10日の映画腰痛事件となる。
 映画腰痛事件の後、腰を庇って腰を屈める作業を長時間続けないよう気を付けていたので、9月には特別「腰が痛い」という記載は無い。が、10月には2日、11月は4日、12月は6日としだいに増えていった。不具合が蓄積していったのだろう。

 腰痛は、1月はほぼ毎日、2月は例外なく毎日となる。後悔先に立たずと知ってはいるが、去年の夏に激しい腰の痛みを感じた時に何らかの処置をしておけば良かったと後悔してしまう。誰のせいでもないのだ、自身の腰痛に対する認識が甘かったのだ。
 「こうすればこうなるだろう」といった見通しが、私は甘かったのだと思う。幸せに生きるための想像力が私に不足しているのだと思われる。それは、私が単に「バカだから」と言ってもいいが、人生の経験不足と言った方が近いかもしれない。
 自分の体力が、腰痛のせいもあって爺さん並みであることを忘れていた結果、引っ越しに難渋し、無理してさらに腰痛を悪化させた。「今無理したら、腰痛はさらに悪化し、自分の得意技である肉体労働もできなくなる」という想像力が私には無かったのだ。でももう、先週反省した通り愚痴は言うまい。この先、またも引っ越さなければならなくなった時は、他人の力を頼らなければならないだろう。私は爺さんなのだ。
     

 記:2018.3.2 島乃ガジ丸