ガジ丸が想う沖縄

沖縄の動物、植物、あれこれを紹介します。

2011秋八重山オヤジ2匹旅 前編

2016年04月22日 | ガジ丸の旅日記

 1、序章

 琉球列島は北東から南西へ連なっている。その内、沖縄県は北東から沖縄諸島、宮古諸島、八重山諸島と並んで、沖縄島の東に大東諸島がある。大きく分けてその4諸島だが、沖縄諸島には伊是名島伊平屋島、慶良間諸島、その他、粟国島など小さな島がいくつか含まれ、沖縄島と宮古諸島の間には久米島があり、宮古諸島と八重山諸島の間には多良間島があり、八重山諸島の南西には与那国島がある。ちなみに、行政区分上では、久米島は沖縄、多良間と水納島は宮古、与那国島は八重山に含まれているようであるが、距離的感覚では別の独立した島としてもいいように私は思う。・・・なことは置いといて、

 沖縄好きの上、旅好きの私は、ずいぶん前から沖縄の数多いそれらの島々を全て訪れたいという望みを持っていた。既に、慶良間諸島や久米島は数回、八重山諸島の内、石垣、西表、竹富、小浜島は2回、それぞれ訪れているが、未踏の島はまだ数多くある。
 未踏の島々の内、特に、沖縄の端々はぜひ行ってみたいとかねてから思っていた。沖縄の端々とは、人の住む島でその南端は波照間島、西端は与那国島、東端は北大東島、そして、北端が伊平屋島となっている。最東端の大東島は2009年に旅している。私の生活はこの先ますます貧乏になると予想されるので、まだいくらか余裕のあるうちに残りの北端、西端、南端も制覇しようと、2011年秋、先ずは西端南端の踏破へ。


 2、進歩する空港

 八重山与那国オヤジ二人旅の始まりは那覇空港から。2011年9月15日、午前9時45分発の石垣行き。余裕を持って那覇空港に着いて、余裕を持って搭乗手続きをする。ところが、搭乗手続きがこれまでと違う。飛行機に乗るのは一昨年2009年の7月以来だが、その時と違う。旅行社から貰ったペーパーにバーコードがあり、それを搭乗口に供えられた機械にかざすだけでいいのだそうだ。これまでよりずっと簡単。
 飛行機に乗って、水平飛行になったところで、スっちゃん(キャビンアテンダントのこと、オヤジたちは以前こう呼んでいた)の中からなるべく美人を選んで質問した。旅行社のペーパーを見せて「こういうの初めてなんですが、いつ頃からこのシステムになったんですか?」と。「確か、今年の2月からです」となるべくの美人は答えてくれた。
 「便利になりましたね、そういえば、クレジットカードみたいなのをかざしている人も見ましたが、ああいうのもあるんですか?」
 「それは各航空会社で発行したカードです。ご希望でしたら機内で申し込み手続きができます。少々お待ち下さい」と言って、少々待たせた後、申し込み用紙と説明書を持ってきた。その説明書、読みはしたが、「俺が今度飛行機に乗るのはいつだ?2年後か?3年後か?その時に申し込んでも遅くは無ぇな。」と思い直し、その場で申し込みはしなかった。しかし、それにしても、飛行機まで電車みたいに簡単な乗り物になったようだ。
     

 3、オヤジ二人旅

 今回の旅には同伴者がいた。同伴者は残念ながら男で、私と同年代のオッサン。大学時代からの友人Kで、埼玉に住み、東京の会社に勤めるサラリーマン。離婚して一人暮らしの彼は、時間とお金に余裕があり、しばしば沖縄へ遊びにやってくる。
 Kは大学の同級生で、人見知りだが気の良い奴、人見知りのせいか時折はにかんだ笑顔を見せる奴、人見知りではにかんだ笑顔であれば、「きゃー、カワイイ!」と女性からモテそうなのだが、あいにく禿げオヤジなので、残念ながらさほどはモテない。
 そんな彼と2011年秋、八重山オヤジ二人旅の始まり。初日は与那国島。



 与那国編

 1、最西端
 
 高校の頃、美術クラブの二年後輩に与那国出身の女子がいて、与那国島がどこにあるかは彼女のおかげでおぼろげに認識はできていたが、彼女と特に仲が良かったわけでもないので、その頃は特に興味を持たなかった。与那国は地理上も遠いが、私の歴史上も縁遠い島だ。それでも、与那国というと猫と馬が思い浮かぶ。猫は『与那国ぬマヤー小』という有名な民謡がある。馬は、与那国馬という在来種がいる。これらには会いたい。

 9月15日、朝8時20分那覇発、9時15分石垣着の便に乗り、石垣発9時55分に乗り継いで、10時25分に与那国へ着く。馬よりも猫よりももっと優先する今回の旅の目的は最西端だ。沖縄だけでなく日本の最西端である。与那国空港の観光案内で地図を貰う。地図にはちゃんと最西端の場所が示されている。他の観光地の位置も大雑把に確認しルートを決める。そして、先ずは最西端を目指し、レンタカーを借りて出発。
 最西端の碑なるものがある海岸端へ行き、そこへ立ち、その碑を見る。碑については特に感想はない。「そうである」といった印に過ぎず、「だからなんだ」という気分であった。「最西端に行ってみたい」と思ったのは自分自身なのに。
 ただ、そこから眺めた崖下の海はきれいであった。海中のサンゴが見えた。サンゴが元気であるらしいことを確認し、少し嬉しくなる。生憎、台湾の島影は見えなかった。
     
     

 2、与那国馬

 与那国空港の観光案内で地図を貰った時、地図には最西端の場所の他、他の観光名所も示されていたが、与那国馬の居場所は書かれていない。
 「与那国馬を見たいのですが、どこへ行けばいいですか?」と訊いた。生息数が少ないと聞いていたので、限られた場所にしかいないのだろうと思ったからだ。しかし、観光案内の人は笑いながら答えた。「この辺りとこの辺りとこの辺りに行けば、いくらでも見ることができますよ」と地図の中の数箇所を指した。
 「いくらでも見ることができますよ」は本当だった。彼らは集落から離れた原っぱへ行くといくらでもいた。あちらこちらで数頭が群れているのを見た。
 馬は予想以上に多くいたが、馬の数よりももっとずっと多く目撃したものがあった。道端に、アスファルトの道路上に、観光地へ向かう園路沿い、その傍の駐車場、芝生の貼られた広場などにそれは無数に落ちていた。与那国島は馬糞の島であった。
     
     
     

 3、アヤミハビル

 与那国へ行ったならぜひ会いたいと思うものがもう1つあった。ヨナグニサンという名前の蛾、世界最大の蛾として知られ、石垣島、西表島、台湾、東南アジアなどにも生息するが、何といってもその名がついている与那国、多くいるだろうと期待していた。
 地図を見ると、最西端の碑から東岬へ向かう途中にアヤミハビル館というのがある。アヤミハビルはヨナグニサンの与那国での呼び名だ。自然の中で生きているヨナグニサンに会えることが望みだが、そこへ行けば、少なくとも標本は見られるはずと寄った。
 アヤミハビル館はヨナグニサンだけでなく、他のチョウ・ガ、他の昆虫の標本も展示されてあった。同行のKにはつまらなかっただろうが、私は大いに楽しめた。しかし、あいにく、自然の中で生きているヨナグニサンに会いたい望みは叶わなかった。
     
     


 4、東岬

 日本国の最西端であり、沖縄県の最西端でもある最西端の碑は当然ながら与那国島の西の端にある。そこから逆の東の端に向かった。そこはアガリザキ(東岬)という。宮崎の友人Iが喜納昌吉のファンで、その作品の中に「アガリザキ」が出てくる、と旅に出る前に彼から聞いていた。歌にも出てくるからには何かあるかもと行ってみたわけ。
 アガリザキには灯台があった。喜納昌吉のファンでは無い私は、アガリザキが歌われている作品も知らないので、特に感想はない。ただ、芝生がきれいで、眺めが良くて、気持ちの良い風の吹く場所であるということだけが印象に残った。
     

 5、与那国のマヤーグヮー

 東岬から久部良バリへ向かう。久部良バリは最西端のすぐ近くであった。なので、西端から東端、東端からまた西端と無駄な時間を費やしてしまった。久部良バリを私は知らなかった。おそらく、同行のKが「行ってみようよ」と提案したのだと思う。
 もうすぐ目的地というところで、猫を発見。与那国と言えば先ず浮かぶのが猫、それから最西端、ヨナグニウマ、どなん(泡盛の1銘柄)、ヨナグニサンとなる。何故猫が一番先なのかというと『与那国ぬマヤー小』という有名な民謡があるから。
 与那国ぬマヤーグヮーや ヱンチュ騙しぬマヤーグヮー
と始まる。その後はうろ覚えだが、メロディーもちゃんと覚えている。「与那国の猫はネズミ騙しの猫」といった意味。私が子供の頃に流行っていて、よく耳にした唄。同じ頃、「トムとジェリー」というアメリカ産アニメが流行っていたこともあり、子供の私は、どのようにして猫がネズミを騙すのかなどと想像して、印象に残った。
 久部良バリ近くで発見した猫は大人の黒猫で、野良のようであり、スマートではあったが、もちろん、いうまでもなく、何ら特別な才能はないものと思われる。
     

 6、クブラバリ

 人頭税については何となく知っていた。人頭税は与那国だけでなく宮古八重山の先島に課せられた首里王府による税金。それはそれは過酷な税金だったようだ。
 人頭税は広辞苑によるとジントウゼイと読み、「各個人に対して頭割りに同額を課する租税。納税者の担税能力の差を顧慮しない不公平な税とされる反面、経済的には中立的な税とされる」とある。『沖縄大百科事典』にも記載があり、それによると、読みはニントウゼイで「13歳から50歳までの男女に課せられ、個人の能力、土地の能力、天災などを考慮しない税制」とあった。「赤子の圧殺、堕胎など」もあったようだ。
 与那国ではクブラバリという人頭税に関する史跡が残っている。クブラは久部良と漢字で書き地名。バリは「割れ」という意味。同行のKに提案され、見に行った。岩間に割れ目があり、そこを妊婦に飛ばせたらしい。飛び越えることができず転落死したものも多くいたらしい。史実かどうかは不明、碑にも「伝説である」と書かれてあった。
     
     
 久部良バリからその日の宿へ入る。宿がどうであったかは記憶になく、日記にも何も書かれていない。飯食って、飲んで、寝ただけだと思われる。


 7、水田のある風景

 9月16日、与那国から石垣への飛行機は午前11時過ぎの予定。それまで、もう少し与那国島を観光する。これも同行のKから提案されたことだったと思うが、「ドクターコトーのロケ地へ行こう」となった。ドクターコトーは確かテレビドラマのタイトル。
 元々テレビをあまり観ない、テレビドラマはほとんど観ない私だが、ドクターコトーの舞台が沖縄であることは知っていた。主人公が「北の国から」で長男役だった人(名前は思い出せない)ということも知っている。でも、沖縄が舞台ということで1、2回観た程度で、内容はほとんど知らない。特に興味もなかったがミーハーのKに付き合った。

 ドクターコトーのロケ地へ行く途中に川を見た。マングローブの生い茂る川、生命エネルギーをたっぷり持っている川、水に触れてみたいと思ったがスルー。
 その次に水田を見た。沖縄島にも水田はあるが、金武町(今はうるま市)などごく限られていて私はまだ沖縄島の水田を見ていない。水田の風景は、倭国へ旅するとよく見るが、沖縄島の中南部で生活している限りではなかなか見られない景色だ。のどかな田園、私の好きな景色。しばらく眺めていたかったが、写真を撮っただけでここもスルー。
     
         
 ドクターコトーの診療所を少し離れた場所から眺めて、特に何の感想も無く、そこから空港へ向かう。16日お昼前、最西端の島与那国を離れ、石垣へ向かう。
     
     


 8、データ:沖縄県企画部地域・離島課のサイトから抜粋

 与那国島(よなぐにじま)
 与那国島は日本最西端に位置し、台湾まで111Kmの近距離にあります。周囲27.49Km、面積28.88K㎡の小さな島ながら山あり谷あり川あり、島固有の動植物が生息し、亜熱帯の大自然に恵まれています。

 このサイトには詳しく書かれていなかったが、与那国の酒と言えば「どなん」が有名。私も高校生の頃からその存在を知っており、飲んでもいる。「どなん」は商品名であり、沖縄の酒泡盛の1種。与那国には他に「与那国」と「まいふな」という銘柄がある。
 私が高校生の頃からその存在を知っているほど有名なのには理由がある。「どなん」には花酒という種類があり、そのアルコール度数の高さで有名であった。一般の泡盛がクース(古酒)の強い物でも43度であるのに、「どなん」は60度もある。60度の酒を造ることが許されているのは与那国島にある3つの醸造所だけとのこと。
     


 9、動植物

 与那国島では「初めまして」の動植物にも会えた。植物のイソマツはだいぶ前からその存在を知っていたが、与那国島でやっと写真に収めることができた。動物の4種はとりあえず写真を撮って、いずれも後日調べて、何者か判明したもの。
     
     
     
     
     



 波照間編

 16日、お昼12時頃には石垣空港へ着く。石垣に着いて、同行のKは船で竹富島へ、私は石垣島散策をしたのだが、その話は後述するとして、先に17日の波照間から。

 1、片道切符

 石垣島の宿は港の近く。17日、朝食とって、準備して、歩いて港へ。
 8時30分石垣発の朝早い船便、切符売り場で往復切符を買おうとしたら、「波が荒れていて、帰りの船は欠航になるかもしれません」と言うので、「そうなったらそうなった時だ、運を天に任せよう」と、波照間島までの片道切符を購入し、いざ、波照間へ。
 波が荒れているのは台風が近付いている影響とのこと。確かに波が高く、船は揺れる。右に左にやたら舵がきられる。横波を受けないように船長が頑張っているのだろう。船が転覆するという不安はなかったが、帰れないかもという不安は少し持った。
     


 2、最南端

 船はほぼ予定通りの時間に波照間島へ着く。波照間島は車で回るほどの大きさは無い。徒歩でも私は良かったのだが、港から町へ向かうとすぐに同行のKが貸し自転車屋を見つけた。自転車で島を巡ることにした。Kの提案で自転車は電動アシスト付自転車となる。私には初めての体験となった電動アシスト付自転車、楽であった。いつか、爺さんになって車の運転ができなくなったら、畑への往復はこれにしようと思った。
 電動アシスト付自転車に乗って、今回の旅の目的、名目上は最も重要な目的の1つとなっている最南端へ向かう。波照間島は小さな島だが、それなりに起伏はある。だけど、電動アシスト付自転車は上り坂もスイスイ、オジサン2人仲良くサイクリング。
 ほどなく、最南端の碑のある場所へ着いた。名目上は最も重要な目的の1つで、私がそれを望んだのだが、特に感想は無い。「海がきれいだぁー」と思っただけ。
     
     


 3、噂の泡盛

 波照間島は、最南端であることの他には、南十字星が見られるということと、旨い泡盛があることしか私は知らない。南十字星は夜じゃないと見られない、今夜の宿泊は西表島なので、それは当初から諦めている。最南端は見た、残るは酒。
 波照間島にある醸造所は1つ、造られる泡盛の銘柄も1つ、「泡波」、旨い泡盛として有名な酒で、私もその存在は若い頃から知っていて、数少ないが飲んだこともある。私の口は鈍感なので、他の泡盛に比べて特に旨いとは感じなかったが、でも、「幻の酒」とウチナーンチュの評判になっているのだ、そんな泡盛を作っている醸造所を見に行った。
 後日、波照間島のサイトを見ると、「泡波」についても紹介があり、そこには「製造量が少なく入手困難」とあった。入手困難だから「幻の酒」なのかと納得。であったが、そこで私は、私用の土産として「泡波」の小瓶を1本買った。それをしばらく後、飲んだ。沖縄で造られている他の一般酒(古酒では無いということ)に比べると、旨味があると感じた。オジサンになって泡盛の味が判る舌になったのかもしれない。
     
     


 4、オヤケアカハチ

 泡波醸造所をあとに、しばらく行くと史跡らしき碑が立っていた。見ると「オヤケアカハチ」とある。確か、琉球王朝時代「オヤケアカハチの乱」というのがあったと歴史の授業、または、自分で本を読んでおぼろげに記憶している。取り敢えず、写真を撮る。
 後日、調べたところ、オヤケアカハチは波照間島の出身で、於屋計赤蜂という字が充てられている。石垣島に渡り、琉球王府に反逆した人。15世紀末頃のお話。
     
 そこを過ぎてなお散策、波照間の町並みはいかにも沖縄の田舎といった雰囲気。そこにいるだけで気分が癒される雰囲気。空気の匂いも私の好みであった。
 港に戻って、お世話になった電動アシスト付自転車を返し、午後2時20分発の西表島大原港経由石垣行きの船に乗り、大原港で降りる。
     
     


 5、データ:沖縄県企画部地域・離島課のサイトから抜粋

 石垣島の南西63kmの海上に浮かぶ日本最南端の有人島。周囲14.8kmの小さく平坦なこの島には、500名を超える人々が暮らしています。
 古い石垣と屋敷を取り囲むフクギ、赤瓦の民家など集落のたたずまいが落ち着いた雰囲気を醸し出しています。
 南十字星が一番よく見られる観測タワーとして天文マニアも数多く訪れます。
     

 「 2011秋八重山オヤジ2匹旅 前編」は以上。

 記:ガジ丸 2016.3.25 →ガジ丸の旅日記目次
 


体の力

2016年04月15日 | 通信-科学・空想

 去年の今頃、高校の同級生Mから「Tが癌になり手術をした。今、家で療養中だ」と聞き、その時、Tの携帯番号も聞いた。MがTと呼ぶのは私の中学時代の友人Oのこと。Tという愛称(芸名でもある、彼はミュージシャン)を持っている。MとTは仕事上の付き合いがあり、Mを介して私も大人になってから何度かO(愛称T、以降Oとする)には会っており、一緒に飲み食いしたこともあり、彼の家に招かれたこともあった。
 お見舞いの言葉でもかけようと、早速その日の内にOに電話をする。が、取らない。数時間後にも電話したがやはり取らない。体調不良で電話を取ることもできないのかと思って、以後は遠慮する。6月になれば私の畑はエダマメが収穫時期となる。それを手土産にして、その時に改めて電話、もしくはショートメールするかと予定した。
 ところが、去年のエダマメは10株ほどしか収穫できず、病気なのか害虫なのか不明だが残りは全滅。ならば、ゴーヤーやナーベーラー(ヘチマ)などの夏野菜が収穫できたら見舞いに行こうと予定したが、夏野菜は台風にやられ、ほぼ全滅。ならばジャガイモ、ニンジンなどの冬野菜だ、ということで、ついに年が明けてしまった。

 2月13日、友人の父上の告別式が那覇であり、「ジャガイモを土産に、ついでにOに会いに行こう」と思い立ち、告別式の後、Oの家(那覇の中心街にある)へ向かう。その途中、「待てよ、喪服の格好では、縁起悪いと不愉快な思いをさせないか?」と思ってしまい、「きょうは止めよう」と決め、車の行き先を我が家へと変更した。
 そんなこんなで、「Oを見舞いに」も頭から離れつつあったが、3月の下旬、MからOの携帯アドレスを知らせるメールがあった。その後さっそくOへメール、「5月から6月にエダマメが収穫できるからそれを持って行くよ」と送ったら、
 「5年前に大腸癌の手術をし、その後リンパ節、肝臓、骨、肺へと癌が転移し、今は抗癌剤治療で夜は眠れず・・・」といった衝撃的内容の返信が来た。「こりゃあ、近い内に会わなけりゃ」と思い、メールのやり取りをして、「近い内に会おう」という話になる。それから3週間ほど過ぎた先週土曜日、やっと会うことができた。
          

 もう何年前になるか、30年以上前になるか、2、3度訪れたことのあるOの家、大体の場所は覚えていて、車をゆっくり走らせていたら彼の名の表札がすぐに見つかる。チャイムを鳴らす。玄関を開けて出てきた30年以上ぶりのOは、以前と変わっていた。白髪が増えていて、オッサンになっていた。それは私も同じだ。しかし、予想外に、変わっていたのはそれだけだった。癌があちらこちらに転移している病人には見えない。
 Oは中学の頃から肥満体で、大人になるとさらに肥満は増して(100キロ超)いた。今見るOの体付きは30年前と変わらない。肌の色艶も良い。声にも張りがある。「本当に癌?」と疑うほどの元気さであった。「食欲は変わらないんだよ」とOは笑った。
 抗癌剤治療を受けた後の数日は体調が悪く、立つことさえ苦しい時もある、しかし、それ以外は普通。外へコーヒー飲みに行くし、買い物して、料理もするとのこと。
 肥満体だったOは、しかし運動能力は長けていた。力も強く、足も速かった。脂肪も多く抱えていたが、脂肪の下に筋肉も多く持っていたのだろう。そのお陰かどうか、彼の体には力がある。体の力とは「疾病に対する抵抗力」でもある。Oはそれが強いようだ。
          

 記:2016.4.15 島乃ガジ丸


救いの歌

2016年04月15日 | 通信-音楽・映画

 約1ヶ月前の3月12日の夜、ラジオを聴いていると『アンパンマンのマーチ』が流れた。パソコンのキーボードを叩いていた私の指が少し止まって、「お、久しぶり、懐かしや」と思ってワンコーラス(しか流れなかった)聴いた。
 その前日の3月11日は大震災のあった日で、大震災後の被災地では「アンパンマンのマーチ」が流れ、人々を元気付けたという。元気の出る歌だと、私も思う。
 アンパンマンは言うまでもなく、作者はやなせたかし氏。そういえばと思い出した。1年以上も時間を費やしたブログの移動、修正作業をしている最中、「あれ?記事が無い」と、書いたつもりだけど載っていない記事がいくつかあるのに気付いた。気付いたものの一つに、やなせたかしがあった。パソコンの中を探すと、記事はあった。タイトルは『83歳の愛と勇気』で日付は2002年1月11日。文章はしかし最初の数行のみ。

 「そうだ怖れないで みんなのために 愛と勇気だけが友達さ」と書いた詩人は、
 「ミミズだって オケラだって アメンボだって みんなみんな生きているんだ」と書いた詩人でもある。詩人は漫画家でもある。漫画家は今年83歳になるが、まだまだ若々しく意気軒昂、夢も希望もたっぷり持ち合わせているといった笑顔をしている。
 彼の根底にある思想は、手塚治虫や宮崎駿と同種である。生きとし生ける物すべてに、存在する意味があるという仏教の思想だ。彼の漫画に登場する悪役は、バイキンマンもドキンちゃんも、どこかカワイイではないか。

 この後、『千と千尋の神隠し』にも触れ、やなせたかしを褒めるつもりらしかったメモ書きみたいな数行があって、しかし、記事は未完のまま、ずっと忘れられていた。
 書きかけの記事『83歳の愛と勇気』は2002年1月、その時、やなせは83歳、それから11年余経った2013年10月13日にやなせは亡くなっている。それから数日以内に訃報を私はラジオから聞いている。聞いて、思うことは多くあった。
 その少し前に友人の娘の結婚式があり、その少し後に母の命日があり、実家の売買でアタフタしていたこともあり、思うことを書いたのは1ヶ月ほど過ぎてから。
 同年11月15日付ガジ丸通信『平和の権化』で、「私はゴキブリは即殺する。ゴキブリはバイキンの塊だ・・・やなせたかしはバイキンも殺さない。『手のひらを太陽に』には平和を感じるが、アンパンマンも平和だ。ミミズもオケラもアメンボも、そしてバイキンも友達にするやなせたかし、平和の権化だと思う。」と私は思いを書いた。
          
          
          

 『手のひらを太陽に』は1965年の作品、その後全国に広がって、南の果ての島、まだアメリカ軍統治下の沖縄でも、子供達に覚えられ、歌われた。
 アンパンマンがテレビアニメ化されたのは1988年のことなので、『アンパンマンのマーチ』が世間に流れたのも同じ頃であろう。その頃私は大人(まだお兄さん)なのでアニメを毎週は観ていないし、『アンパンマンのマーチ』も毎週は聴いていない。でも、すぐに、「おっ、子供の歌にしては鋭い歌」と感想を持った。「何のために生きるの」に深い思想を感じた。そして、軽快なテンポで「そうだ怖れないで みんなのために 愛と勇気だけが友達さ」と歌う。被災地も元気になる、救いの歌だと思う。
          

 記:2016.4.15 島乃ガジ丸


黒ニンニク

2016年04月15日 | 飲食:飲物・嗜好品

 私は流行りものにあまり興味が無い。ファッションにも音楽にも興味が無い。ファッションはTシャツにジーンズで可、音楽はクラシックとジャズと沖縄民謡があれば可、なので、家にテレビが無くても、テレビ番組を観なくてもちっとも困らない。
 流行っているからという理由でそのものに興味を持つことは無いが、「好きかも」という理由では興味を持つ。畑仕事をしているのでそれに関わるもの、作物としての野菜や果物に興味を持ち、酒の類、酒の肴の類には私の根本がそれらに興味を持っている。
 流行り物と言えば、ラジオから聞こえてくる言葉に知らないモノが多くある。例えば、スムージーとかジュレとか。会話の流れから「食い物」だと判るが、映像は出てこない。私がテレビを見ていた数年前まで無かったモノであろう。その後、スーパーの冷蔵庫に並んでいるそれらを見ているが、買ったことはなく、口にしたこともない。

 もう1つ、クロニンニク、これは去年のちょうど今頃(4月)、初めて口にした。近所の先輩農夫Nさんから自作のクロニンニクを頂いた。ニンニクの収穫時期は3月~4月。Nさんは自分の畑で収穫したニンニクを加工したとのこと。クロニンニクという名前を初めて聞き、実物を初めて見た私は「クロニンニクって何?」なのだが、
 「最近流行っているんだ、健康にいいらしい」とのこと。ニンニクの燻製みたいなものだろうか、火を長く通して黒く焼き上がっている。食べるとまあまあ美味しい。
 私も作ってみようと思ったのだが、Nさんによると時間がかかるらしい。Nさんは炊飯器を使って1週間ほど蒸し焼きを続けたとのこと。1週間も炊飯器を点けっ放しは電気代が勿体無い。ダッチオーブンを使って、数時間でできないかと私は考えた。
 そして今年春、私の畑からもニンニクが採れている。ニンニクは1片ずつ皮を剥いて、オーブントースターで7~8分焼けば、美味しい焼ニンニクができる。このところほぼ毎日それが酒の肴の1つになっている。お陰で、屁をすると、屁もニンニク臭い。
 ニンニク臭い屁をこきながらも「ダッチオーブンを使ってクロニンニク」はずっと忘れ続けていた。つい先日、八百屋で売られているクロニンニクを見て、思い出した。
     

 2016年4月6日、「ダッチオーブンを使ってクロニンニク」作りに挑戦。炉に火を熾して朝9時半からダッチオーブンによるローストを始め、2時間ほどは薪を足して、その後は灰の上にダッチオーブンを置き、余熱によるローストを4時間。
 午後3時半、蓋を開けてみる。良い香りがした。生のニンニクよりずっと甘い匂い。6時間のローストで当然、火は通っているのだが、黒になっているかどうかは怪しい。
 ローストしたニンニクを家に持ち帰って、少し皮を剥いてみる。皮が黒っぽくなっているのもあったので少しは期待していたが、結果は「残念でした」となった。
 それでも、半分をその日の酒の肴にしようと皮を剥くと、中に1個だけ茶色に色付いたものがあった。他のものも生のニンニクに比べると茶色がかっている。「これならもしかしたら」と思って、残りの半分はさらにローストしてみようと計画。
     
     
     

 4月7日、しかし、うっかり者の私はその計画を忘れ、残りの半分を家に忘れてしまった。「どーする?うっかり者」と自問し、「そうだ!」と閃く。新たに5株のニンニクを収穫し、ダッチオーブンで6時間ローストした。これを翌日さらにローストすれば良いのだ。6時間ローストニンニクとダッチオーブンは小屋のテーブルに置いておく。そうすれば、いかにうっかり者の私でも、またも忘れることはあるまい。
 4月8日、金曜日だったので、ガジ丸ブログのアップをして、畑に着いたのは午前11時、さっそく、小屋のテーブルの上に置いていたダッチオーブンに前日の6時間ローストニンニクと、今回はうっかり忘れることなく一昨日の6時間ローストニンニクを入れ、火にかける。時刻が遅れたので、ダッチオーブンによるロースト追加は4時間となる。
     

 ローストしたニンニクはムチャムチャして皮が剥きにくい、というのを一昨日経験しているので、1晩、冷蔵庫に寝かせ、乾燥させ、9日の朝、皮を剥いてみた。
 1晩冷蔵庫に寝かせてもムチャムチャに変わりはなく、皮が剥きにくいも変わらなかった。でも、頑張って剥いた。中はさすがに、前より黒い、玉の外側の片には真黒になっているのもある。「やった、成功だ!」と一瞬思ったのだが、真黒のニンニクの1片を口に入れると、それはクロニンニクでは無く、コゲ(焦げ)ニンニクであった。不味い。
     

 というわけで、私のダッチオーブンによるクロニンニク作りは失敗となる。ダラダラと長い文章を書いたのに、何の役にも立たなくて申し訳ないという気分です。

 記:2016.4.9 ガジ丸 →沖縄の飲食目次


一人暮らしの不安

2016年04月08日 | 通信-社会・生活

 今週のガジ丸通信『一人だけど独りじゃない』で、「私はけして孤独では無い」と言い張ったが、もう少し時が経てば「独居老人」と呼ばれる身分だ。世間からは「家族のいない寂しい人」と見られる。「私はけして孤独では無い」と言い張る立場からすると、この独居という言葉には少々不満がある。「1人住まい」でいいのではないかと思う。
 
 私は元々細かいことに気が利かない、ウチナーンチュに多い大雑把な性質で、うっかりミスによる小さな怪我をよくするし、忘れ物もよくした。中学生の頃、忘れ物で先生に何度ビンタ(当時、体罰は普通)されたことか、懐かしく想い出される。
 オジサンと呼ばれる歳になってからも、日常、大工道具や農機具を使っているので小さな怪我は相変わらずある。忘れ物はというと、「ある」どころでは無く、歳取るごとに酷くなって、今は格段に増えている。携帯電話を忘れ、財布を忘れなどしている。買い物のメモを書いて、そのメモを見るのを忘れて、買いたい物を買えなかったりしている。
 よく行くスーパーが2店舗、時々行くスーパーが3店舗あるが、面倒臭がり屋の私はどのスーパーのカードも持っていなかった。であったが、去年の暮、医療保険の関係で時々行くSスーパーの会員となり、そこのカードを入手した。先日、そのスーパーの50ポイントサービス券があったので、そこへ行った。すると、店前にポイント2倍デーとある。「ラッキー」と思って、急ぎでない物まで買ったのだが、カードを出し忘れた。
 3月のある日、車内常備の鉛筆を図書館で使い、使い終わった鉛筆は上着のポケットに入れた。「鉛筆は車に戻さなきゃ」と思ったがずっと忘れ、別の上着になってからも忘れ続け、畑作業中、ポケットの鉛筆に毎日気付いて「鉛筆は車に戻さなきゃ」と思ってもその5分後には忘れ、鉛筆が車に戻されたのは、3週間近く過ぎてからだった。
 2月のある日、「確定申告の時期だ」と気付き、「役所に行かなきゃ」と思い、役所から近い金曜日の職場へ行ったついでに行こうと決めていたのだが、その日以来、10回近く金曜日の職場へ行ったのだが、「ついでに役所は」ずっと忘れ続け、1ヶ月近くも経ってやっと雨の日の3月9日。役所へ行って、話を聞き、確定申告を済ませた。
          
          

 物忘れはこの先ますます酷くなっていくであろう。その内「ボケ老人」にもなるであろう。今でも「コンロの火を消していないかも」と思って家に引き返すことがある、今のところはたいてい消してあるのだが、ボケたら「コンロの火を消していないかも」と思うこともなくなって、帰ったら火事になっていた、なんてことになるかもしれない。
 一人暮らしの不安はそこにある。自身が意図しない迷惑を他人に掛けてしまうことだ。火事にでもなったら周りの誰かの命を奪ってしまうなんてことにもなりかねない。散歩に出て、帰る家を忘れて、徘徊老人となって、道路に飛び出して、車に轢かれ、轢いた運転手に辛い思いをさせるかもしれない。正常な脳味噌でいる内(今でも正常な脳味噌であるかは少々疑わしいが)に、あれこれ手を打っておかなければならないだろう。
 私の老後、他人の迷惑にならないために誰かに多少の面倒をみて貰わないといけないかもしれない。「生命保険の受取人にするから後の面倒よろしく」と、私より1世代年下の甥や従姉妹たちの子供の誰かに頼むつもりでいる。その際、「俺が倒れても119番するな、病院へ連れて行くな、そのまま死なせろ」と私は遺言状に書くつもりでいる。
          

 記:2016.4.8 島乃ガジ丸