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ガジ丸が想う沖縄

沖縄の動物、植物、あれこれを紹介します。

自給自足禁止法

2015年10月30日 | 通信-科学・空想

 「はしるー、はしるー、おれーたーちー」と歌う人がいるように、人生を走り抜けたいと思う人も多くいるであろう。中には、全力疾走で駆け抜けたいと思う人もいるに違いない。しかし私は、人生を歩きたい。歩くのもウォーキングのような速足ではなく、のんびりと歩きたい。時には立ち止まったり、後ろを振り返ったり、腰掛けてボーっと景色を眺めたりもしていたい。「のんびり」を「だらだら」などと非難されても気にしない。
 人それぞれに使える時間はそれぞれに限られているが、使える時間が同じだとしたら、走る人に比べて歩く人の道は短い。歩く人は山の向こうに何があるか知らぬまま人生を終える可能性が高い。その上私は、歩く道に何らかのハードルがあったとしても、飛び越えることはせず、避けて通る。そういったことでも時間を費やし、その分さらに道は短くなる。それでもいいのだ。山の向こうは見えずとも、足元の小さな虫は見えている。
 走る人はまた、歩く人にはできないたくさんの経験も得るであろう。たくさんの人と知り合い、たくさんの富を得たり、地位や名誉を得ることもあるだろう。のんびり、あるいはだらだらと歩いている私にそういうものはついてこない。それでもいいのだ。のんびりのせいで無名の貧乏だとしても、何の不満もない。生きていりゃこの世は楽しい。
          

 最近、ラジオのニュースから聞こえてきた言葉で気になったのがある。一億総活躍社会という言葉、これからの日本国の形をそうしたいと政府(たぶん霞が関が黒幕)が言っているみたいである。荒れ心臓総理のことなので「活躍」は「お国のため頑張る」という風にも聞こえる。働ける者は一所懸命働けと鞭打つようにも見える。走れる者はできるだけ全力疾走して、歩ける者はできるだけ早く歩いて、歩けない者も手や頭を使って何かしら活躍し、金稼いで社会(国)の役に立つように、と仰っているのかもしれない。
 「別に活躍しなくてもいいじゃないか、コツコツと働いて、汗を流して、発泡酒を飲んで幸せを感じているだけでもいいじゃないか」と私は思う。「鉢巻をし、たすきをかけ、若い頃は頑張って働いて、年取って引退したならば、後はのんびり庭の植木や盆栽をいじったり、孫の話し相手をして暮らす人生でもいいじゃないか」と思う。
 政府の言う活躍がどういう活躍なのかよく判らないが、私の考えでは、専業主婦が家事育児に頑張っているのも活躍、年寄りが孫たちの遊び相手をするのも活躍、それだけでも十分の活躍だと思う。ついでに言えば、全く稼げていないが、「腰痛ぇ~」と呟きながらコツコツと畑で汗を流している貧乏農夫も農地保全という点で活躍している・・・はずと私は思っている。自給自足を目指し頑張っている点でも活躍している・・・と思う。

 一億総活躍社会・・・国民にもっと働かせて、金をもっと稼いでもらって、税金を多く収めてもらって、その税金を収入にしているお偉い人たちが喜ぶ社会にしたいと国が考えているとしたら、金を稼がず自給自足している人間は役立たずの存在となる。そんな人間が増えたらお偉い人たちにとっては「えらいこっちゃ!」となる。
 そこで、お偉い人たちは考える。酒を勝手に造ってはいかん、塩を勝手に作ってはいかんなどという法律がかつてあったように、「農家以外の国民が一定量以上の農産物を勝手に作ってはいかん」という法律を作ろうと考えるかもしれない。自給自足禁止法、そんなのできたら、芋食ってのんびり生きていこうと思っている私はとても困る。
          

 記:2015.10.30 島乃ガジ丸


被験者は一人

2015年10月16日 | 通信-科学・空想

 先週のガジ丸通信『医者に殺されない』で、「私が病院の世話になったのは、・・・それらの4回だけ」と書いたが、歯医者を忘れたいた。40歳を過ぎて老眼鏡を買い、老化を感じて歯医者にも時々通うようになった。主に歯石取りなどの歯の掃除のため。親知らず除去手術も1回あった。40代は平均すると年に1回は行っていたと思う。
 去年、7~8年ぶりくらいに歯医者へ行ったら「歯周病」と診断された。「老化ということですね」と医者に問うと、「そうですね」と笑っていた。医者は「半年に1度は治療を受けた方が良いですよ」と勧めてくれたが、それから1年経っても私は歯医者へ行っていない。「老化ならばしょうがないこと、放っておけ」といった気分。歯痛はとても痛いということは知っている、耐えられない痛さを感じたら病院へ行けばいいのだ。
 この先、歯が1本抜け2本抜けして、10年後には20本ほどしか残っていなかったとしても、それは普通だと思う。人間の体はそのように作られていると思っている。20年後(生きていたとして)、歯が無くなりモノが噛めなくなったら噛まずに済むモノを食えば良いし、それで栄養不良となって衰弱死したなら、それが私の寿命である。

 さて、先週の続き、『医者に殺されない47の心得』にはまた、私の考えていたことと違う箇所もいくつかあった、玄米、塩、免疫細胞のことなど・・・について。

 「免疫力が強ければ癌も自然治癒する」と私は思っていたが、同書には「免疫力では癌を防げない」とあった。その項の中に「免疫細胞は外から入ってきた異物を敵と認識してたたく・・・がんは自己細胞が変異したもの・・・人間の免疫システムが、がん細胞を敵とみなさないからがんは発生する」とあって、これには私も納得した。
 それでも私は、人間の自然治癒力を信じている。癌もそれによって治ることがあるはずだと信じている。その自然治癒力は免疫細胞の力では無く、別の力、例えば「元気」というものかもしれない。体と心に元気があれば癌も自然治癒するはず。元気の源は幸せだと思う。幸せは家族の愛情や仲間の友情を感じることなどで得られ、笑うことで得られ、そしてたぶん、美味しいものを食べたり、旨い酒を飲んだりしても得られるはず。
          

 「精製塩より自然塩の方が健康に良い」と私は思っていたが、同書には「自然塩より精製塩の方が安心」とあった。ちなみに、「高血圧に塩はダメはウソ」ともあり、これは私の考えと一緒。その項の中で「砂糖、米、パンなどにも言えることですが、白く精製した食品を毒物のようにバッシングし、黒糖や玄米や黒パンを手放しでほめたたえる、というのは非科学的です」とあった。私が信じていた「白糖より黒糖、白米より玄米、精製塩より自然塩の方が健康に良い」は、科学的には全く実証されていないみたいである。
 科学的に実証されていないのなら私が実験だ。私は体のあちこちに不調が出始めた中年になって健康を考えるようになった。白米を玄米にし、玄米から芋になり、白糖を使わず黒糖にし、精製塩でなく自然塩を使っている。しかし、高校生の頃からタバコを吸い酒を飲み、酒タバコは以来ずっと続いている。そんな男が長生きするかどうかの実験だ。その男には付帯条件も付く。死ぬまで独りであったことと、ストレスをほとんど感じずに生きていたということ。果たしてその結果はいかに。被験者はたったの1人だが。
          

 記:2015.10.16 島乃ガジ丸


医者に殺されない

2015年10月09日 | 通信-科学・空想

 大腸癌が見つかった友人のT、開腹手術は拒否したが、医者から「可能であれば内視鏡による摘出手術をしましょう」と提案され、それには挑戦した。それが先週の火曜日、内視鏡による手術の場合は体への負担が小さく、入院も1泊で済むとのことであった。なわけで3日後の金曜日、「もう元気に働いているだろう」と思って彼にメールした。ところが、彼の返信には「今入院中、退院は週明けになりそう」とあった。
 翌日の土曜日、Tを見舞いに行った。入院が長引いている訳は「癌を摘出した際、腸壁も少し削った、その傷が癒えるのにしばらくかかるらしい」とのこと。「可能であれば内視鏡による摘出」は、「腸を傷付けず、つまり、ほとんど出血することなく摘出できる」意味だと私は理解していたのだが、Tもおそらくそう思っていたのだろうが、医者は無理して内視鏡手術を可能にしたようだ。Tは「しょうがない」と笑っていたが・・・。

 Tが開腹手術を拒否したのはもちろんTの意思であるが、彼がそう決定することを後押しした本がある。この文の表題「医者に殺されない」は随分衝撃的だが、これはTを後押しした本の名前から頂いている。その本とは『医者に殺されない47の心得』、著者は現役のベテラン医師である近藤誠氏。2012年初版出版で、本の帯に「100万部突破」とあるので有名な本なのであろう。きっとテレビでも話題になったに違いない。私がここで改めて説明しなくても「知っているよ」という人も多かろう。テレビ観ない、新聞読まない、雑誌も読まない、本屋へ行かない私だから知らなかっただけなのだ。
 Tが癌と聞いて(そう話したのは私)、共通の友人であるOが「手術するかもしれないその前に」と、Tにその本を貸した。Tが読み終わってOに本を返し、その数日後、「お前も読んでおけ」となって、今、『医者に殺されない47の心得』は私の手元にある。既に読み終わっているが、その感想(この文)を書こうと思ってまだ返していない。
          

 「シタイ!」・・・死体では無い、「でかした、よくやった、よっしゃ」といった意味のウチナーグチ(沖縄語)。『医者に殺されない47の心得』を読んで「シタイ!」と膝を打つ箇所が多くあった。「検診は受けなくていい」、「癌は放っておいていい」、「薬は毒物」などといったことで、「よっしゃ!俺の思っていた通りだ」となった。
 大学受験前に健康診断を受けて以降約40年、私は検診などというものを1度も受けていない。「不具合が無いのに何で病院へ行くの?」が私の素朴な疑問。私が病院の世話になったのは、不摂生で今より体重が14~5キロ多かった若い頃、背中の脂肪腫摘出、瞼の脂肪腫摘出、膝の関節炎治療、左手親指の骨に達する切傷の手術、それらの4回だけ、いずれも入院はしていない。いずれも不具合を感じ、病院へ行く必要を感じたから。
 癌は放っておけば治る(本には治らない癌は治療しても治らないとあった)と思っていたし、薬はもう20年余、何の薬も飲まず、風邪も腹痛も根性で治している。
 その他、血圧が130を超えると高血圧と見なされ降圧剤を飲まされることについても私は疑問を持っていたが、本には「血圧130で病気なんてありえない」、「基準値をいじって、薬の売り上げ6倍増」とあった。「そうか、製薬会社の陰謀か」と納得。
 『医者に殺されない47の心得』にはまた、私の考えていたことと違う箇所もいくつかあった、玄米、塩、免疫細胞のことなど・・・字数も尽きたのでそれらは次回。
          

 記:2015.8.9 島乃ガジ丸


これだけは伝えたい夢機械

2015年09月04日 | 通信-科学・空想

 先週金曜日(28日)は沖縄の重要伝統行事、旧盆の最終日ウークイ(御送り)であった。旧盆の初日から供える菓子や果物も、私は母が例年やっていた量の10分の1も供えていない。ウークイの日は重箱を供える。箱の一つには沖縄で言うシシカマブク(肉と蒲鉾)の他、煮物、天ぷらなどの御馳走が詰められる。その他、中味汁(豚の臓物の汁)や酢のもの、サーターディンガク(サトイモに砂糖とショウガを加え、煮たもの)など手間のかかる料理も母は供えていた。私はそれを極端に単純化し、供えるのはシシカマブクの入った重箱のみ、それもスーパーで売られていた最も小さいものにした。
 供え物が少なく小さいのには正当な言い訳がある。寺に位牌を預けてあるが、そこの仏壇がコインロッカーみたいなもので小さいのだ。小さいのでたくさんは置けない。それともう一つ、実家で旧盆をやっている頃は、親戚の数人が集まった。供え物の重箱料理もお菓子も果物も、何人かで分けてそれぞれ持ち帰った。寺での旧盆は私一人でやっている。食べ物は全て私一人で持ち帰る。したがって、供える量は私一人で食える分となる。

 旧盆は3日間の行事だが、去年は、ウンケー(御迎え)の日とウークイの日にしか私は寺へ行かなかった。その両日はお迎えと見送りという具体的な意味合いがあったからだ。であったが、今年は旧盆前に、「旧盆中は先祖がそこにいる、3日間ともおもてなしをしなければならない」と思い出し、「ナカヌヒー(中日)はぜんざいを供える」とラジオから聞いて、ナカヌヒーである27日も、ぜんざいを買って寺へ出かけた。
 その時、同じ寺の同じ部屋に位牌を預けてある従姉のK子に会った。K子は自分の仏壇のやるべきことを一通り済ませた後、私の仏壇にやってきて、「あんた、泡盛はウサゲ(御捧げ)ないの?あんたのオジー、酒好きだったさぁ」と言う。母の好きなワイン、父の好きなビールは供えたが、祖父母の好きなものはすっかり忘れていた。「そうだな、オジーオバーにもたっぷり世話になったからな、明日は供えるよ」となった。
 祖父の好きなものは泡盛、それは私もよく承知している。祖父が存命だった頃、まだ小学校低学年だった私は、酒を買いによく使いに出された。では、祖母の好きだったものは何だったか?と脳味噌を探る。豚肉の脂身を思い出す。が、それは重箱料理に入っているので他に何か?と考え、「あっ、そうだ、オバーは煙草好きだった」と思い出した。
          

 先週のガジ丸通信『これだけは伝えタイムマシン』を書きながら、「あー、あの時あーしていれば・・・」と、私の個人的な悔いが頭の中をいくつか巡った。
 今から30余年前、それまで何度かデートしていたM女に偶然出合い、しばらく立ち話をして別れたが、別れ際の彼女の表情が気にかかった。その時それを一大事と感じていれば、私は彼女に「こんな俺で良ければ」と伝えたかもしれない。それから間もなく彼女は結婚した。これだけは伝えたい夢マシンがあれば、そのことに先ず使いたい。
 「オバーは何が好きだったっけ?」と考えている時、「俺はオバーに冷たかったな」と思い出した。祖母は後妻ということもあって遠慮していたのか、家の中ではとても大人しかった。父や母の言うことにあまり逆らわなかった。子供の私にはそれが「弱い人」と映った。なので私は、祖母を少しバカにしているところがあったように思う。祖母は優しかった。今思えば後悔だ。「ありがとう、そして、ごめん」と祖母に伝えたい。 
          

 記:2015.9.4 島乃ガジ丸


これだけは伝えタイムマシン

2015年08月28日 | 通信-科学・空想

 糞暑いせいで畑を休んでいるのか、最近、近所の大先輩農夫N爺様が姿を見せない。もっとも、最近雨の日が多い、私も8月に入って2日は休んだし、遅い時間に出勤ということも数日あった。N爺様も雨の日は概ね畑に来ない。そのせいでもあろう。
 N爺様からは、彼が若い頃の話をいろいろ聞いている。爺様の若い頃は戦中戦後だ、興味深い事項もいくつかあった。その話をまとまった文章にしようと思ったのだが、聞きながらノートをとるということをしていなかったので、「あれ、何でそうなったんだったっけ?」など思い出せない点がいくつかあって、まだ文章にできていない。
 4月から5月にかけて数回、N爺様とじっくり話をする機会があって、計4時間ばかり会話をした。爺様は終戦の1945年、17歳で、もう少し経てば兵隊にとられたが、その時は軍需工場で勤労奉仕していたらしい。そして、既に結婚していたとのこと。結婚したてで、しかも戦火が激しい頃で幸せな結婚生活は送れぬまま、妻を失くしている。新妻だけでなく、自分の両親も一緒に失くしている。爺様の両親と妻は北部へ疎開する道中、同じ日同じ時間同じ壕の中で米軍によって焼き殺されたとのこと。

 N爺様は淡々と語ったが、そのことに思いを馳せるように遠くを見るような眼差しをした。爺様には問わなかったが、それはとても悔しい思いをしたのだと思う。
 今度N爺様と話をする機会があったら聞いてみようと思っていることがある。「亡くなってしまったけど、両親と奥さんに伝えたいことがありますか?Nさん、そんな手紙書いてみませんか?」と。爺様の話をまとめる時に、爺様から聞いたことを私が文章にするだけだと深みが無いので、その手紙をメインにしようと思ってのこと。
 そこで、想像力の豊かな私は、これだけは伝えたいと思うことを、時代を遡って伝えることのできるタイムマシンがあればと想像した。もしも私がその場にいたら、
 「鬼畜米英なんて嘘だ、「出てきなさーい」と聞こえたら手を挙げて壕から出るんだ、命どぅ宝(ヌチドゥタカラ)だ、生きていさえすれば何とかなる」と、壕の中にいる人々を説得したと思う。もしもそこに日本兵がいて「何だとーこの野郎、臆病者が、非国民めが、黙れ!」と私に切りかかってきたら、私はその兵隊を殺してでも皆を救いたい。
          

 「日本国民なら辱めを受ける前に自ら命を断て」と日本軍国主義によって洗脳されていたウチナーンチュには、終戦を前に自決した人も多くいたと聞く。彼らにも私は、
 「生きなさい、戦争が終われば平和な世の中になる。皆が飢えの心配をせず生きていける世の中になる。戦後すぐ沖縄芝居が隆盛となり、映画に人が集まり、やがてテレビが茶の間に広がる。多くの人がマイカーを持ち、休みの日には家族そろって海辺でバーベキューパーティーをする。結婚して、家庭を持ち、子供たちが大人になり、結婚してたくさんの孫ができ、その孫が大人になって、結婚して曾孫も産まれる。あなたの未来は今と比べれば遥かに明るく、幸せに生きていける。だから生きなさい」と伝えたい。

 6月23日の慰霊の日までに「N爺様の時間旅行」のようなタイトルで一文を書いて、それをブログに載せようと思ったが叶わなかった。ならば8月15日までにと思ったがそれも叶わなかった。今度N爺様を見かけたら、声をかけ、話を聞こうと思っている。
          

 記:2015.8.28 島乃ガジ丸