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ガジ丸が想う沖縄

沖縄の動物、植物、あれこれを紹介します。

男の本音はやり逃げ

2017年06月16日 | 通信-社会・生活

 4月21日付ガジ丸通信『男の修業を怠けた結果』の続き。
 ラジオから『察しない男、説明しない女』の話を聴いてから1ヶ月ほども経ったか、別のラジオ番組で『トリセツ(たぶん、取扱説明書のこと)』という歌を聞いた。「何言いたいこと言ってるんだこの女(若そうな女性歌手、名前は覚えていない)。」というのが私の感想。いや、歌っている人が女子高生以下の子供であるなら「夢を語ってるんだ」と何とも思わないのだが、ラジオからの情報ではそうじゃないみたい。「大人の女が子供みたいに言いたいこと言ってるんだな、そういう時代なんだな」と思った。

 そのラジオ番組は沖縄のローカル局ラジオ沖縄の番組であったが、それからさらに1ヶ月ほども経った5月中頃、NHKラジオの番組でも『トリセツ』が取り上げられ、さらに詳しく聞く、というか耳に入ってきた。「私と付き合う際はこうしなさいああしなさい」と言っているようである。傾聴していたわけではないので記憶は怪しいのだが、それについて司会者の1人(男性)が大いに非難めいたことを語っていたように覚えている。
 ラジオ沖縄の番組でもNHKラジオの番組でも、男は概ね『トリセツ』について批判的であったとも覚えている。「そうだよな、俺だけじゃないよな」と私は納得した。『トリセツ』はつまり、「男の感性なんてどうでもいい、男は女の感性に合わせるべき」と言っているようなもの。「そうでないと付き合ってあげない」なんて脅迫も感じる。

 女がそう来るなら男だって言いたいこと言っていいはずだ。ということで、男のトリセツを私が、女性の多くに嫌われることを覚悟で歌ってみよう。
 
 それぞれ興味を持つことが違うのだから日中はそれぞれが好きなようにして、
 夜だけ一緒にいることにしよう。もしも妊娠したなら、子育ては面倒臭そうなので、
 できればシングルマザーとして生きて行ってくれ。
 愛しているからセックスするのでは無い、セックスしたいから愛するのだ。

 結婚ってそんなに大事なこと?デートに誘うことは責任を負うということ?
 友人としての付き合いでもいいだろう?セックスフレンドでいいだろう?
 友人はたくさんいた方が良いと私は思うんだ。
 愛しているからセックスするのでは無い、セックスしたいから愛するのだ。

 以上、さわりだけ。メロディーはまだできていない。この先作る気もない。

 なんていうことを書いている内にふと気付いた。「あー、俺もブログで言いたいこと言っている。思ったことを真っ直ぐ伝えている。後期オジサンのくせして俺はまだ子供なのか?あるいは、俺も時代の先を走っているのか?」と我が身を省み、そして、
 「いやいや、言いたいことを正直に言うことは間違ってはいない。『トリセツ』も良いかもしれない。そういうのが嫌ならそんな女とは付き合わなければいいのだ」と私は考え直した。今はそんな女が多いのかもしれない。だから私に恋人ができない、はず。
     
     

 記:2017.6.16 島乃ガジ丸


暴力による支配2

2017年06月09日 | 通信-社会・生活

 5月26日付ガジ丸通信『暴力による支配』で「暴力による主従関係が現代でも正しいとされるならば・・・云々」と書いたが、暴力による主従関係から連想したことがある。それは、学校での教師による生徒への体罰。私の経験ではその全てがとは言わないが、その一部は「暴力による主従関係」を強いるものであったと覚えている。中学の頃、所属している部活に不良先輩がいて、彼の暴力はまったくそれ、「俺のいうことを聞け、さもないと殴るぞ」という暴力だった。今思えば「野蛮人め!」と怒鳴ってやりたい。

 中学の頃、私は何人もの教師から数え切れないほど体罰を受けた。私はけして不良少年ではない。むしろ、暴れたり騒いだりはちっともしない、静かで大人しい少年だった。私はただ、怠けものであった。宿題はしない、遅刻はする、授業中、教師の話をきかない、時には居眠りしている、そんな少年だったので、教師のビンタをよく喰らった。
 ビンタは痛いだけで、マゾではちっともない(サドでもない、暴力反対主義だ)私はちっとも楽しくなかったのだが、学校の勉強はビンタよりなお嫌いであった。「ビンタされてもいいから宿題はしたくない、勉強もしたくない」少年であった。
 私の頬を叩いた教師、誰一人名前を覚えていないが何人かの顔は思い浮ぶ。あっ、1人の名前を思い出した、中三の時の担任、K先生、彼にもたくさんビンタされた。K先生ともう1人、若い体育教師のビンタには特に悪い印象を持っていない。しかし、若くない体育教師も含めたその他の教師たちのビンタは、腹立つものが多かったと覚えている。「言うことを聞け!殴るぞ!」といったような体罰だったような気がする。
     

 「躾のためには体罰も必要、躾はその子のためになること」というのが教師の言い分かもしれないが、それは暴力によって、あるいは、暴力の恐怖によって子供を従わせるということである。それは「暴力による支配」に他ならない。そういった教師が多かった。私の記憶で言えば、私は教師に恐怖を感じ、教師全般が嫌いであった。
 一方、体罰を受けても、さほど恐怖を感じない教師も少なからずいた。上に挙げたK先生と若い体育教師(以降、体育なのでイニシャルをTとしておく)は、これも私の記憶で言うが、K先生とT先生の目には狂気や憎しみは感じられなかった。小学校1年から中学校3年まで勉強嫌い、先生も嫌いの私が、その間、たぶん20数人(担任だけでなく各教科も含む)の先生と関わったが、その中で唯一、T先生は好きだった。
 T先生は普段は優しかっが、ルール違反に対しては厳しくて、私は、はっきりは覚えていないが、たぶん、5~6回はビンタされている。でも、子供なりに彼の言うことは正しいことと納得できたと思う。少年は、彼にビンタされて品行を正すこととなった。
     

 ということで、私は体罰の全てを否定するものではない。愛情ある体罰も存在するものと信じている。親が我が子のお尻をペンペンするのもその1つだと思う。それこそ、「躾のためには体罰も必要、躾はその子のためになること」そのものだと思う。
 ところが、怒り任せに子供を殴る親がいるということも私は承知している。怒り任せに妻を殴る夫がいることもマスコミからの情報で私は知っている。「俺に逆らうな!」と言って殴る夫も多かろう。そんな人は、支配者になりたがっている人なんだと思う。
     

 記:2017.6.9 島乃ガジ丸


過程という幸せ

2017年05月11日 | 通信-社会・生活

 現在の住まいは一軒家風で、平屋の建物を半分に分け、半分が大家、半分が店子(私)となっている。隣に住む大家Tさんは60代後半の女性で1人住まい。人の良さそうな笑顔を見せ、親切で、お菓子や飲み物、手料理などをしばしば私に恵んでくれる。
 Tさんはまた、植物が好きで、家の周りの土面にあれこれ植物を植えている。自分の部屋に面した庭や花壇にホームセンターから購入した草花を植えている。自分の部屋に面した庭や花壇だけでなく、私の部屋に面した庭や花壇にも草花を植える。庭の方は、私の都合(濡れ縁、目隠し簾設置など)により、庭の形を私好みにして以降は遠慮していただいているが、駐車場側の小さな花壇は今でもしばしば手を入れ、花を替えている。

 その花壇がある上部の窓が道路側に面し、通行する人から、あるいは向かいの家から部屋の中が丸見えとなるので、そこにグリーンカーテンを設ける計画を引っ越し当初から考えており、ハウス用パイプでアーチを設け、ネットを張り、そこにツル植物を這わすという計画であった。3月にはその設計図もでき、4月に入って、いよいよ着工した。
 大家さんは、深さ20センチほどしかないその花壇に草花の他、ハイビスカスやらキンカンやらツバキなどといった木本性の植物も植えていた。さらに、花壇の土を山盛りにして土が床下通気口を塞いでいた。通気口の前の土を除去し、その前にタイルを置いて通風を確保し、ハウスパイプの柱の基礎となるブロックが収まるよう花壇の大きさや形を少し変え、木本性の植物を鉢に移し、アーチを作り、アサガオの種を数個播いた。
 アサガオの種を播いたのは4月2日、「大家さん、グリーンカーテン用としてここにアサガオを播いたので、しばらく触らないでください」と伝える。であったが4月13日、夕方家に帰ると花壇には土が盛られ、新しい草花が植えられてあった。アサガオは芽が出ていたのか確認していなかったが、その時見たらアサガオの芽は1つもなかった。私は大いにガッカリ。4月15日、大家さんに声を掛けられ「あなたのアサガオ、雑草と思って抜いてしまったかもしれない、播き直してね」とアサガオの種を頂く。「やはり、そうであったか」と私は残念。でも、大家さんは好意でやっていること、文句は言えない。
     
     

 高さ15センチ(土は山盛りされ奥側の深さは20センチ程)、奥行き40センチ、長さ180センチ程の小さな花壇に、大家さんは異なる8種類の草花を植えてある。大家さんは種を播くなんてことをしない。既に花の咲いているポット入りの草花を植える。
 私もそういったポット入り草花を買うことがあるが、しかし、たいていは種を播く。種を播いたら芽が出るかどうかの楽しみがあり、芽が出たら成長するかどうかの楽しみがあり、成長したら花が咲くかどうかの楽しみがある。最初から花の咲いたものを植えるとそれらの楽しみが無い。どこかの誰かが咲かせた花を見るだけの楽しみしかない。
 介護施設のバイトをしている時、「Aが花壇に草花を植えるとしたら、種を播くか、既に咲いているポットのものを植えるか?」と可愛いA嬢に訊いた。彼女もまた、「苗を植える」と答えた。『察しない男、説明しない女』の中に「男は結果を、女は過程を重視する」というのがあったが、どうやら、花に関してはそうとも言えないようだ。
 種を播いて、育て、作物を得るという楽しみを出来そこない農夫の私は感じている。それはまた、生きていることそのものが楽しいということに繋がらないだろうか。
     

 記:2017.5.12 島乃ガジ丸


他人の評価

2017年04月14日 | 通信-社会・生活

 2月24日付ガジ丸通信『可哀想な新米農夫』を書いている時、「俺は他人から見ればできない男、可哀想な新米農夫に見えているのかもなぁ」と他人の評価を勝手に想像しながら、「いや、俺は1日10時間も畑仕事ができる、できる男だぞ」などと、自分の勝手な想像に自分自身で反論もしていた。「いや、確かに作物の出来は悪いが、自分が食う分の収穫はあるぞ、さほど可哀想ではないぞ」とも反論していた。
 文章を書いている時は思考があちらこちらに及んで、自分に対する他人の評価についても想像してしまったが、じつは私は、他人の評価などほとんど気にしていない。ほとんど気にしていないが一部は気にしている。世に多くいる美女から見た評価は気にしている。しかし、それ以外は、例えば、男から見た評価などはどうでもいいと思っている。
 「どうでもいい」には理由もある。私はけして嫌われてもいい、軽蔑されてもいいなどとは思っていない。街に遊びに出掛けることもほとんどなく、日々コツコツと畑仕事をしている生き方であれば、特に嫌われたり軽蔑されたりすることは無かろう、嫌われたり軽蔑されたりしなければ、あとはどうでも良かろうと思っているだけ。
 あとはどうでも良かろうと思っているので、私の髪はいつもボサボサ、髭は3~5日に1回しか剃らないので無精髭の日がほとんど、襟袖がよれよれで破れているシャツを着、見えないけれど時には破れたパンツも履いている。靴は畑の土埃でいつも汚れている。
     
 ボロの服を着ている私、ブログをアップするために毎週金曜日に通っている事務所の事務員に「あんた、外で会っても私に声を掛けないでよ」と言われている。でもさ、私のようなオジサン、あるいはジイサンはきっと多くいるはず。人目を気にせず自分の好きな格好で、自分の好きなように行動する。死ぬまでの一時だ、それで良いと思う。

 他人の評価を気にするのは女性に多いのではないか。自分がどうしたいかというより他人からどう見られるかを大事なこととしているようである。だから化粧をし、きれいなべべも着る。だから、本音と建前を使い分け男を翻弄する。
 恋人が髪形を変えたのにも気付かない、香水を替えたのにも気付かない私だが、今(恋人がいた頃から20年経っている)ならその言い訳ができる。
 髪が短くても長くても、パーマでもストレートでもそんなことどうでもいいこと。香水がミカンの匂いでもバラの匂いでもそんなことどうでもいいこと。私にとっては、あんたがあんたでいることが大事なこと。あんたがあんたでいれば・・・見た目のことじゃないよ、あんたの存在そのものとか生き方とか感性とかだよ、それがあんたであり続けるならいつまでも好きでいられる。という言い訳、ちょっとカッコ良過ぎか?

 今やっている介護施設の運転手というバイト、私にとってはストレスなんだが、介護職員達から見れば「何言ってるの、あんたは運転だけでしょ、何がストレスよ」なのかもしれない。だけどさ、「若い頃の苦労は買ってでもせよ」という諺もあるじゃないか、私は若くないのだ、引退している身だ、もう苦労は卒業してもよかろう。これでも若い頃は現場の仕事を覚えながら、勉強していくつかの資格を取って会社に貢献し、パソコンも勉強して仕事に関わるいくつかのソフト使いこなせるように頑張ったのだ。現役引退している身の死ぬまでの一時、好きなことをしてのんびり生きてもいいじゃないかと思う。
    

 記:2017.4.14 島乃ガジ丸


土方がまだ増し

2017年03月24日 | 通信-社会・生活

 3月4日(土曜日)、友人のK子から「アルバイトしない?」と電話。彼女の妹I子が介護施設を経営していて、K子も、K子とI子の姉Hさんも、K子の娘A嬢もその施設の職員として働いている。男の職員が1人辞めたため男手が足りなくなったとのこと。
 5、6年前にもそこで3日間のバイトをしたことがある。たったの3日間で介護の仕事は大変難儀なものであると感想を持ち、大雑把な性格の私には細かい気遣いを必要とする介護の仕事は向かないと判断し、もう2度とやることはないと決めていた。しかし、「お願い」と頼まれたら簡単には断れない。「介護の作業はしなくていいから、年寄り達の送り迎えをする車の運転だけでいいから」とのことだったので、渋々応諾した。
 介護の仕事はきつい割には賃金が安いので成り手が少なく、雇ってもすぐに辞める人が多いと聞いている。職員達の仕事ぶりを見ていると、大変であることがよく解る。

 介護を要する老人は増えているのに、それに比して介護現場で働く人の数は増えていないとも聞いている。特に男の成り手が少ないようだ。それも若い男が少ない。
 その施設には責任者I子を含め、また、パートタイムの人も含め23人(調理担当の3人と送迎担当の私を除く)の相談員、看護師、及び介護担当職員がいる。23人いる中で男はたったの1人、しかも彼は週に2日出勤のパート。60代と彼も若くはない。
 職員のオバサン(差別用語ではない、その年頃の女性)の1人に訊いた。
 「若い男は正職員として居着かないの?」
 「いないねぇ、来てもすぐに辞めるねぇ」とのこと。細かい気遣いの要る仕事は男には不向きなのかもしれない。確かに、私がもしも若くて、失業していて、金を稼がなければ生きていけない状況にいて仕事を求めていても、介護よりは土方を選ぶ。土方は、肉体的には辛い作業かもしれないが精神的には楽だ。肉体的疲れは酒飲んで癒す。
     
     

 その施設の責任者であるI子は真面目である。彼女の為にもどうにかならないかと私なりに考えてみた。そして、効果があるかどうか不明だが、1つ閃いた。
 22人いる女性職員の中には若い(アラサーくらい)人も数人いる。可愛い子もいる。アラサー以上の人でも魅力的な人がいる。で、私は思った。1人若い男、若く無くても40代くらいまでの男が職員として入ってきたら、女性全員で彼をチヤホヤしたらどうだろうか。男は女性からチヤホヤされたら嬉しい、幸せを感じる。幸せを感じていたら辛い仕事でも耐えられるに違いない。チヤホヤしたら長く居着くかもしれない。
 なんていうことを、「アラサー以上の人でも魅力的な人」の内の1人であるAさんに提案すると、「意味ワカンナイ」と一笑。その一笑が、「何で女が男をチヤホヤするのよ、逆でしょう」という意味なのか、「仕事でしょ、何でチヤホヤされないとできないの」という意味なのか、私は判断に迷ったが、いずれにせよ「バッカじゃないの」、「冗談言ってるんじゃないよ」が私に対する言外の返事であるとは判断できた。

 団塊の世代の人達がやがて介護を要することになるであろう。若者の数は減って行く、介護職員が絶対的に不足する。「どうするんだろうこの国は」と、近い将来介護される側となる後期オジサンの私は思ってしまった。私は、できればピンコロでありたい。
     

 記:2017.3.24 島乃ガジ丸