先月7月31日、長い間グラグラしていた1本の奥歯が抜けた。自然にポロっと抜けたのではなく、指で押したら取れてしまった。「指で押す」という不自然が少しあったせいか出血した。それでも何とか1時間後に血は止まって「よっしゃ、これで口の中の鬱陶しいものが無くなった」と気分上々。他に不具合はないので、「口の中のことは当分放っておいていいだろう」と一旦は思った。のだが、出血したということは歯茎に傷がついたということ。その傷をちゃんと処置しないとどんな不具合が生じるかしれない。
ということで翌日、歯科医へ行って診て貰う。診断、治療は約1時間で終わる。歯の抜けた傷痕は大したこと無かったようで、取り敢えず気分はスッキリ。スッキリ気分で歯科医院から少し遠回りして帰った。その日は朝から腰の調子はいつもより良かったが、歩いている間も腰の痛みはほとんど無く、歩いている内にさらに良くなったと感じる。
友人の整体師の話では、ネガティブ感情が身体の自然治癒力を劣化させるとのこと。歯のグラグラによる鬱陶しい気分が身体に悪影響を及ぼし、また、「腰痛で立てなくなり、障害者になるかも」などという不安な想いも悪影響を与えるとのこと。歯のグラグラが消えたお陰でネガティブ気分が1つ減り、それで腰痛改善になったのかもしれない。
歯の不安が消えたわけではない。私は歯は丈夫な方で金歯銀歯は1本も無く、虫歯も軽いのが1本だけ。「俺は酷い老眼だが、マラもヘナチョコだが、歯は丈夫だ」と自信を持っていた。しかし、最近知ったことだが、虫歯菌と歯周病菌は性質が異なり、虫歯菌の少ない人ほど歯周病菌に侵される可能性が高いらしい。という訳で、私はこれからも歯が抜けていく可能性は高い。それは老化ということであり、仕方ないということにした。「昔の年寄りは入れ歯が普通だ、いいさぁ入れ歯になっても」と思うことにした。
ただ、7月3日付記事『よく噛む楽しみ』に「私は良く噛んでものを味わって食べる。歯が無いとよく噛んで味わうことができない・・・」と書いた通り、なるべくなら自分の歯で良く噛んでいたい。1本抜けたので上下合わせて27本、正確には右下奥歯に半分折れて抜けたのがあるので26.5本となった私の歯、歯科衛生師に教わった歯の磨き方をできるだけ守り、8020は無理でも、せめて7020は目指したい。
70歳になっても酒は飲んでいたい、酒の肴に鶏の膝軟骨焼きを食べたい、スルメも食いたい、その為には歯が必要。1日から3日まで3日連続歯科医院に通い、今日もこれから治療に行くが、それもこれも酒が飲みたい・・・ではなく、楽しい老後のため。
快食快便は私の特技で、これまで便秘の経験はほとんどなく、オジサンと呼ばれる歳になってからは下痢も滅多にない。快眠も特技であったが、腰痛を患ってからはよく眠れない夜が増えた。それもしかし、薬草を摂っているせいか、運動しているせいか判断はまだ付かないが、このところグッスリ眠れる日が増えつつある。友人の整体師の言う通りにして、ネガティブ思考を無くすようにしているお陰かもしれない。
「病は気から」というのは科学的にもある程度正しいのかもしれない。楽しい老後のためにもこれからは、なるべく楽しいことを考えるようにした。好きな散歩をして、動物植物の写真を撮り、それらを調べて動物植物の知識を蓄えるのも楽しい。鶏の膝軟骨焼きを噛み砕きながらビールを飲み、酒を飲む。そういった楽しい老後を想像しておこう。
記:2018.8.6 島乃ガジ丸
それまで130台だった血圧が2013年4月頃から時々140台となり、2014年4月頃からは150台もしばしばあり、腰痛を患った2017年夏頃からは毎回150台~160台となり、それが今(2018年夏)も続いている。
ブログの相互読者であるコスモスさんから過日、高血圧に効く薬草をいくつか教えて貰った。私の高血圧対策は、食事に気をつけ、良い睡眠を摂り、ウォーキングなどして汗をかくことで何とかなるはずと考えていたが、コスモスさんの助言で、「そうか、自然にある薬草で高血圧が何とかなるかもしれない、試してみよう」と決める。
しかし、コスモスさんが教えてくれた薬草を私は聞いたことがなくて、「そうか、薬草もちゃんと勉強しなきゃならんな」と思い、6月下旬頃から図書館からその方面の書籍を借りて勉強してる。以前からフーチバー(ヨモギ)が高血圧に、ウコンが肝臓に、バンシルー(グヮバ)が糖尿病に効くなどということを私は知っている。ウコンは根塊を、バンシルーはその葉を乾燥させて煎じて服用するということも知っている。でも、それらの煎じ方、摂取量など詳しくは知らず、適当にやっていた。というわけで、改めて勉強。
コスモスさんから教えていただいたハーブは図書館に資料が1冊しか無く、裏付けがとれない。おそらく、最近(古くても30~40年)入ってきた植物なのであろう。「ならば」と新しいものは一先ず棚上げし、沖縄に昔から伝わる薬草から勉強を始める。
数年前に平和運動家として知り合いになったHさんは薬草研究家でもある、ってことを思い出して、さっそく電話して、「今、薬草の勉強をしています」と伝えると、「本や資料を貸すよ」との有難い申し出を頂き、数日後、Hさんを家に招いて、本や資料を貸り、さらに、あれこれお話を伺う。Hさんは82歳、膝に少々不具合はあるが、元気。
Hさんからお借りした本の1つ『沖縄の薬草百科』によると、高血圧に効く薬草はいくつもあった。その中から「葉を乾燥させてそれを煎じて飲む」以外のものを選ぶ。「葉を乾燥させて」が面倒臭いと思ったからで、生のまま煎じてお茶になるものや料理して食べられるものを選ぶ。さらに、高血圧だけではなく、腰痛、神経痛、糖尿病(歯周病が糖尿病の原因になると聞いたので)などにも効く薬草(または野菜)も探す。
で、私が選んだ薬草(または野菜)はゴーヤー、シマニンジン、ラッカセイ、フーチバー(ヨモギ)、サクナ(ボタンボウフウ)、タマネギ、ウイキョウなど。
ゴーヤーは夏、シマニンジンは冬など季節ものもあるが、八百屋へ行けばラッカセイ、タマネギ、ハンダマ、ニガナ、フーチバーなどの野菜薬草が手に入る。(今は手放した)畑にはサクナ、ウコン、クヮンソウなどの薬草があり、後を継いだGさんに頼めば手に入る。そして、アパートのベランダでも薬草を少しだが育てることにした。
今が旬のゴーヤーは7月に入ってほぼ毎日食べている。タマネギもよく食べている。フーチバーは時々、サクナは畑のものを少し収穫して2度ほど、試にとハンダマやニガナも八百屋から購入し食べてみた。それで私の血圧は、今のところちっとも変化なし。おそらくだが、薬草の効果は化学薬品のような速効性でなく、緩効性なのだと思われる。化学肥料と有機肥料との違いみたいなもの。効果が出るまで1~2ヶ月はかかるかも。
記:2018.7.15 島乃ガジ丸
首里石嶺に住んでいた頃(1994年~2011年)は会社勤めをしていて、月給も頂いていた。住んでいたアパートは家賃3万円のボロアパート、扶養家族のいない1人暮らし、恋人がいないのでデート代も不要、会社へは徒歩通勤、などということもあって、安月給ではあったが生活費には余裕があった。模合(相互扶助的飲み会)へ参加し、テニスサークルや太極拳教室に通い、体の具合が悪いと病院へも通っていた。・・・いや、日記で確認したら、1995年の膝の治療以来、私は自身の治療目的で病院へ行っていない。定期健診もサボっていたし、風邪などは根性で治していた。であるが、歯科医は別。
2000年頃から2009年頃までは年に1回、もしくは2回は歯科医へ通い、歯の掃除(歯石取りなど)をしてもらっていた。初めは虫歯の治療であったが、「歯石がたまっています、歯周病の原因となります」とその時言われ、で、通っていた。
2010年以降は、会社の時短が始まり、生活費に余裕が無くなって、2011年には宜野湾市我如古のワンルームアパートに引っ越す。その後も病院から遠ざかっていたが、2014年11月、約5年ぶりに歯科へ行って歯の掃除をお願いする。掃除が一通り済んで、「どんな状態ですか?」と訊くと、「歯周病」と診断された。
2016年12月に、何か硬いものを噛んだせいだと思うが、右下奥歯の1本が縦半分に割れた。その後、割れた外側の半分がグラグラ動いてそこでものを噛むと痛みが出た。で、しばらくものを噛むのは左側に任せていたのだが、それから2年3ヶ月も経った2018年3月、グラグラしていた歯の外側半分が自然に抜けて、その後は右側でもものが噛めるようになり、しばらくは右でも左でもものが噛める快食となった。
それはしかし、「しばらく」だったのだ。1ヶ月も経つと、今度は左下奥歯の1本がグラグラしだして、5月になると、そこでものを噛んだら痛むようになった。
「そうか、そうやって歯は抜けていき、そのうち歯の無い爺さんになって、話す言葉がフガフガするようになるんだな、俺も歳だ、しょうがない」と一旦は思ったのだが、「いやいや、フガフガするようになるにはまだ早いはず、何とかしよう」と思い直し、
「歯周病」と診断されてから3年半が過ぎた今年5月末、歯科医へ行く。診断の結果は歯槽膿漏。「歯周ポケットがとても深い、歯石などが多く溜まっている」とのことで、歯の掃除をしてもらう。私の担当をした歯科衛生士と思われる若い女性は何度も何度も「深いです、作業に時間がかかります」と言い、とても苦労しているようであった。
病院嫌いの私が歯科医へ通っている。じつは、2014年11月に「歯周病」と診断された時は「歳相応ってことですね」と医者に言って、自身では「動物の運命だ、しょうが無ぇか」と思い、なので、その後3年半も歯科医へ行かなかったわけだが、「歯が無いと楽しくない」ということを、その時の私の脳味噌は想像できなかったようだ。
「歯が抜けたら歯茎で噛めばいいさ」と簡単に考えていた。私はよく噛んで食べる方である。良く噛んでものを味わって食べるようにしている。だから、白米より玄米が好き、玄米はよく噛むほどに美味しく感じる。玄米だけでは無い。野菜類も肉類も私はよく噛んで、細かく噛み砕いて味わって食べている。「歯が無いとよく噛んで味わうことができない、歯茎だけでは細かく噛み砕けない」ということにやっと気付いたわけ。
記:2018.7.3 島乃ガジ丸
腰痛持ちとなってからはご無沙汰しているが、私は若い頃からギターを弾いてフォークソングなど唄っていた。オジサンとなってからはサンシン(三線)も弾くようになり、何曲かはテキトーに弾けて、テキトーに唄っていた。それはまったく独学によるテキトーであり、若い頃から弾いていたギターだって独学のテキトーだ。
テキトーはウチナーグチ(沖縄語)ではテーゲー(大概)と言う。テーゲーは「ほどほどに」という良い意味でも使われるが、例えば建築現場などで、「ィエー、テーゲーシーサンケー!」と先輩から怒鳴られたりする。ィエーは「おい」、サンケーは「するな」という意で、全体では「おい、いい加減なことするな!」といった意味になる。
見た目も心もソーウチナーンチュ(ソーは全くといった意)の私は、沖縄の伝統的気分であるテーゲーが身に沁みついている。ちょっと話は逸れるが、うつ病に関する本の1冊に沖縄のテーゲー気分に癒されたといったようなことを東京人の作者が語っていた。
さて、テーゲー気分の沁みついた私は、ギターもサンシンも私としては「ほどほどに、軽く」という気分でやっていた。なので独学であり、それもそう熱心には練習しない。ギターについて言えば「ちょっと弾けて女にモテルといいなぁ」といった気分。
サンシンについても「沖縄文化を少し齧っている程度でいいや」と思っていたので、師匠に付いて基礎からしっかり学ぶということをしなかった。師匠に付かなくてもデキル天才もいるだろうが、私のような凡才は基礎がしっかりしていないと技術がなかなか身に付かない。それが証拠に、サンシンは現在、もうほとんど弾ける曲が無い。
そういえばともう1つ、私は畑についてもほぼ独学、若い頃に自然農法を実践している人から少し教わったが、その時は「自然農法なるものがある、自然農法とは無施肥、無農薬・・・」と大雑把に覚えただけ。後は本を読んでの独学であった。
腰痛持ちとなって気分が落ち込んでいた去年12月だったか、明けての1月だったか、久しぶりにギターを手にした。「こんな時こそ唄って元気出そう」と思ってのことだが、指が思うように動かない。左手も右手もテキトーにやっていて、厳しく鍛えられた経験が無いから「えーっ!動き方なんてもう忘れたよー」となっていた。
「師匠不在、これが私の人生のたくさんある欠陥の大きな1つだなぁ」と思い、「人生に師匠はいた方が良いなぁ」と思い、「凡才の独学は行き詰るなぁ」と思った。例えばサンシンなら、これまで沖縄の、琉球と呼ばれていた頃からの長い歴史で培われた感性と技術、少なくともその基礎を師匠に付けば教えて貰える。基礎がしっかりしていれば、きっと行き詰ることはないはず。さらに精進すればプロにもなれたはずと今は思う。
実は先日、私が私の人生で唯一師匠と呼べる人が亡くなった。30年ほど前、プー太郎だった私を拾ってくれた人、私が別の仕事に替わったりして、師に付いていたのは出会ってから2年間ほどでしかなかったが、私は彼から多くを教わった。その後、年に数回は収穫した野菜を持って師を訪ねていたが、師は2年前に体調を悪くし入院した。入院して間もない頃、見舞いに行ってしばらく話をした。出会った頃の、30年ほど前の懐かしい話で楽しかった。しかし、その後2度と会うことなく師は他界した。合掌。感謝。
記:2018.6.14 島乃ガジ丸
テレビを観ていた頃だからもう7年近くも前となるが、「最近の子供は創造する力が弱くなった。私が子供の頃は自分たちで工夫して遊びを作ったものだ。最近の子供達は与えられたテレビゲームに夢中になっている」といった内容のことを聞いたことがある。
「そんなこと言ったら、あんたが子供の頃に読んだ絵本も漫画も、観ていたテレビアニメも特撮物も与えられた物じゃないか」とその時の私は思った。
与えられた物といっても、絵本にしろ漫画にしろ、テレビアニメにしろテレビゲームにしろ、それらの概ねは子供にとって成長するに必要なものだと私は思う。私だって子供の頃はマンガ大好きアニメ大好き少年だった。しかし、大人にはどうか?
例えばテレビ、テレビという娯楽は人間にとって必要なものなのだろうか?と考えてみる。私の家にテレビは無い、テレビを観なくなってもう何年にもなるが、テレビを観なくても私は何も困らない。大人にとってテレビは無くてもよい物と思う。テレビに限らず、そもそも娯楽は人間にとって必要なものか?ということもついでに考えてみた。
じつは最近(1年ほど前)まで、「娯楽の多くは庶民の不満を和らげるための支配者による餌ではないか」と私は思っていた。もちろん、全ての人にとってそうであるというわけでもなく、全ての娯楽がそうであるというわけでもない。「あんなこんなの楽しみを与えてやるから、一所懸命働いて、お国のために税金を納めろ」というような餌ではないかと思っていた。国によるそんな陰謀があるかもしれないと思っていた。
しかし、よーく考えてみると、その考えは正確ではないと気付いた。たとえそんな陰謀があったとしても、ほぼ全てといっても良い多くの人にとって娯楽は必要であろう。多くの人にはストレスがある。ストレスがあるから娯楽が必要なのだと考え直した。
「人生は重き荷を負うて」(徳川家康の言)生きている以上、大きなストレスが人に圧し掛かる。そのストレスを我慢ばかりしていたら楽しくない。楽しくないどころか、精神的に大きな負担となり、それが不満となり、人生が不幸となってしまう。
不幸を感じてばかりいると、精神的に病んで元気がなくなるかもしれない。あるいは、自暴自棄になって犯罪を犯すかもしれない。元気のない人が多くいて、犯罪も多く発生する社会は楽しくない。楽しい社会を作るためにも娯楽は必要なのであろう。
私は、新居に越してからもテレビを置いていない。よって、テレビはまったく観ていない。テレビは私に必要か?と問えば、「無くて良い」となる。情報はラジオからで十分だし、テレビは私にとってストレス解消のための娯楽にはならないと思う。
そもそも私には、腰痛を患う前まではストレスをほとんど感じていなかった。手足を思いっきり伸ばし好き勝手に生きて、やりたいことをやり、言いたいことを言ってきた。そんな人間にストレスなどあろうはずがない。しかもその上、「やりたいことをやり、言いたいことを言う」ことそのものが私にとって娯楽になっていたと思う。自給自足芋生活を目指して畑仕事をしていた頃、私は楽しかった。愉快な気分を多く味わった。
娯楽は必要だと思う。愉快な気分になることは生きる上で必要なことだと思う。愉快な気分でいる人が多い社会はきっと、平和で楽しい社会になるのだと思う。
記:2018.3.9 島乃ガジ丸