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科学と文芸を融合した仮説作品「風雅のブリキ缶」姉妹篇。街で撮った写真と俳句の取り合わせ。やさしい作品サンプルも追加。

巨人力士・釈迦ヶ嶽雲右衛門の等身碑(富岡八幡)

2007年03月03日 18時12分54秒 | 「ハイク缶」 with Photo
 力士碑がたくさん立っている。なんでも、富岡八幡は、江戸勧進相撲の発祥の地としても知られ、しばしば境内で本場所も開催されたという。特に、明治維新以降、幕府や大名家の加護を失った相撲界が、神道色を鮮明にすることで生き残りを図ったためもあり、結びつきが強まったらしい。現在も新横綱誕生のおりの奉納土俵入りなどの式典が執り行われるほか、相撲にまつわる数々の石碑が建つのだという。中央の「大関力士碑」は、九代目市川団十郎と五代目尾上菊五郎が明治年間に寄進した仙台石を使っているのだとか。
 碑の中に、7尺5寸(226cm余)あった釈迦ヶ嶽なる雷電為五郎の弟子にあたる力士の等身大碑もあった。横に立ってみると、慥かに高い。小生180cm也。
 HP「大関伝」に見つけた大関・釈迦ヶ嶽雲右衛門の話――釋迦ヶ嶽は島根県安来市に寛延 2年(1749)に生まれた。本名は天野久富。父は182cm、母は176cmという大型の家系に生まれ、 5、6歳の頃から急速に大きくなり、10歳のとき大病にかかって半年ほど寝込んで全快してみると、着物の着丈が30cm余も短くなっていたという。14歳ですでに195cm。力士になってから、下駄を贈られたことがあったが、釈迦ヶ嶽自身には小さくて合わなかった。世間で言う俎のようなものだったが、履けない釈迦ヶ嶽は、これを妹にやると言ったそうだ(「甲子夜話三編」)。
 出雲は神代以来の相撲の国であり、この怪童は当然スカウトされて、雲州抱えの雷電為五郎の養子という形で弟子入りした。背はまだまだ伸び、19歳で 218cm。はじめ大坂相撲の看板大関として初土俵を踏み、この時の四股名は大鳥井(または大鳥居)。半年後の明和 7年(1770)11月の江戸番附に突如として大鳥井改め「釋迦嶽雲右衛門」の名が現れたのである。看板大関としての登場だったのだが、また稀代の巨人であり、実力にも圧倒的なものがあったために一躍脚光を浴びた。大坂は安永元年 8月限りで、「今年切にて再び不来」(「摂陽奇観」)、その千秋楽に波戸ヶ崎(大坂で大関、安永 2年 3月江戸で関脇)と取って勝っている。前日までは土俵入りのみだったそうだ。後の強豪巨人としてのイメージからすれば意外とも言える。その身長は21歳で 220cmを超える。 6勝1敗1預という成績である。その後 4場所を務めたが、「相撲はさのみ上手ならざれども勝れたる大兵にて」(賤のをた巻)というように、その人気はやはり度外れた巨躯にあった。風貌は「元来病人のようであり、平生顔色悪く、目の中が澱んで鳩の目のようであった」という。安永 4年(1775) 2月15日没。過去帳には 226cm 172kgとなっている。釈迦にゆかりの涅槃会の当日だというので話題となった。
 なにしろ巨大で、「むかしばなし」には、普通の家では背を伸ばしていられないため、御殿に入って心安く伸びをしたというし、「賤のをた巻」には、人が群集しているのでさては酔っ払いか狂人かはたまた喧嘩かと見れば、そこには一人だけ腰から上が見えるので、なるほど馬上の人なのねと思ったが、さてさて雲州屋敷の前で群衆が散ってみれば、果たして釈迦ヶ嶽が立っていて、ここで初めて肝を潰した、とある。ところが、その大きさのため、外を歩くたびに人々に囲まれるため、「都下は住がたし。一日も早く帰国したし」と言って泣いていたらしい(「甲子夜話」)。

 見世物と恥ずかしがる力士の春  頓休
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