折々の記

日常生活の中でのさりげない出来事、情景などを写真と五・七・五ないしは五・七・五・七・七で綴るブログ。

40年ぶり、懐かしい!!②

2006-11-17 | 友達・仲間
40年ぶりに思い出の地を訪ねる

その2  金沢文庫編  40年前にお世話になった下宿先を訪ねる


金沢文庫には、大学時代の4年間お世話になった下宿先である「太寧寺」がある。

今回の旅の第1の目的が、母校・横浜市大のキャンパスを訪ねることにあるとすれば、下宿先である太寧寺訪問は、まさしく第2の目的である。

金沢文庫駅で下車して、駅舎の中が様変わりしているのに先ずびっくりし、改札を出て、『すずらん通り』のアーケードが無くなっているのに、二度びっくりした。

駅前から国道16号線に出て、すぐに左に曲がると何と40年前の「魚屋」がまだそのままあるではないか。三度目のびっくりであった。

そのまま、京浜急行線と国道16号線に沿って歩いていく。

「ところで、お寺には今日行くって連絡したの」とH君
「いや、電話番号がわからなかったので、連絡してない」と小生

「いきなり行って、S君がびっくりする顔を見るのもいいか。今日は、奴の出身地浜松の『うなぎパイ』をお土産に買ってきた」

S君と言うのは当時、同じ下宿人で我々よりも2歳年下であった。
彼は、大学の硬式野球部のレギュラーであったが、ある時Hが硬球を是非打って見たいので、バッティング・ピッチャーをやってもらえないかと頼むと、快く引き受けてくれるような素直な性格の好青年であった。

我々と一緒に下宿していた当時から、住職夫妻に大変気にいられ、可愛がられていたのは知っていたが、その彼が大学卒業後、まさかお寺の婿養子に入るとは想像もできず、随分と思い切ったことをするものだと、少なからずびっくりしたことを今でもよく覚えている。

そんなことで、とりわけH君にとっては、S君との再会への思い入れは深いものがあるに違いない。

16号線を歩くこと約1キロ、その間、当時お寺に下宿していた同居人の理学部のF君、商学部で野球部のキャプテンだったY君たちとの思いで話で盛り上がっているうちに、太寧寺の入り口まで来てしまった。

当時は、線路を横断して通っていたが、今は、地下歩道になっている。その地下歩道を潜り抜け、細い坂道を登る。

当時は、右手に山が迫り、建物が建つような場所ではなかったが、今はすっかり開発され、住宅が建ち並び、昔日の面影はない。

そんな様変わりの光景を見て、感慨を新たにする。
坂道の突き当たりに太寧寺がある。

お寺は、古色蒼然とした佇まいをたたえてそこにあった。
懐かしさで、胸がいっぱいになる。

早速、玄関でお訪いを入れる。
応接に出てきた人が、全く見知らぬ人だったので、一瞬「あれ」と思いながらも、訪問の主旨を話す。

「ああ、あの方たちなら、引っ越しましたよ。もう7,8年前になりますかね。今は、私が住職としてこの寺に勤めています」と切り口上で言われてしまった。
「どちらの方に越されたか、わかりますか」
「千葉の方と聞いたけど、詳しくは知りません。40年前に下宿していたということだけど、本来そんなことをしてはいけないことになってるんですよね。お陰で、私がここに来た時は、ひどい有様で、これでも随分と手入れして、少しはよくなったんですよ」

40年ぶりに尋ねて来た人に言う言葉か、とH君と顔を見合わせる。
言葉の端々に相当の「確執」があったことを伺わせるものが感じられ、早々に退散することにした。帰り際にお寺の本堂に目をやった。
我々が学生時代に使っていた部屋は取り払われ、痕跡を止めていなかった。寂しさが、グッと込み上げてきた。

40年ぶりに「旧交」を温められると期待に胸を弾ませて来ただけに、「ガックリ」と落ち込んだ。

「S君が婿養子になったと聞いた時、大丈夫かなとちょっと心配だったんだが、やはりと言うか・・・・・。千葉でどんな暮らしをしているのか、君のブログで情報が集まると言いのだが」とH

「勿論、ブログには顛末を書いて見るけど、僕のブログを見てくれる人はせいぜい30人前後だから、余り期待はできないよ」

あの往路での乗り乗りの気分はどこへやら、帰路は口数も少なく、足取りも重い。金沢文庫駅までの道のりの何と遠く感じられたことか。

かくして、40年ぶりに懐かしの地を訪ねる旅は、唐突に「ジ・エンド」を余儀なくされたような、「不完全燃焼」の気分のまま終ったのであった。






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