え~、この記事を昨日ご覧になった方も
おられるかと思いますが
昨日の地震騒動のことを
ぜひとも書いておかなくてはと反省し
日付をゴニョゴニュいじくって
その記事を掲載しました。
そのあとで本日新たにこれを
掲載しなおすことにしました。
中身は昨日と変わっていないので
読まれた方は、今日はお休みください
今日も介護と仕事の合間を縫って、
オジチャリで市内探索をしました。
え、聞きなれない名前だって?
そう、「ママチャリ」という名は
やはりdoironが駆るブラリ号にはふさわしくないので、
今回から友人のアドバイスと
ミセスのひやかしを参考に
「オジチャリ」
ということにしたのです。
そこで、今後は「ブラリ、オジチャリ」
というタイトルで掲載いたします。
さて、そんなオジチャリの旅も
4話目となりました。
これからもあちこちに出没することになりましょうが、
まずは自分の住んでいる地域を
もう少し押さえておこうと、
今日は市内のあちこちをめぐることにしました。
それに先立ち、図書館に行って
市史や郷土資料を読みあさり、
散策箇所をいくつかピックアップしてみました。
この時期の図書館はいいですね。
空調もしっかりしているし、
静かで落ち着いているから、
仕事の調べものでも多用しております。
隣の和泉市の図書館も利用できるので、
なかなか快適で便利な世の中になったものです。
(前からやろっ)
ただ、夏休みに入って
子ども達が多く出入りする時なんかは、
騒がしくてあきませんがね。
そんな図書館の資料を基に、
オジチャリでぐるっと回れるコースを設定し、
炎天下にギコッと漕ぎ出したdoironでありました。
まず最初に向かったのが、
松之浜にあるといわれている道標です。
市内には石でできた道しるべ、
すなわち道標が7基現存するといわれています。
精密な地図がなかった昔、
道標は旅人にとってとても大切なものだったでしょう。
道標にまつわっていろんな人々の思いも
交錯もしたんじゃないかと思います。
そう考えれば、道標はいわゆる
パワーストーンの一種なんですね。
その市内7基のうち、doironがこれまで確認したのは、
今年の4月12日のブログに書いたように、
助松の紀州街道沿いにあるこの道標のみなんです。
そこで今回は未知の道標をめぐりながら、
その途中途中の景色や遺物を拾い集めていくことにしました。
松之浜の道標は、
駅の一本西側の筋を
南進したところにありました。
ところで、この「松之浜」の地名の表記なんですが
駅の名前が「松ノ浜」であるし
資料によっては「松の浜」とも書かれています。
時代によって変遷したのかもしれません。
ここでは地名の表記である「松之浜」を用いることにします。
その松之浜の道標は、
昨年の地蔵盆でお世話になった果物屋さんの先にあり、
よもやこんなところにあったとは
当時は思いもよらなかったです。
それはこんな感じで、
電柱の陰にちょこんと据えられていました。
そこに書かれてあるのは、
南面に「右 信ノ田の森 葛葉大明神」の文字。
肝心の面が電柱の陰で読みにくい。
でも、向きを変えるとおかしくなるという
意識が働いたんでしょうね。
仕方がありません。
そして、これも今年の1月22日に
このブログに綴った「葛葉稲荷」への道を
標しているんですね。
それにしては、少し位置関係が
ずれているような気がしないでもない
と思っていたら、郷土資料には
多分もう少し北の助松のどこかに
据えられていたのかもしれない
と書かれてありました。
それで納得です。
東面には、この道標を寄進した、
貝塚の「嘉祥寺屋岩蔵」という人の名前が刻まれていました。
その人は明治の初め頃に
貝塚で櫛の製造に関わっていた人であることがわかっていて、
その櫛の商売の繁盛を祈って
商売の神様と言われている
「葛葉大明神」と刻んだ道標を寄進したんだろうと、
世間ではもっぱらのうわさなんです。
(どんな世間や)
そしてdoironが次に行ったのが、
その昔トレーニングでよく走っていた
臨海線の歩道のそばにある
「破魔地蔵」
この臨界歩道、今は海まで遠くの位置にありますが
埋め立てられる前のずっと昔はきっと波打ち際に近かったのでしょう。
松之浜の地名がまさしくそれを物語っています。
そんな「浜」近くにあるから
「破魔」すなわち魔を破る地蔵として
建立されたのでしょう。
走りながら横目でちらっと見ていた地蔵と
いよいよ正面からの御対面です。
それは松之浜2号公園と名付けられた公園にあります。
公園とは名ばかりで、
わずかな空き地にわずかな遊具と倉庫を置いただけのところに
デーンと煉瓦造りの立派な地蔵堂が建てられてありました。
どれどれと、中をのぞいてみると、
そこには、驚くべき意外なお地蔵様が
祀られてありました。
ブラリ、オジチャリ5に続きます。