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流布本も読んでみる。(その85)─「日本国の帝位は伊勢天照太神・八幡大菩薩の御計ひと申ながら」

2023-08-03 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
慈光寺本では、土御門院の配流は、

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 十月十日、中院〔ちうゐん〕ヲバ土佐国畑〔はた〕ト云所ヘ流マイラス。御車寄〔くるまよせ〕ニハ大納言定通卿、御供ニハ女房四人、殿上人ニハ少将雅俊・侍従俊平ゾ参リ給ケル。心モ詞モ及バザリシ事ドモナリ。此〔この〕君ノ御末ノ様見奉ルニ、天照大神・正八幡モイカニイタハシク見奉給ケン。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e871bad8ab958a721d2f4cce5366a8ac

とあるだけで(岩波新大系、p356)、正しくは「閏十月十日」ですから冒頭から間違っており、続く順徳院配流の記事とのつながりも変で、慈光寺本の「やっつけ仕事」感が漂う場面です。

流布本も読んでみる。(その76)─「たらちめの絶やらで待露の身を風より先に争でとはまし」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/03bf8eb523d768be818a3ba46e9fed48

さて、『六代勝事記』には土御門院の遷幸について、

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【前略】閏十月十日、中院〔土御門〕を土佐国へ移し奉て、後には阿波はの国へ渡し奉れり。けふ/\とは聞えしかども、冬のはじめまで御幸なければ、さりともと思ひあへりしほどに、かく御渡あれば、今更になる式にや。女房四人、少将雅具・侍従俊平、おの/\旅ごろもなど営むより、承明門院の御心あるにもあらず。仙洞は唯初時雨のふるさとのみかきくもりたれば、明くるを告ぐる鳥の音に、土御門の大納言〔定通〕御車寄せて、君も臣も泣くより外の事なし。末より御輿にめしかへて、御覧じ行道すがら、須磨・明石の関、尾上の鐘、よその夕ぐれ、鹿の音、虫の声も弱りはて、峯のこずゑ野辺の草の霜枯れぬれど、御袖はひとり秋の露を残して、室と云とまりに入せ給ふ。さては隠岐国へも過ぎさせ給ひしあとなれば、仙院懐土の御心のうちまで思ひ知り給へり。御船に召して漕ぎ行跡の白波、嶋々浦々のみどりを吹乱る木のはの風のくれなゐも、御袖の時雨よりやとあやしくて、日数も経ぬれば、屋島・松山などのゝしりあひたる事も、安徳天皇のためしさへ、けふはうらやましく、崇徳院のながれにし御名も、身の上と心憂く思召さる。御舟よりおりて、行路をかへり見させたまへば、藻塩の煙りは東へなびき、いさり火の炎は、胸より燃ゆるかと思召しあへぬまで、おりの声もせぬ深き山の雪をしのぎてぞおちつかせ給ひける。【後略】
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とあって(『群書類従』帝王部、私意で句読点・漢字)、流布本とよく似ています。
というか、流布本が先行する『六代勝事記』を大幅に参照・引用しているのは明らかであって、「御袖はひとり秋の露を残して」などという表現は偶然の一致のはずがないですね。
さて、続きです。
いよいよ上下全巻の最終場面、承久の乱全体の総括です。(『新訂承久記』、p146)

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 承久三年、如何なる年なれば、三院・二宮、遠島へ趣〔おもむか〕せまし/\、公卿・官軍、死罪・流刑に逢ぬらん。本朝如何なる所なれば、恩を知臣もなく、恥を思ふ兵〔つはもの〕も無るらん。日本国の帝位は伊勢天照太神・八幡大菩薩の御計〔はから〕ひと申ながら、賢王逆臣を用ひても難保、賢臣悪王に仕へても治しがたし。一人怒時は罪なき者をも罰し給ふ。一人喜時は忠なき者をも賞し給にや。されば、天是にくみし不給。四海に宣旨を被下、諸国へ勅使を遣はせ共、随奉る者もなし。かゝりしかば関東の大勢、時房・泰時・(朝時)・義村・信光・長清等を大将として、数万の軍兵、東海道・東山道・北陸道三の道より責上りければ、靡かぬ草木も無りけり。
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【私訳】承久三年がいったい如何なる年なので、後鳥羽・土御門の三院、六条・冷泉の二宮が遠島へ行かれ、公卿や官軍の武士が死罪・流刑の目にあったのだろうか。
いったい、本朝が如何なる場所なので、恩を知る臣下もおらず、恥を思ふ兵士もいないのだろうか。
日本国の帝位は伊勢天照太神・八幡大菩薩のお決めになることと申すものの、賢王が逆臣を用いたのなら国を保ち難いし、賢臣が悪王に仕えても治め難い。
思えば後鳥羽院は怒りに駆られれば罪のない者も処罰された。
一事の感情で忠のない者にも勧賞を与えた。
それ故、天は後鳥羽院の味方をすることなく、四海に宣旨を下されようと、諸国へ勅使を派遣されようと、従い申し上げる者もなかった。
そのような事情だったので、関東の大軍が、北条時房・泰時・(朝時)、三浦義村・武田信光・小笠原長清等を大将として、数万の軍兵を擁して、東海道・東山道・北陸道の三つの道より攻め上がったならば、これに靡かない草木もなかったのだ。

ということで、後鳥羽院は「天」に見捨てられた存在だった、というのが流布本作者の総括ですね。
この結語については今まで何度か論じましたが、『六代勝事記』と『吾妻鏡』に類似した表現があることは未検討のままでした。
この点を次の投稿で少し書いてみます。

慈光寺本は本当に「最古態本」なのか。(その3)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/da774d684b1b10a3a5402115adb045b1
慈光寺本と流布本における後鳥羽院への非難の度合
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/22dce396bbb288867bb1c692c425ea59
流布本の作者について(その1)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/93233b1dcf18f7be733b1bf66fc91c33
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