投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年11月 5日(木)12時45分29秒
今まで十回の投稿を通じて『難太平記』の足利尊氏「降参」という表現を検討してきましたが、ここで整理しておきます。
そもそも「降参」の通常の意味は「戦いに負けて服従すること」であって、これは中世でも同じですね。
『デジタル大辞泉』
そして、『太平記』西源院本に即して尊氏の倒幕の決意、入洛までの経緯、後醍醐との連絡、名越高家討死後の行動を概観してみましたが、そこには「戦いに負けて服従する」といった要素は全くありませんでした。
そこで、西源院本での「降参」と類義語の「降人」の用例を検討してみたところ、四月二十七日の名越高家討死と五月七日の六波羅陥落をメルクマールとして、次のように分類できそうです。
まず、名越高家討死前の時点で幕府を裏切った場合、勝敗の行方は全く分からない段階ですから、この時点ではおよそ「降参」はありえず、西源院本でもその用例はありません。
他方、五月七日の六波羅陥落後は、関東の動静はともかくとして、畿内では勝負が決着済みで(「京洛すでに静まりぬ」)、これ以降、討死も自害もせずに幕府を裏切った者たちは「戦いに負けて服従」した「降人」であり、その行為は文字通りの「降参」ですね。
金剛山の寄手の中で、六波羅陥落後に「綸旨を給はつて上洛」した「宇都宮紀清両党七百余騎」も「降参」に含まれています。
(その9)
微妙なのは四月二十七日の名越高家討死と五月七日の六波羅陥落の間に幕府を裏切った者であって、佐介宣俊(流布本では「貞俊」)の処分に関する長大な記事が、後醍醐側にとってもその処遇が難しかったであろうことを示唆しています。
まあ、大手の大将・名越高家が西に向かった初日に久我縄手で討死してしまうというのは幕府側はもちろん、後醍醐側にとっても吃驚仰天の事態だったでしょうが、とにかくこれで情勢は一気に流動化します。
この後、後醍醐側にすり寄った者に対しては、勝敗が完全に決着していない以上、新たな戦力として歓迎する反面、今まで日和見を決め込んでいたくせに、潮目が変わったとたんに立場を豹変させた調子の良い連中、という軽蔑もあったはずです。
その処遇は、おそらく個別の事情に即して決められたものと想像されますが、基本的に命まで奪われることはなく、幕府との戦闘で活躍したならばそれなりに優遇されることもあったかもしれません。
しかし、佐介宣俊のように後醍醐側近の千種忠顕から味方になれとの綸旨をもらい、その綸旨に従って後醍醐側に転じた者であっても、「五月の初め」の時点では、それは「千剣破より降参」と評価される訳ですから、四月二十七日以降に幕府を裏切った者は、西源院本の作者にとって「降参」に分類されるのでしょうね。
宣俊はいったんは自由の身になったようですが、その後、阿波に流罪、そして処刑となっており、これは「平氏の門葉」であったことが決定的な要因と思われます。
(その10)
さて、以上の検討を踏まえると、今川了俊が見たという『太平記』にも尊氏が「降参」したという表現があったとは考えにくく、これは関連記事を通読した了俊の解釈だろうと思われます。
とすると、了俊にとって、当該記事のどこが気に入らなかったのか、が次の問題となります。
この問題を検討するためには、『難太平記』から了俊にとって望ましかったであろう『太平記』像を推測するとともに、いったん『難太平記』を離れて、他の歴史叙述において尊氏の行動がどのように描かれていたかを比較参照する必要がありそうです。
便宜上、後者から検討しますが、尊氏が討幕に転じる時期の歴史の流れを大きく描いているのは『太平記』と『梅松論』だけなので、『梅松論』と比較した上で、了俊にとって「降参」と言いたくなるような『太平記』の記述を特定したいと思います。
予め一応の結論を示しておくと、『梅松論』では名越高家討死はその事実が簡単に記されるだけで、赤松配下の佐用範家の大活躍など全く無視されています。
ここが『梅松論』と『太平記』との一番の違いであり、了俊は『太平記』の赤松関係記事が面白くなくて、それ以外の癪に障る記述を含め、こんな書き方ではまるで尊氏が「降参」したように思われてしまうではないか、と怒ったのではないかと私は想像しています。
(その5)
※追記
この後、更に若干の考察を加えた結果、直接的には新田義貞奏状の影響が強いのではないかと考えています。
新田義貞奏状に基づく「降参」再考〔2021-07-24〕
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