学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学の中間領域を研究。

「慈光寺本妄信歴史研究者交名」(その72)─「たとえ多くの恩賞を受けずとも、この相論に関しては承服できません」(by 芝田兼義)

2023-12-05 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
幕府側で参戦した人々は、いったい何のために戦ったのか。
考え方としては、参戦者の幕府における地位を区分し、類型的に検討する方が良さそうです。
例えば、

(1)最前線で戦う一般御家人
(2)大将軍から戦場での采配を任された指揮官クラス
(3)大将軍
(4)幕府中枢

と四段階に区分した場合、(1)の最前線で戦う一般御家人には、長村祥知氏が言われるように「所領獲得の論理」で動いている人もけっこういると思います。
よっしゃ、千載一遇のチャンスだ、ここで頑張って実入りの良い荘園の地頭になるぞ、という人々ですね。
市河六郎宛ての承久三年六月六日「北条義時袖判御教書」は、義時も一般御家人が「所領獲得の論理」で動くだろうと考えていることを示しています。
ただ、先に紹介したように、流布本で北条泰時が宇治橋での戦闘を止めさせた場面では、長村氏の言われる「所領獲得の論理」が、「軍功を挙げんと逸る武士の思考」としてではなく、逆に戦闘行為を止めさせようとする大将軍側の論理として登場しています。
宇治橋合戦の発端の場面では、参戦者は北条泰時の代理人である平盛綱から、お前たちは「所領獲得の論理」で戦うべきなのに何をやっているのか、冷静になれ、と諭されて、やっと、そういえばそうだった、冷静になろうと反省した訳ですね。

「慈光寺本妄信歴史研究者交名」(その69)─「私的利益を追求する個の集合体」(by 長村祥知氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/37a21c707e7a3abf2257dc87644d73ae

では、この場面で参戦者を突き動かしていたのはいったい如何なる「論理」ないし感情だったのか。
私は、生死を懸けた極限状況で武士を突き動かすのは、経済的利益よりもむしろ名誉感情なのではないかと思います。
あいつは凄い奴だ、立派な武士だ、と思われたいという感情ですね。
名誉感情を経済的利益に優先した典型としては、宇治川先陣を佐々木信綱と争った芝田兼義の例を挙げることができます。
『吾妻鏡』承久三年六月十七日条には、

-------
於六波羅。勇士等勲功事。糺明其浅深。而渡河之先登事。信綱与兼義相論之。於両国司前及対決。信綱申云。謂先登詮者入敵陣之時事。打入馬於河之時。芝田雖聊先立。乗馬中矢。着岸之尅。不見来云々。兼義云。佐々木越河事。偏依兼義引導也。景迹為不知案内。争進先登乎者。難决之間。尋春日刑部三郎貞幸。々々以起請述事由。其状云。
【中略】
武州一見此状之後。猶問傍人之処。所報又以符合之間。招兼義誘云。諍論不可然。只以貞幸等口状之融。欲註進関東。然者。於賞者定可為如所存歟者。兼義云。雖不預縱万賞。至此論者。不可承伏云々。

http://adumakagami.web.fc2.com/aduma25-06.htm

とあり、渡河の先陣について佐々木信綱と芝田兼義が相論し、「両国司」(北条時房・泰時)の前で対決します。
泰時は二人の言い分を聞いた後、春日貞幸に証言を求めます。
そして、

-------
武州(北条泰時)はこの文書を一見した後、さらに側にいた者に尋ねたところ、答えもまた一致していたので、兼義を呼んで勧めて言った。「言い争うのは良くない。ただ貞幸らが申した通りに関東へ注進しようと思っているので、勲功の恩賞については、きっと思い通りになるだろう」。兼義が言った。「たとえ多くの恩賞を受けずとも、この相論に関しては承服できません」。
-------

とのことで(『現代語訳吾妻鏡8 承久の乱』、p123)、先陣争いについては兼義の言い分は認めないが、勲功の恩賞はたっぷり上げるので我慢しろ、と泰時は提案しますが、兼義はこれを断固拒否します。
兼義が何故に「所領獲得の論理」で動かないかというと、それは宇治川先陣は自分なのだ、という名誉感情が優先されているからですね。
この後、芝田兼義は『吾妻鏡』から姿を消し、他の史料からも兼義が承久の乱後にどのような生涯を送ったのかは不明ですが、多大な恩賞を受けていれば所領関係の史料も多少は残ったでしょうから、まあ、意地を貫いた結果、恩賞もたいして得られなかったようですね。
さて、流布本には、一般御家人が参戦した理由について、もう一つ興味深いエピソードがあります。
それは、京都守護・伊賀光季が討たれた後、後鳥羽院が、関東では義時と一緒に死ぬ覚悟のある人間はどれくらいいるのか、と尋ねた場面です。(『新訂承久記』、p69以下)

-------
 抑一院尋ね被下けるは、「当時関東に、義時と一所にて可死者は何程かある」。胤義申けるは、「朝敵となり候ては、誰かは一人も相随可候。推量仕候に、千人計には過候はじ」と申ければ、兒玉の庄四郎兵衛尉、「あはれ判官殿は、僻事を被申候物哉。只千人しも可候歟。平家追討以来、権大夫の重恩を蒙り、如何なる事も有ば、奉公を仕ばやと思者社多候へ。只千人候べきか。如何に少しと申共、万人には、よも劣り候はじ。角申す家定程の者も、関東にだに候はゞ、義時が方に社候はんずれ」と申ければ、一院真に御気色悪げなる体にて、奇怪に申者哉と被思召ける。後にぞ能申たりけると被思召合ける。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c74e61eb721e04c0363e74362b47319e

後鳥羽院が「関東で義時と一所に死ぬ覚悟がある武士は何人くらいいるのか」と下問すると、三浦胤義は「朝敵となった以上、味方をする者は千人に満たないでしょう」と答えます。
これを聞いた「兒玉の庄四郎兵衛尉(家定)」は、「そんなに少ないはずがない、源平合戦以来、義時(権大夫)の恩顧を蒙り、何事があろうと義時のために奉公すると決意している者は大勢いる、千人どころか、どんなに少なくとも万人はいるだろう、自分だって関東にいれば義時のために戦う」と反論したので、後鳥羽院の機嫌は悪くなったが、敗北後、あの者はよくぞ申したなと感心した、ということですが、このエピソードは一般御家人の義時への感情を反映しているのか。
この点、次の投稿で検討したいと思います。
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