学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学の中間領域を研究。

宥勝寺の「荘小太郎頼家供養塔」と「廣松渉之墓」

2023-12-08 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
私の陰気な趣味のひとつに掃苔、といっても中世人の墓参りがあるのですが、今年の二月、「笑う埴輪」の展示で有名な「本庄早稲田の杜ミュージアム」に行ったとき、そういえば近くの宥勝寺に児玉党の「荘小太郎頼家供養塔」があったなと思って寄ってみました。

「本庄早稲田の杜ミュージアム」
https://www.hwmm.jp/
「荘小太郎頼家供養塔」(『四季・めぐりめぐりて』ブログ内)
https://blog.goo.ne.jp/ihcirot/e/baa46949282171fb870a79c2260ed8a0

この供養塔の前に置かれた説明板には、

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  荘小太郎頼家の墓
         所在地 本庄市栗崎一五五
 荘小太郎頼家は、児玉党の祖遠峰惟行より五代宗家を継ぎ、平家物語によると一ノ谷の合戦(一一八四)で源氏に従い平重衡を生捕った家長の嗣子である。
 家長は軍功を立てたが、頼家は戦死してしまった。夫人妙清禅尼は、夫の冥福を祈るため建仁二年(一二〇二)宥勝寺を建立したと伝えられる。墓は五輪塔で、本堂西北の墓地内にある。
 児玉郡内に多く分布する児玉党支族の真下、四方田、蛭川、今井、富田その他の各氏等は九郷用水水系に住んでいたという。
 また、荘小太郎頼家の墓は、昭和三十八年県指定の文化財となっている。
         昭和六十一年三月
                 埼玉県
                 本庄市
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とありましたが、雉岡論文の末尾の「児玉党略系図と三人の「庄四郎」」を見ると、「(庄太郎)家長」の父「(庄権守)弘高」と「(庄四郎)家定(左兵衛尉)」の父「庄三郎忠家」が兄弟で、家長と家定は従兄弟の関係ですね。


ま、訪問時にはそこまでの知識もなく、また、供養塔はずいぶん小さくて造形的にも平凡なものに思えたので、無駄足だったなと思って帰りかけたところ、近くに「廣松渉之墓」とだけ書かれて戒名も何もなく、周囲から浮いた感じの墓があることに気づきました。
廣松渉は「新左翼」(という言葉も古語?)の哲学者で、そんな人の墓が埼玉の田舎の真言宗智山派の寺にあるというのも妙な感じなので、同姓同名なのだろうか、と思いましたが、墓石の裏に回ってみると、没年も哲学者の廣松に近いような感じがして、不可解な思いを抱きつつ帰宅しました。
そして、自宅に戻ってあれこれ検索してみたところ、宥勝寺の住職が東大哲学科卒で、廣松と同世代であり、廣松と共著も出していることが分かりました。

廣松渉(1933-94)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%A3%E6%9D%BE%E6%B8%89

最近、宥勝寺のサイトを見たら、「宥勝寺だより」の最新版、「2023秋彼岸号.pdf」に廣松渉のことが出ていました。

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 今年は特別に暑い夏で、聞けば十月まで平年より暑い陽気が続くそうで、秋彼岸になっても暑いままなのかと思うと少々げんなりする今日この頃ですが、皆様いかがお過ごしでしょうか。
 さて当山宥勝寺は児玉党旗頭、庄小太郎頼家の墓所として開山したことはご存知かと思いますが、ここで一つ当山に墓所がある、とある有名人についてお話をさせて頂こうと思います。
 日本の代表的な哲学者であり、東京大学名誉教授の廣松渉先生。西洋哲学の碩学であり、日本の現代思想の旗手として没後三十年を経ても、その高い評価とともに、多くの著名人に影響を与えた人物です。
 廣松先生は当山住職と東京大学文学部哲学科在学中の学友でございまして、先生は西洋哲学、そして当山住職は印度哲学と分野は違いますが、卒業後も縁があり、昭和五十四年には仏教と西洋哲学という枠組みでの対談本『仏教と事的世界観』を共著で出版しております。
 その後長らくお付き合いが続きましたが、残念なことに平成六年に行年六十一歳にてご逝去されてしまい、生前のご縁から当山に墓地を取り今では新墓地と旧墓地の南端に埋葬されております。
 今年になり生誕九十年を記念して、生前の著作が復刻される流れとなり、住職との対談本も復刊される運びとなりまして、八月十五日に作品社より出版されました。右QRコードよりアマゾンの購入サイトへアクセスできますので、もし興味のある方は是非お手にとって頂ければ幸甚です。【後略】

https://sites.google.com/view/yushoji

廣松が東大教養学部の助教授だった頃、私は廣松の哲学史の講義を聴講したことがあり、若かりし廣松の颯爽たる姿を記憶しているので、六十一歳で逝去というのはずいぶん早いなあ、などと改めて多少の感懐を覚えました。
自分のブログで「廣松渉」を検索してみたら、東島誠や斎藤幸平の話題の際に何度か名前を挙げていましたね。

樋口陽一と廣松渉
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/cb2d5588014471bf79fe5deb5ef86396
マルクスの青い鳥
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0538ac45b7dc4a14628bb3f552a56496
マルクスの青い鳥(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/528e2c3ee75efff95a402193dc3f04b6
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