流布本では順徳院配流を七月二十二日としていますが、この日付は諸史料によって細かな違いがありますね。
慈光寺本には、
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新院ヲバ、佐渡国ヘ流シ参ラス。廿日ニ国ヘ移〔うつし〕マイラセ給フ。夜中ニ岡崎殿ヘ入セ給フ。御供ニハ女房二人、男ニハ花山院ノ少将宣経・兵衛佐教経ツケリ。少将宣経病〔やまひ〕ニ煩ヒ帰リ給ヘバ、イトゞ露打〔つゆうち〕ハラフベキ人モナシ。【後略】
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e871bad8ab958a721d2f4cce5366a8ac
とあって、七月二十日ですが、『大日本史料 第五編之一』を見ると、『六代勝事記』と『吾妻鏡』も七月二十日としています。
他方、『公卿補任』・『百錬抄』・『愚管抄』は七月二十一日ですね。
『百錬抄』には二十日に「今日新院御幸岡崎亭」、二十一日に「新院遷御佐渡国」とあって、慈光寺本と同じく「岡崎殿」(「岡崎亭」)が出てきます。
野口華世氏の「後鳥羽院をとりまく女性たち」(鈴木彰・樋口州男編『後鳥羽院のすべて』所収、新人物往来社、2009)に、
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【前略】後鳥羽院が、承久の乱に敗れて鳥羽殿にて出家することになった時には、修明門院も一緒に出家した。隠岐に同行こそしなかったが、旅立つ後鳥羽院を七条院とともに見送っている。また子の順徳院とも、自身の岡崎殿で別れを惜しみ、佐渡へ旅立たせている。
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とあるので(p112)、岡崎殿は修明門院御所のようですが、後で確認してみたいと思います。
ところで、慈光寺本は上記記事の直前に、
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十月十日、中院〔ちうゐん〕ヲバ土佐国畑〔はた〕ト云所ヘ流マイラス。御車寄〔くるまよせ〕ニハ大納言定通卿、御供ニハ女房四人、殿上人ニハ少将雅俊・侍従俊平ゾ参リ給ケル。心モ詞モ及バザリシ事ドモナリ。此〔この〕君ノ御末ノ様見奉ルニ、天照大神・正八幡モイカニイタハシク見奉給ケン。
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とあるので、普通に読んでいれば順徳院の配流も十月二十日なのかと思ってしまいますね。
ここはおそらく後から中院(土御門院)の記事を挿入したのでしょうが、その際に周囲の記事との整合性を確認していない訳で、慈光寺本の随所にみられる「やっつけ仕事」の一例ですね。
「新院ヲバ、佐渡国ヘ流シ参ラス。廿日ニ国ヘ移マイラセ給フ」も内容が重複していて、推敲していなさそうな気配が漂う文章です。
ところで『吾妻鏡』七月二十日条には、
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新院遷御佐渡国。花山院少将能氏朝臣。左兵衛佐範経。上北面左衛門大夫康光等供奉。女房二人同参。国母修明門院。中宮一品宮。前帝以下。別離御悲歎。不遑甄録。羽林依病自路次帰京。武衛又受重病。留越後国寺泊浦。凡両院諸臣存没之別。彼是共莫不傷嗟。哀慟甚為之如何。
http://adumakagami.web.fc2.com/aduma25-07.htm
とあり、慈光寺本・流布本・『吾妻鏡』で随行者を比較すると、
慈光寺本:「女房二人」
「男ニハ花山院ノ少将宣経・兵衛佐教経」
(但し宣経は病気のため途中で帰洛)
流布本:「冷泉中将為家朝臣・花山院少将茂氏・甲斐兵衛佐教経」
(但し、為家は同行せず。茂氏は病気のため途中で帰洛。教経は寺泊で病死)
「上北面には藤左衛門大夫安光」
「女房右衛門佐局以下三人」
『吾妻鏡』:「花山院少将能氏朝臣。左兵衛佐範経」
(但し、能氏は病気のため途中で帰洛。範経は重病のため寺泊に留まる)
「上北面左衛門大夫康光」
「女房二人」
となっています。
人名表記に若干の異同はありますが、「花山院少将」が途中で帰洛したことは三つの史料で共通ですね。
慈光寺本は藤原範経が寺泊で重病(流布本によれば病死)となったことを記さず、上北面の名も記さないので、一番雑です。
藤原為家が同行しなかったことを記すなど、流布本が一番詳細であって、『吾妻鏡』は流布本を見た上で若干の簡略化を図っているように思われます。
さて、続きです。(『新訂承久記』、p138以下)
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同廿四日、六条宮但馬国、同廿五日、冷泉宮備前児島へ被移給ふ。
懸〔かか〕る御跡〔あと〕の御嘆共、申も等閑〔なほざり〕也。中にも修明(門)院の御嘆、類〔たぐひ〕少なき御事也。実〔げに〕も一院は隠岐へ被移させ給ぬ。新院、佐渡へ被流させ給ふ。月日の西へ傾ば、隠岐の御所へ御言伝〔ことづて〕せまほ敷〔しく〕思召、初雁が音の音信〔おとづれ〕は、佐渡の御所の御事共問は(ま)ほ敷〔しく〕、人家を照す蛍は御思と共に焦れ、遠山に満たる霧は御嗟〔なげき〕と共に晴やらず。東一条院、先帝御座〔ましませ〕ば佐渡の院の御形見とは思召せ共、慰方も無りけり。七条の女院、老たる御身には何共〔いつとも〕期せぬ都返り、今日や明日やと思召、御嘆の色、日に随ひて増らせ給宛〔つつ〕、思召沈ませ御座〔おはします〕由聞召〔きこしめし〕及びて、隠岐の御所より、
たらちめの絶〔たえ〕やらで待露の身を風より先に争でとはまし
七条院御返事、
中々に萩吹風の絶よかし音信くれば露ぞこぼるゝ
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検討は次の投稿で行います。
慈光寺本には、
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新院ヲバ、佐渡国ヘ流シ参ラス。廿日ニ国ヘ移〔うつし〕マイラセ給フ。夜中ニ岡崎殿ヘ入セ給フ。御供ニハ女房二人、男ニハ花山院ノ少将宣経・兵衛佐教経ツケリ。少将宣経病〔やまひ〕ニ煩ヒ帰リ給ヘバ、イトゞ露打〔つゆうち〕ハラフベキ人モナシ。【後略】
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e871bad8ab958a721d2f4cce5366a8ac
とあって、七月二十日ですが、『大日本史料 第五編之一』を見ると、『六代勝事記』と『吾妻鏡』も七月二十日としています。
他方、『公卿補任』・『百錬抄』・『愚管抄』は七月二十一日ですね。
『百錬抄』には二十日に「今日新院御幸岡崎亭」、二十一日に「新院遷御佐渡国」とあって、慈光寺本と同じく「岡崎殿」(「岡崎亭」)が出てきます。
野口華世氏の「後鳥羽院をとりまく女性たち」(鈴木彰・樋口州男編『後鳥羽院のすべて』所収、新人物往来社、2009)に、
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【前略】後鳥羽院が、承久の乱に敗れて鳥羽殿にて出家することになった時には、修明門院も一緒に出家した。隠岐に同行こそしなかったが、旅立つ後鳥羽院を七条院とともに見送っている。また子の順徳院とも、自身の岡崎殿で別れを惜しみ、佐渡へ旅立たせている。
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とあるので(p112)、岡崎殿は修明門院御所のようですが、後で確認してみたいと思います。
ところで、慈光寺本は上記記事の直前に、
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十月十日、中院〔ちうゐん〕ヲバ土佐国畑〔はた〕ト云所ヘ流マイラス。御車寄〔くるまよせ〕ニハ大納言定通卿、御供ニハ女房四人、殿上人ニハ少将雅俊・侍従俊平ゾ参リ給ケル。心モ詞モ及バザリシ事ドモナリ。此〔この〕君ノ御末ノ様見奉ルニ、天照大神・正八幡モイカニイタハシク見奉給ケン。
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とあるので、普通に読んでいれば順徳院の配流も十月二十日なのかと思ってしまいますね。
ここはおそらく後から中院(土御門院)の記事を挿入したのでしょうが、その際に周囲の記事との整合性を確認していない訳で、慈光寺本の随所にみられる「やっつけ仕事」の一例ですね。
「新院ヲバ、佐渡国ヘ流シ参ラス。廿日ニ国ヘ移マイラセ給フ」も内容が重複していて、推敲していなさそうな気配が漂う文章です。
ところで『吾妻鏡』七月二十日条には、
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新院遷御佐渡国。花山院少将能氏朝臣。左兵衛佐範経。上北面左衛門大夫康光等供奉。女房二人同参。国母修明門院。中宮一品宮。前帝以下。別離御悲歎。不遑甄録。羽林依病自路次帰京。武衛又受重病。留越後国寺泊浦。凡両院諸臣存没之別。彼是共莫不傷嗟。哀慟甚為之如何。
http://adumakagami.web.fc2.com/aduma25-07.htm
とあり、慈光寺本・流布本・『吾妻鏡』で随行者を比較すると、
慈光寺本:「女房二人」
「男ニハ花山院ノ少将宣経・兵衛佐教経」
(但し宣経は病気のため途中で帰洛)
流布本:「冷泉中将為家朝臣・花山院少将茂氏・甲斐兵衛佐教経」
(但し、為家は同行せず。茂氏は病気のため途中で帰洛。教経は寺泊で病死)
「上北面には藤左衛門大夫安光」
「女房右衛門佐局以下三人」
『吾妻鏡』:「花山院少将能氏朝臣。左兵衛佐範経」
(但し、能氏は病気のため途中で帰洛。範経は重病のため寺泊に留まる)
「上北面左衛門大夫康光」
「女房二人」
となっています。
人名表記に若干の異同はありますが、「花山院少将」が途中で帰洛したことは三つの史料で共通ですね。
慈光寺本は藤原範経が寺泊で重病(流布本によれば病死)となったことを記さず、上北面の名も記さないので、一番雑です。
藤原為家が同行しなかったことを記すなど、流布本が一番詳細であって、『吾妻鏡』は流布本を見た上で若干の簡略化を図っているように思われます。
さて、続きです。(『新訂承久記』、p138以下)
-------
同廿四日、六条宮但馬国、同廿五日、冷泉宮備前児島へ被移給ふ。
懸〔かか〕る御跡〔あと〕の御嘆共、申も等閑〔なほざり〕也。中にも修明(門)院の御嘆、類〔たぐひ〕少なき御事也。実〔げに〕も一院は隠岐へ被移させ給ぬ。新院、佐渡へ被流させ給ふ。月日の西へ傾ば、隠岐の御所へ御言伝〔ことづて〕せまほ敷〔しく〕思召、初雁が音の音信〔おとづれ〕は、佐渡の御所の御事共問は(ま)ほ敷〔しく〕、人家を照す蛍は御思と共に焦れ、遠山に満たる霧は御嗟〔なげき〕と共に晴やらず。東一条院、先帝御座〔ましませ〕ば佐渡の院の御形見とは思召せ共、慰方も無りけり。七条の女院、老たる御身には何共〔いつとも〕期せぬ都返り、今日や明日やと思召、御嘆の色、日に随ひて増らせ給宛〔つつ〕、思召沈ませ御座〔おはします〕由聞召〔きこしめし〕及びて、隠岐の御所より、
たらちめの絶〔たえ〕やらで待露の身を風より先に争でとはまし
七条院御返事、
中々に萩吹風の絶よかし音信くれば露ぞこぼるゝ
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検討は次の投稿で行います。
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