投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年11月 6日(金)12時54分17秒
それでは『梅松論』に描かれた尊氏の動向を少し検討して行きます。
『梅松論』の概要についてはウィキペディアなどを参照していただきたいと思います。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A2%85%E6%9D%BE%E8%AB%96
『梅松論』の写本には古本系と流布本系があり、厳密に議論するためには古本系の京大本(京都大学文学部博物館所蔵)を用いる必要がありそうですが、当面の論点に関しては『群書類従』第二十輯(合戦部)に収められている流布本で対応可能と思います。
Akiさんの『芝蘭堂』サイト内に『梅松論』の現代語訳が載せられていて大変参考になりますが、これは流布本に基づいています。
『芝蘭堂』
http://muromachi.movie.coocan.jp/index.html
http://muromachi.movie.coocan.jp/baisyouron/index.html
さて、『梅松論』は『太平記』よりも潤色が少なく、史実をより正確に反映している史料として武家社会の研究者には評価が高いようですが、実際に読んでみると、後嵯峨院崩御の時期や遺勅の内容に甚だしい誤解があるなど、些か奇妙な点も目立ちますね。
例えば、
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爰に後嵯峨院。寛元年中に崩御の刻。遺勅に宣く。一の御子後深草院御即位有べし。おりゐの後は長講堂領百八十ヶ所を御領として御子孫永く在位の望をやめらるべし。次に二の御子亀山院御即位ありて。御治世は累代敢て断絶あるべからず。子細有に依てなりと御遺命あり。
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などとあって、後嵯峨院は文永九年(1272)崩御であるにもかかわらず、「寛元年中」、即ち寛元四年(1246)、四歳の後深草天皇に譲位して院政を始めた直後に死去した、などと壮絶な勘違いをしています。
また、史実としては後嵯峨院は皇位継承者について明確な「遺勅」を残しておらず、「一の御子後深草院」の皇位は一代限りであって、その子孫には長講堂領百八十か所を御領として認めるけれども、在位の望みを持ってはいけない。「二の御子亀山院」の即位後は、その子孫は累代断絶せず皇位を継ぐように、などという後嵯峨の「御遺命」は存在しません。
このように『梅松論』の作者は後嵯峨院について全く無知でありながら、「後嵯峨院の御遺勅」に異常なこだわりを持っていて、伏見院と「伏見院の御子持明院(後伏見院)」の「二代は関東のはからひよこしまなる沙汰」であり、「後伏見院の御弟萩原新院(花園院)」を含め、「如此後嵯峨院の御遺勅相違して。御即位転変せし事。併関東の無道なる沙汰に及びしより。いかでか天命に背かざるべきと遠慮ある人々の耳目を驚かさぬはなかりけり」などと非難します。
http://muromachi.movie.coocan.jp/baisyouron/baisyou06.html
そして、何故に関東がこのような「無道なる沙汰」に及んだかというと、それは伏見院が在位中に関東に密かに告げ口したからだと言います。
即ち、
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亀山院御子孫御在位連続あらば。御治世のいせいを以のゆへに。諸国の武家君を擁護し奉らば。関東遂にあやうからむものなり。其故は承久に後鳥羽院隠岐国に移し奉りし事。安からぬ叡慮なりしを。彼院深思召れて。ややもすれば天気関東を討亡し。治平ならしめむ趣なれども。時節いまだ到来せざるに依て今に到まで安全ならず。一の御子後深草院の御子孫にをいては天下のためにとて。元より関東の安寧を思召候所なりと仰せ下されける程に。依之関東より君をうらみ奉る間。【後略】
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ということで、亀山院は幕府が承久の乱後に後鳥羽院を隠岐に流したことを不愉快に思っていて、内心では関東を滅ぼしたいと願っているが、未だ時節が到来しないので実行には至っていない。しかし、このまま亀山院の子孫が連続して在位すれば、諸国の武家が亀山子孫を擁護し、幕府を危うくするおそれがある。それに比べたら、後深草院の子孫である我々は、天下のため関東の安寧を心から望んでおりますよ、と伏見院が言ったのだそうです。
そして、これを信じた幕府は十年ごとの両統迭立を図ったのだ、というのが『梅松論』作者の理解ですね。
まあ、伏見院が本当にこうしたことを言ったのかは不明ですが、正応三年(1290)の浅原事件などを念頭に置くと、それなりの真実味を持って関東に受け入れられた話かもしれない、という感じはします。
なお、『芝蘭堂』のAkiさんは後鳥羽院の隠岐配流を「深思召れ」た主体を、私のように亀山院とは考えておられないようですね。
http://muromachi.movie.coocan.jp/baisyouron/baisyou07.html
ま、それはともかく、後醍醐即位の際にも、「当今の勅使」の「吉田大納言定房卿」と「持明院の御使」の「日野中納言の二男の卿」が関東で激論を交わして、定房が「後嵯峨院の御遺勅」の正統性を強力に主張したので後醍醐即位となり、これで亀山子孫の連続即位が確定したかと思ったら、
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元徳二年に持明院の御子立坊の義なり。以の外の次第也。凡後醍醐院我神武の以往を聞に。凡下として天下の位を定奉る事をしらず。且は後さがの院の明鏡なる遺勅をやぶり奉る事。天命いかむぞや。たやすく御在位十年を限の打替打替あるべき規矩を定申さむや。しかれば持明院十年御在位の時は御治世と云。長講堂領と云。御満足有べし。当子孫空位の時はいづれの所領をもて有べきや。所詮持明院の御子孫すでに立坊の上は。彼御在位十年の間は長講堂領を以。十年亀山院の御子孫に可被進よし。数ヶ度道理を立て問答に及ぶといへども。是非なく持明院殿の御子光厳院立坊の間。後醍醐院逆鱗にたへずして元弘元年の秋八月廿四日。ひそかに禁裏を御出有て山城国笠置山へ臨幸あり。
http://muromachi.movie.coocan.jp/baisyouron/baisyou08.html
ということで、神武天皇以来、凡下の者が天皇の位を定めるなどといった話は聞いたことがないし、「後さがの院の明鏡なる遺勅」を破ったら「天命」に背くのだ、などと凄い話になっています。
その一方で、持明院統には長講堂領という財産があるのに、亀山子孫には所領はないのだから、持明院統の天皇が在位中の十年間は長講堂領を亀山子孫に管領させろ、みたいなことも言っていますが、亀山子孫に所領がないというのは明らかに事実に反しますし、しかも何だかずいぶんケチ臭い話で、これも奇妙な議論ですね。
結局、元弘元年(1331)八月に後醍醐が笠置山に行ったのは「後さがの院の明鏡なる遺勅」に反して「持明院殿の御子」量仁親王(光厳天皇)が立坊したことに激怒したからだ、という話の展開も、立坊の時期、嘉暦元年(1326)七月と五年も離れているので、これまた奇妙です。
それでは『梅松論』に描かれた尊氏の動向を少し検討して行きます。
『梅松論』の概要についてはウィキペディアなどを参照していただきたいと思います。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A2%85%E6%9D%BE%E8%AB%96
『梅松論』の写本には古本系と流布本系があり、厳密に議論するためには古本系の京大本(京都大学文学部博物館所蔵)を用いる必要がありそうですが、当面の論点に関しては『群書類従』第二十輯(合戦部)に収められている流布本で対応可能と思います。
Akiさんの『芝蘭堂』サイト内に『梅松論』の現代語訳が載せられていて大変参考になりますが、これは流布本に基づいています。
『芝蘭堂』
http://muromachi.movie.coocan.jp/index.html
http://muromachi.movie.coocan.jp/baisyouron/index.html
さて、『梅松論』は『太平記』よりも潤色が少なく、史実をより正確に反映している史料として武家社会の研究者には評価が高いようですが、実際に読んでみると、後嵯峨院崩御の時期や遺勅の内容に甚だしい誤解があるなど、些か奇妙な点も目立ちますね。
例えば、
-------
爰に後嵯峨院。寛元年中に崩御の刻。遺勅に宣く。一の御子後深草院御即位有べし。おりゐの後は長講堂領百八十ヶ所を御領として御子孫永く在位の望をやめらるべし。次に二の御子亀山院御即位ありて。御治世は累代敢て断絶あるべからず。子細有に依てなりと御遺命あり。
-------
などとあって、後嵯峨院は文永九年(1272)崩御であるにもかかわらず、「寛元年中」、即ち寛元四年(1246)、四歳の後深草天皇に譲位して院政を始めた直後に死去した、などと壮絶な勘違いをしています。
また、史実としては後嵯峨院は皇位継承者について明確な「遺勅」を残しておらず、「一の御子後深草院」の皇位は一代限りであって、その子孫には長講堂領百八十か所を御領として認めるけれども、在位の望みを持ってはいけない。「二の御子亀山院」の即位後は、その子孫は累代断絶せず皇位を継ぐように、などという後嵯峨の「御遺命」は存在しません。
このように『梅松論』の作者は後嵯峨院について全く無知でありながら、「後嵯峨院の御遺勅」に異常なこだわりを持っていて、伏見院と「伏見院の御子持明院(後伏見院)」の「二代は関東のはからひよこしまなる沙汰」であり、「後伏見院の御弟萩原新院(花園院)」を含め、「如此後嵯峨院の御遺勅相違して。御即位転変せし事。併関東の無道なる沙汰に及びしより。いかでか天命に背かざるべきと遠慮ある人々の耳目を驚かさぬはなかりけり」などと非難します。
http://muromachi.movie.coocan.jp/baisyouron/baisyou06.html
そして、何故に関東がこのような「無道なる沙汰」に及んだかというと、それは伏見院が在位中に関東に密かに告げ口したからだと言います。
即ち、
-------
亀山院御子孫御在位連続あらば。御治世のいせいを以のゆへに。諸国の武家君を擁護し奉らば。関東遂にあやうからむものなり。其故は承久に後鳥羽院隠岐国に移し奉りし事。安からぬ叡慮なりしを。彼院深思召れて。ややもすれば天気関東を討亡し。治平ならしめむ趣なれども。時節いまだ到来せざるに依て今に到まで安全ならず。一の御子後深草院の御子孫にをいては天下のためにとて。元より関東の安寧を思召候所なりと仰せ下されける程に。依之関東より君をうらみ奉る間。【後略】
-------
ということで、亀山院は幕府が承久の乱後に後鳥羽院を隠岐に流したことを不愉快に思っていて、内心では関東を滅ぼしたいと願っているが、未だ時節が到来しないので実行には至っていない。しかし、このまま亀山院の子孫が連続して在位すれば、諸国の武家が亀山子孫を擁護し、幕府を危うくするおそれがある。それに比べたら、後深草院の子孫である我々は、天下のため関東の安寧を心から望んでおりますよ、と伏見院が言ったのだそうです。
そして、これを信じた幕府は十年ごとの両統迭立を図ったのだ、というのが『梅松論』作者の理解ですね。
まあ、伏見院が本当にこうしたことを言ったのかは不明ですが、正応三年(1290)の浅原事件などを念頭に置くと、それなりの真実味を持って関東に受け入れられた話かもしれない、という感じはします。
なお、『芝蘭堂』のAkiさんは後鳥羽院の隠岐配流を「深思召れ」た主体を、私のように亀山院とは考えておられないようですね。
http://muromachi.movie.coocan.jp/baisyouron/baisyou07.html
ま、それはともかく、後醍醐即位の際にも、「当今の勅使」の「吉田大納言定房卿」と「持明院の御使」の「日野中納言の二男の卿」が関東で激論を交わして、定房が「後嵯峨院の御遺勅」の正統性を強力に主張したので後醍醐即位となり、これで亀山子孫の連続即位が確定したかと思ったら、
-------
元徳二年に持明院の御子立坊の義なり。以の外の次第也。凡後醍醐院我神武の以往を聞に。凡下として天下の位を定奉る事をしらず。且は後さがの院の明鏡なる遺勅をやぶり奉る事。天命いかむぞや。たやすく御在位十年を限の打替打替あるべき規矩を定申さむや。しかれば持明院十年御在位の時は御治世と云。長講堂領と云。御満足有べし。当子孫空位の時はいづれの所領をもて有べきや。所詮持明院の御子孫すでに立坊の上は。彼御在位十年の間は長講堂領を以。十年亀山院の御子孫に可被進よし。数ヶ度道理を立て問答に及ぶといへども。是非なく持明院殿の御子光厳院立坊の間。後醍醐院逆鱗にたへずして元弘元年の秋八月廿四日。ひそかに禁裏を御出有て山城国笠置山へ臨幸あり。
http://muromachi.movie.coocan.jp/baisyouron/baisyou08.html
ということで、神武天皇以来、凡下の者が天皇の位を定めるなどといった話は聞いたことがないし、「後さがの院の明鏡なる遺勅」を破ったら「天命」に背くのだ、などと凄い話になっています。
その一方で、持明院統には長講堂領という財産があるのに、亀山子孫には所領はないのだから、持明院統の天皇が在位中の十年間は長講堂領を亀山子孫に管領させろ、みたいなことも言っていますが、亀山子孫に所領がないというのは明らかに事実に反しますし、しかも何だかずいぶんケチ臭い話で、これも奇妙な議論ですね。
結局、元弘元年(1331)八月に後醍醐が笠置山に行ったのは「後さがの院の明鏡なる遺勅」に反して「持明院殿の御子」量仁親王(光厳天皇)が立坊したことに激怒したからだ、という話の展開も、立坊の時期、嘉暦元年(1326)七月と五年も離れているので、これまた奇妙です。
現代語訳の元にしたのは日本文學叢書刊行會というのが昭和三年に出した『神皇正統記 梅松論 読史余論』だったと思います。この本が家で見つからなくなっていて原文にすぐに当たれず、そのままにしてしまいました。
こちらではお久しぶりです。
ご指摘の件、165回配信で検討させていただきました。