「承久鎌倉方を単に組織的ということはできない。むしろ私的利益を追求する個の集合体という性格が顕著なのである」との長村祥知説に対して私が抱く根本的な疑問は、果たして「私的利益を追求する個の集合体」で戦争に勝てるのだろうか、勃発から僅か一か月での幕府軍の圧勝という結果を説明できるのだろうか、というものです。
長村氏は「三 鎌倉方武士の軍事行動」の「1 活動分担と勝者随従・所領獲得の論理」において、
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しかし彼らには、主従関係以上に重要なものがあったと考えられる。『慈光寺本』には、涙を流して説得する北条政子に対して、「二位殿ノ御方人ト思食セ」と忠誠を誓った武田信光(『慈光寺本』上-三二六頁)が、東海道軍の大将軍として進軍した美濃国東大寺で、もう一人の大将軍小笠原長清に「鎌倉勝バ鎌倉ニ付ナンズ。京方勝バ京方ニ付ナンズ。弓箭取身ノ習ゾカシ」と言ったとある。そこへ北条時房が「武田・小笠原殿。大井戸・河合渡賜ヒツルモノナラバ、美濃・尾張・甲斐・信濃・常陸・下野六箇国ヲ奉ラン」という文を飛脚で届けると、武田・小笠原が渡河したという(『慈光寺本』下-三四〇頁)。武田信光の「京方勝バ」の言に端的に現れているごとく、東国武士が最も重視したのは、主従の論理よりも勝者随従・所領獲得の論理であった。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f9f3b325a836d51d9ae52e2a8f72d017
長村氏は「三 鎌倉方武士の軍事行動」の「1 活動分担と勝者随従・所領獲得の論理」において、
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しかし彼らには、主従関係以上に重要なものがあったと考えられる。『慈光寺本』には、涙を流して説得する北条政子に対して、「二位殿ノ御方人ト思食セ」と忠誠を誓った武田信光(『慈光寺本』上-三二六頁)が、東海道軍の大将軍として進軍した美濃国東大寺で、もう一人の大将軍小笠原長清に「鎌倉勝バ鎌倉ニ付ナンズ。京方勝バ京方ニ付ナンズ。弓箭取身ノ習ゾカシ」と言ったとある。そこへ北条時房が「武田・小笠原殿。大井戸・河合渡賜ヒツルモノナラバ、美濃・尾張・甲斐・信濃・常陸・下野六箇国ヲ奉ラン」という文を飛脚で届けると、武田・小笠原が渡河したという(『慈光寺本』下-三四〇頁)。武田信光の「京方勝バ」の言に端的に現れているごとく、東国武士が最も重視したのは、主従の論理よりも勝者随従・所領獲得の論理であった。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f9f3b325a836d51d9ae52e2a8f72d017
と書かれていたように、最前線で戦う一般の武士だけでなく、武田信光・小笠原長清のような東山道軍の総大将クラスまで「勝者随従・所領獲得の論理」で動いていたとされ、その根拠は慈光寺本です。
そして、「2 司令官の指揮からの逸脱」においても、
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【前略】しかし義時が最前線で戦う鎌倉方を意の通り行動させるには、傍線④のごとく勧賞を提示せざるをえなかったのである。それは既述の『慈光寺本』に北条時房が武田・小笠原に六ヵ国を提示したことからも窺えよう。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e5be0acdaaa5c82ef3d7a816b881a77e
と、重ねて慈光寺本の武田・小笠原・時房エピソードに言及されます。
しかし、「いちかはの六郎刑部殿」への返信の末尾に記された④「おの/\御けんにん〔家人〕にも、さやうにこゝろにいれて、たゝかひをもし、山ふみをもして、かたきをもうちたらんものにおきては、けんしやう〔勧賞〕あるへく候なり」は、北陸道軍の先遣隊を統括していたと思われる市河六郎の配下の一般御家人が「所領獲得の論理」で動くと義時が思っていたことを示しているだけです。
この文章から、義時が市河六郎も「所領獲得の論理」で動いていると考えていたか否かは不明であり、むしろ、市河六郎自身には具体的なニンジンをぶら下げていないことから、お前が一般御家人のように「所領獲得の論理」だけで動く人間ではないことは分かっているよ、と市河のプライドを尊重・刺激しているような書き方に思えます。
まして市河の上にいる北陸道軍の大将軍(『吾妻鏡』五月二十五日条によれば名越朝時・結城朝広・佐々木信実)が「所領獲得の論理」で動いていると義時が考えていたかは④からは不明です。
従って、義時が東山道軍の大将軍(『吾妻鏡』同日条によれば武田信光・小笠原長清・小山朝長・結城朝光)も「所領獲得の論理」で動いていると考えていたかについても④は史料的根拠とはなりません。
また、長村氏が挙げる『吾妻鏡』の四つの事例、即ち、
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① 五月二十五日条:安東忠家が「此間有背右京兆〔義時〕之命事、籠居当国。聞武州〔泰時〕上洛、廻駕
来加」。
② 五月二十六日条:春日貞幸が「信濃国来会于此所。可相具武田〔信光〕・小笠原〔長清〕之旨、雖有其
命、称有契約、属武州云々」。
③ 六月十二日条:幸島行時が「相具小山新左衛門尉朝長以下親類上洛之処、運志於武州年尚、於所々令傷
死之条、称日者本懐、離一門衆、先立自杜山馳付野路駅、加武州之陣」。
④ 六月十三日条:足利義氏と三浦泰村が「不相触武州、向宇治橋辺始合戦。(注、足利義氏が)相待暁天、
可遂合戦由存之処、壮士等進先登之余、已始矢合戦」。
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のうち、①~③はそもそも「義時や各司令官の指揮を逸脱した武士の軍事行動」ではないと私は考えますが、仮に「逸脱」だとしても、ここから、
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【前略】むしろ各人の主たる目的は恩賞拝領につながる軍功の機会獲得にあり、泰時が最も早く進軍し京近郊では主戦場たる宇治を攻めることとなったために、泰時軍に属したというのが実態と考えられる。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ef3600fc31b631538c567ea702996d05
とするのは論理が飛躍しています。
泰時が宇治を担当することが決まったのは六月七日、野上・垂井の軍議においてであり(『吾妻鏡』同日条)、①②の時点では尾張河合戦の勝敗すら不明です。
③の幸島幸時の場合は、六月十二日の合流という点から見て「主たる目的は恩賞拝領につながる軍功の機会獲得」の可能性はあるでしょうが、『吾妻鏡』同日条に記された泰時の余りの歓待ぶりを素直に受け止めれば、ここはやはり泰時との人間関係が優先されていると考えるのが自然です。
更に、長村氏は、
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鎌倉方東海道軍・東山道軍が美濃・尾張の合戦に勝利した直後、美濃国野上・垂井で合戦僉議を開いた際に、三浦義村が北陸道軍の上洛以前に兵を京に遣わすべきだと主張し、僉議参加者から異議がでなかったのも(『吾妻鏡』六月七日条)、北陸道軍に軍功を奪われまいとする意思が共有されていたからであろう。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/37a21c707e7a3abf2257dc87644d73ae
と、三浦義村を含め、野上・垂井の軍議参加者に「北陸道軍に軍功を奪われまいとする意思が共有されていた」とまで言われますが、まあ、北陸道軍(四万余騎)を待って戦うか、それとも東海道軍(十万余騎)と東山道軍(五万余騎)の合計十五万騎で戦うかは軍事的合理性で決めたと考えるのが自然ではないですかね。
尾張河合戦のあっけない敗北で京方が浮足立っている状況では、北陸道軍の僅か四万余騎をのんびり待つよりは、京方に立ち直りの機会を与えず、一気呵成に攻め立てた方が良いに決まっていると私は考えます。
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