第153回配信です。
『太平記』については、私も2020年9月から翌年9月まで、約一年間をかけて検討。
その中で、『太平記』をめぐる国文学界と歴史学界の交流についても随時触れている。
現時点で、その交流の様子を概観するのに最も便利なのは兵藤裕己と呉座勇一氏の対談「歴史と物語の交点─『太平記』の射程」(『アナホリッシュ国文学』第8号、2019年11月)ではないか。
『太平記』初級者の参考とするため、この対談のさわりの部分を少し紹介したい。
四月初めの中間整理(その1)〔2021-04-02〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/58a9690364e67cd32698c73544e024b9
【中略】
四月初めの中間整理(その17)〔2021-04-17〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/820cb98acf5bb167764960c01329934b
兵藤裕己・呉座勇一氏「歴史と物語の交点─『太平記』の射程」(その1)〔2020-10-02〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/db63ea4c3d8fad2ca351f503f523a7d5
【中略】
兵藤裕己・呉座勇一氏「歴史と物語の交点─『太平記』の射程」(その17)〔2020-10-24〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0c6970ab230a337886d62cb29cb1729b
その中で、『太平記』をめぐる国文学界と歴史学界の交流についても随時触れている。
現時点で、その交流の様子を概観するのに最も便利なのは兵藤裕己と呉座勇一氏の対談「歴史と物語の交点─『太平記』の射程」(『アナホリッシュ国文学』第8号、2019年11月)ではないか。
『太平記』初級者の参考とするため、この対談のさわりの部分を少し紹介したい。
四月初めの中間整理(その1)〔2021-04-02〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/58a9690364e67cd32698c73544e024b9
【中略】
四月初めの中間整理(その17)〔2021-04-17〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/820cb98acf5bb167764960c01329934b
兵藤裕己・呉座勇一氏「歴史と物語の交点─『太平記』の射程」(その1)〔2020-10-02〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/db63ea4c3d8fad2ca351f503f523a7d5
【中略】
兵藤裕己・呉座勇一氏「歴史と物語の交点─『太平記』の射程」(その17)〔2020-10-24〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0c6970ab230a337886d62cb29cb1729b
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E8%AD%B7%E5%AF%BA%E4%B8%89%E5%83%8F
東博の神護寺展で、国宝の伝頼朝・伝重盛・伝光能三像をはじめて見ました。
私は米倉説(直義・尊氏・義詮の三像とする)のほうがシックリきますが、東博が米倉説に依拠したら、寄託条件に反すると神護寺が怒るかもしれないですね。
米倉説に立てば、二枚目の直義はおそらく母親似で、上杉清子も美人だったのだろうが、義詮は父親似なので、赤橋登子の容貌を想像するのは難しい。
垂れ目の尊氏像ですが、これは女好きでマキャベリストの顔だよなあ、と思いました。
義詮のつり目が母譲りとすれば、登子は険のある顔立ちだったのかもしれない。ただの妄想にすぎないが。
黒田智氏の「「騎馬武者像」の破格――君臣肖像画の時代」(『深化する歴史学』、大月書店、2024)によれば、1990年代に「伝足利尊氏像」にされてしまった騎馬武者像は、最近はやはり尊氏でよいという説が有力みたいですね。
神護寺三像が尊氏・直義・義詮だとすると、尊氏像は騎馬武者像と似ているのか、という問題になりますが、あまり似ていないような感じもします。
まあ、騎馬武者像は非常に特殊な状況を描いたものだから平時の尊氏像と違って当然、という説明も可能でしょうが。
https://x.com/IichiroJingu/status/1828048761182179735
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A8%8E%E9%A6%AC%E6%AD%A6%E8%80%85%E5%83%8F
たしかに、あまり似てないですね。
騎馬武者像は婆娑羅風といいますか、南北朝動乱期の時代精神(Zeitgeist)の表れなのかもしれませんね。
馬の面繋、胸繋、尻繋等に見られる鮮烈な朱色の垂れ(絹製?)はおそらく主君専用で(執事以下は不可)、西洋絵画でいうアトリビュートのようなもの、つまり、像主が誰かを示す間違えようのない印だと思いますね。
絵画に詳しい研究者の論文をいくつか見てるのですが、騎馬武者像が尊氏だとして、他の尊氏像との関係も微妙ですね。
神護寺の方との関係は、誰かが書いているような感じがするので、もう少し調べてみるつもりです。