私は前田家本にはあまり言及していませんが、前田家本は足利氏に関する記述が多く、室町幕府の成立後、流布本を改変したものであることが明らかです。
慈光寺本が「最古態本」だとする通説的見解に対し、私は「原流布本」が慈光寺本に先行すると考えていますが、いずれにせよ前田家本は相対的に新しい本なので、流布本と重複する記事については前田家本を参照する意味はあまりないと考えます。
さて、雉岡氏が、
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そこで、この藤四郎入道(三浦胤義の昔の郎等)を前述した庄四郎(家定)、あるいはその縁者(ちなみに家定の叔父の高家は七党系図によれば承久二年十月十七日に出家している)に比定したい。
慈光寺本が「最古態本」だとする通説的見解に対し、私は「原流布本」が慈光寺本に先行すると考えていますが、いずれにせよ前田家本は相対的に新しい本なので、流布本と重複する記事については前田家本を参照する意味はあまりないと考えます。
さて、雉岡氏が、
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そこで、この藤四郎入道(三浦胤義の昔の郎等)を前述した庄四郎(家定)、あるいはその縁者(ちなみに家定の叔父の高家は七党系図によれば承久二年十月十七日に出家している)に比定したい。
とされる理由を見て行きます。(p4)
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その理由として、一つは、すでに平安時代末に児玉経行の娘で、秩父重綱の妻となった女性が、永治元年(一一四一)に三浦義明の娘を母に生まれた源義平の乳母となって鎌倉に出仕し、「乳母御前」と呼ばれていた。つまり、十二世紀前半には児玉党や秩父氏が相模国の三浦氏と連繋していたのである。もう一つは、弘安六年(一二八三)から同八年にかけて、備中庄氏は同国小坂庄の地頭として「庄藤四郎入道行信」と名のっている。つまり、庄氏は藤原姓にもとづく藤四郎入道を名のっていた可能性がある。
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うーむ。
ここに挙げられた二つが何故に、
「藤四郎入道」=庄四郎(家定)or 縁者
の理由となるのか、私には理解できません。
児玉党庄氏の本姓が藤原だとしても、それは庄四郎(家定)と「藤四郎入道」がともに藤原姓だというだけの話です。
ここで流布本で、「藤四郎入道(頼信)」の登場場面を確認してみると、先ず、
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さて胤義、太秦にある幼稚の者共、今一度見んとて、父子二人と人丸三人、下簾懸たる女車に乗具して、太秦へ行けるが、子の嶋と云ふ社の前を過けるに、敵充満たりと云ければ、日を暮さんとて、社の中に父子隠れ居たり。人丸をば車に乗て置ぬ。去程に古へ判官の郎従なりし藤四郎頼信とて有しが、事の縁有て家を出、高野に有けるが、都に軍有と聞て、判官被討てか御座す覧、尸をも取て孝養せんとて、京へ出て、東山を尋けるに、太秦の方へと聞て尋行程に、子の嶋の社を過けるに、「あれ如何に」と云声を聞けば、我主也。是は如何にと思て、入て見れば、判官父子居給へり。「如何に」と申せば、「軍破れて落行が、太秦にある幼稚の者共を、今一度見るかと思て行程に、敵充満たる由聞ゆる間、日の暮を待ぞ」と云へば、藤四郎頼信入道、「日暮て、よも叶ひ候はじ、天野左衛門が手の者満々て候へば」と申ければ、太郎兵衛、「今は角ぞ、自害可仕也。頼信入道よ、(汝うづまさに参て)母に申んずる様は、『今一度見進らせ候はんとて参候が、(敵、路次に満て)叶間敷候程に、御供に先立、自害仕候。次郎兵衛胤連は高井太郎時義に被懸隔て、東山の方へ落行候つるが、被討て候哉覧、自害仕て候哉らん、行衛も不知候。去年春の除目に、兄弟一度に兵衛尉に成て候へしかば、世に嬉し気に被思召て、哀命存へて是等が受領・検非違使にも成たらんを、見ばやと仰候しに、今一度悦ばせ進らせ候はで、先立進らせ候こそ口惜く覚候へ』と申せ」とて、念仏申、腹掻切て臥ぬ。未足の動らきければ、父判官、是を押へて静に終らせて、「首をば太秦の人に今一度見せて、後には駿河守殿に奉り、云はん様は、『一家を皆失ふて、一人世に御座こそ目出度候へ』と申」とて、西に向十念唱へ、腹掻切て臥ぬ。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/dabce5398462e9aa0f6732cf70330845
ということで、「古へ判官の郎従なりし藤四郎頼信」は、「事の縁有て家を出、高野に」いたそうですが、「都に軍有と聞て、判官被討てか御座す覧、尸をも取て孝養せんとて」都に出ます。
そして、「判官父子」に出会った「藤四郎頼信入道」は、周辺には「天野左衛門が手の者満々て」いて、太秦まで行くのは困難であることを伝えます。
すると、「太郎兵衛」は自害を決意し、太秦の「母」への伝言を「頼信入道」に託して自害、ついで「父判官」も「首をば太秦の人に今一度見せて、後には駿河守殿に奉り、云はん様は、『一家を皆失ふて、一人世に御座こそ目出度候へ』と申」と「頼信入道」に命じてから自害します。
流布本では「判官父子」は自発的に自害しており、前田家本のように「藤四郎入道」が自害を説得する場面はありません。
さて、この場面から明らかなように「藤四郎頼信入道」は相当以前に出家して高野に滞在しており、承久の乱が勃発してから「宮方の中心人物である後鳥羽院や三浦胤義とも対等に話ができた」(p3)はずがありません。
特に、「古へ判官の郎従なりし藤四郎頼信」が、後鳥羽院の面前で胤義を批判するはずがありません。
従って、
「藤四郎入道」=庄四郎(家定)
の可能性は皆無ですね。
では、
「藤四郎入道」=庄四郎(家定)の縁者(特に「承久二年十月十七日に出家している」「家定の叔父の高家」)
の可能性はどうか。
まあ、こちらは「家定の叔父の高家」を含め、家定の周辺に、三浦胤義に長く仕えたか、あるいは出家後に高野にいたような人物がいた証拠があればともかく、普通に考えれば無理筋ですね。
流布本の「兒玉の庄四郎兵衛尉(家定)」と「藤四郎頼信入道」はいずれも非常に強い印象を与える人物であり、私も以前から、もしかしたら流布本作者はこの二人から直接に話を聞いているのではなかろうか、などと思っているのですが、二人が同一人物ないし縁者との可能性は考えたこともありませんでした。
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