学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学の中間領域を研究。

「慈光寺本妄信歴史研究者交名」(その67)─三浦泰村・足利義氏は泰時の「指揮を逸脱」したのか。

2023-11-29 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
④について、長村氏が省略されている部分を含めて、『吾妻鏡』六月十三日条には、

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【前略】酉刻。毛利入道。駿河前司向淀。手上等。武州陣于栗子山。武蔵前司義氏。駿河次郎泰村不相触武州。向宇治橋辺始合戰。官軍発矢石如雨脚。東士多以中之。籠平等院。及夜半。前武州。以室伏六郎保信。示送于武州陣云。相待曉天。可遂合戦由存之処。壮士等進先登之余。已始矢合戦。被殺戮者太多者。武州乍驚。凌甚雨。向宇治訖。此間又合戦。東士廿四人忽被疵。官軍頻乗勝。武州以尾藤左近将監景綱。可止橋上戦之由。加制之間。各退去。武州休息平等院云々。

http://adumakagami.web.fc2.com/aduma25-06.htm

とあります。
例によって『現代語訳吾妻鏡8 承久の乱』(吉川弘文館、2010)の今野慶信訳を参照すると、

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酉の刻に毛利入道(西阿、季光)・駿河前司(三浦義村)は淀・手上などに向い、武州(北条泰時)は栗子山に陣を構えた。武蔵前司(足利)義氏・駿河次郎(三浦)泰村は泰時に伝えることなく宇治橋の辺りに向い合戦を始めた。官軍が矢を放つことは雨のようで、東国武士は多くがこれに当たり、(退いて)平等院に立て籠もった。夜半になって前武州(義氏)は室伏六郎保信を泰時の陣に送り、伝えて言った。「明け方を待って合戦を行おうと考えていたところ、勇士らが先陣を進むの余りに既に矢軍を始め、殺害された者がたいそう多くおります」。泰時は驚いたものの、激しい雨を凌いで宇治に向った。この間にまた合戦があり、東国武士二十四人がまたたく間に負傷し、官軍は頻りに勝った勢いに乗じた。泰時が尾藤左近将監景綱を遣わして橋上の戦いを止めるよう制止を加えたので、それぞれ退去した。泰時は平等院で休息したという。
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となりますが(p116以下)、『吾妻鏡』を読む限り、足利義氏の配下が義氏の指示に反して勝手に合戦を始めてしまったことは確かでも、足利義氏と三浦泰村が北条泰時の明確な指示に反して勝手に合戦を始めてしまったのかははっきりしないですね。
長村氏も「④には、足利義氏自身が待機を意図しながらも配下の者が先登を進んで戦闘を起こしたとあり、それを見た三浦泰村も遅れじと合戦を始めたと考えられ」とされていて、『吾妻鏡』の読解としては正確です。
この点、流布本では三浦泰村が、尾張河合戦ではたいして活躍できなかったことを悔しく思い、宇治河合戦では派手に戦おうと思っていたことが最初に語られます。
そして、

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 其後、駿河次郎、雨に余り濡れたりければ、馬より下り、物具脱かへ、腹帯しめ直しなど仕ける所に、徒歩人少々走帰て、「御前に進まれ候つる殿原、はや橋の際へ馳より、御手者名乗て矢合し、軍始て候。某々手負て候」と申ければ、小河太郎、「足利殿に此由を申ばや」と申。駿河次郎、「暫し申な」とて、物具の緒を縮、馬にひたと乗、轡取て行時、「はや申せ」と云捨て、急ぎ駿河次郎、宇治橋近押寄て見ければ、げに軍は真盛りなり。馬より下、橋爪に立て、「桓武天皇より十三代の苗裔、相模国住人、三浦駿河次郎泰村、生年十八歳」と名乗て、甲をば脱で投のけ、差攻引攻射けり。【中略】武蔵前司義氏、馳来り相加てぞ戦ける。駿河次郎手者共、散散に戦ひ、少々は手負てぞ引き退く。日も暮行ば、武蔵前司、平等院に陣をとる。駿河次郎も同陣をぞ取たりける。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/aad4333b2b8633b4a16d80048069b7b5

とあって、宇治橋近辺で小競り合いが始まったことを聞いて真っ先にかけつけたのは三浦泰村であり、その際に泰村は足利義氏をも出し抜いています。
そして、遅れて義氏も合戦に加わります。
この後、

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 甲斐国住人室伏六郎を使者として、武蔵守へ被申けるは、「駿河次郎が手者共、早軍を始て、少々手負候。義氏が若党共、数多手負候。日暮候間、平等院に陣を取候。京方、向の岸に少々舟を浮て候。橋を渡て一定今夜夜討ちにせられぬと覚候。小勢に候へば、御勢を被添候へ」と被申ける。武蔵守、「こは如何に、明日の朝と方々軍の相図を定けるに、定て人々油断すべき、若夜討にせられては口惜かるべし。急ぎ者共向へ」と宣ければ、平三郎兵衛尉盛綱奉て馳参り、相触けれ共、「武蔵守殿打立せ給時こそ」とて、進者こそ無けれ。去共、佐佐木三郎左衛門尉信綱計ぞ、可罷向由申たりける。六月中旬の事なれば、極熱の最中也。大雨の降事、只車軸の如し。鎧・甲に滝を落し、馬も立こらヘず、万人目を被見挙ねば、「我等賎き民として、忝も十善帝王に向進らせ、弓を引、矢を放んとすればこそ、兼て冥加も尽ぬれ」とて、進者こそ無けれ。去共、武蔵守計ぞ少も臆せず、「さらば打立、者共」とて、軈て甲の緒しめ打立給けり。大将軍、加様に進まれければ、残留人はなし。
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という展開となり、三浦泰村・足利義氏の行動は泰時が「明日の朝と方々軍の相図を定」めたにもかかわらず、その指示に明確に反する独断専行であったことが分かります。
そして、この間にも合戦があり、

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 又、夜中に宇治橋近押寄て見れば、駿河次郎、昨日の軍に薄手負たる若党共、矢合始めて戦けり。武蔵前司手者共、同押寄雖戦、暫し支て引退。二番に相馬五郎兵衛・土肥次郎左衛門尉・苗田兵衛・平兵衛・内田四郎・吉河小次郎、押寄て散々に戦ふ、少々手負て引退。三番に新開兵衛・町野次郎・長沼小四郎、各、「其国住人、某々」と名乗て、橋桁を渡り掻楯の際迄責寄たりけるを、敵数多寄合て、三人三所にてぞ被討ける。四番に梶小次郎・岩崎七郎、押寄て散々に戦て引退。五番に波多野五郎信政、引たる橋の際迄押寄たり。是は、去六日、杭瀬川の合戦に、尻もなき矢にて額を被射たり。左有ればとて、只有べきに非ざれば、進出名乗る。「相模国住人、波多野五郎信政」とて、橋桁を渡し、向より敵の射矢、雨の如なるに、向の岸を見んと振仰のきたる右の眼を、健たかに被射て、河へ已に落とす。橋桁に取付て、心地を静めて、向んとすれば先も不見。帰んとすれば敵に後ろを見せん事口惜かるべしと思ければ、後ろ様にぞしざりける。橋の上へしざり上り、取て返ける所に、郎等則久、つとより、肩に引懸返りける。河端の芝の上に伏て、二人左右より寄て、膝を以押て矢を抜てけり。(眼より)血の出事、鎧に紅を流て、誠に侈敷ぞ見へける。【後略】

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/37c4ef520287abdd9ee698b7a5dc81ee

という具合に、幕府軍には多大な犠牲者が生じます。
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