学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学を研究しています。

慈光寺本は本当に「最古態本」なのか。(その3)

2023-01-24 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

流布本では「王法」という表現がもう一度登場します。
下巻の中ほど、後鳥羽側の敗北が確定した後、

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 去程に、京方の勢の中に、能登守秀安・平九郎判官胤義・山田次郎重忠、四辻殿へ参りて、某々帰参して候由、訇〔ののし〕り申ければ、「武士共は是より何方〔いづち〕へも落行」とて、門をも開かで不被入ければ、山田次郎、門を敲〔たたい〕て高声〔かうじやう〕に、「大臆病の君に語らはされて、憂に死せんずる事、口惜候」と訇ける。平九郎判官、「いざ同くは坂東勢に向ひ打死せん。但し宇治は大勢にて有なり。大将軍の目に懸らん事も不定〔ふじやう〕なり。淀へ向ひ死ん」とて馳行けるが、東寺に引籠る。【後略】
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とあって(p122)、「京方」の武士たちが後鳥羽院の四辻殿に行ったものの、「大臆病の君」後鳥羽院に裏切られて門も開けてもらえず、散り散りに逃げて行き、山田重忠は「嵯峨の奥なる山」で自害、三浦胤義は太秦で自害してしまいますが、その次に、

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 京方軍破て、さても一院は、去共〔さりとも〕と被思召しか共、忽〔たちまち〕に王法尽させ御座〔ましまし〕て、空く軍破ければ、如何なる事をか被思召べき。(あさましかりし事共也)。
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とあります。
「去共」が少しわかりにくいですが、松林氏の頭注には「よもや戦いに敗れることはあるまいと」とあります。
短い表現ですが、「忽に王法尽させ御座て」は明らかに上巻の「同年夏の比より、王法尽させ給ひて、民の世となる」に対応していますね。
そして、「王法」という語彙は含まれませんが、下巻の最後に次のような文章があります。(p146)

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 承久三年、如何なる年なれば、三院・二宮、遠島へ趣〔おもむか〕せましまし、公卿・官軍、死罪・流刑に逢ぬらん。本朝如何なる所なれば、恩を知臣もなく、恥を思ふ兵〔つはもの〕も無るらん。日本国の帝位は伊勢天照太神・八幡大菩薩の御計ひと申ながら、賢王逆臣を用ひても難保、賢臣悪王に仕へても治しがたし。一人怒時は罪なき者をも罰し給ふ。一人喜時は忠なき者をも賞し給にや。されば、天是にくみし不給。四海に宣旨を被下、諸国へ勅使を遣はせ共、随奉る者もなし。かゝりしかば関東の大勢、時房・泰時・(朝時)・義村・信光・長清等を大将として、数万の軍兵、東海道・東山道・北陸道三の道より責上りければ、靡かぬ草木も無りけり。
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これが流布本上下二巻を通しての作者の総括です。
拙訳を試みれば、

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承久三年、後鳥羽は隠岐、順徳院は佐渡、土御門院は土佐に遷され、雅成親王(六条宮)と頼仁親王(冷泉宮)もそれぞれ但馬国、備前国へ配流となった。
後鳥羽院に与した公卿・武士も死罪・流刑に処せられてしまったけれども、いったい承久三年とはいかなる年だったのか。
恩を知る臣下もおらず、恥を感ずる兵士もいないとは、日本国はいったいどんな国になってしまったのか。
日本国の帝位は天照大神・八幡大菩薩のお決めになることとはいっても、賢い王が不忠の臣下を用いたり、賢い臣下が悪い王に仕えているのではきちんとした統治はなされようもない。
「一人」(後鳥羽院)は怒る時は罪のない者も罰し、喜ぶ時は忠のない者も賞する人であった。
そのため、「天」も後鳥羽院に味方はされなかった。
四海に宣旨を下し、諸国へ勅使を派遣しようとも、後鳥羽院に従う者はいなかった。
そんな有様だったので、幕府が北条時房・泰時・(朝時)、三浦義村、武田信光、小笠原長清等を大将として、数万の軍兵を東海道・東山道・北陸道の三つの道から派遣し、「京方」を攻撃させると靡かぬ草木もなく、たちまち「京方」は敗北してしまった。
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となります。
この記述は『六代勝事記』や『吾妻鏡』に類似の表現があって両書との関係が論点となっており、私も後で検討するつもりですが、全国に宣旨を下そうと、勅使を派遣しようと、後鳥羽院の命令に従う者はおらず、「関東の大勢」に「靡かぬ草木も無りけり」、みんな幕府に従ってしまったということは、「王法」が尽き、「民の世」となってしまったことと同じ意味ですね。
即ち、上巻冒頭の「同年夏の比より、王法尽させ給ひて、民の世となる」が、ここで敷衍されています。
そして私は、この流布本作者の感懐は、別に流布本作者のようなそれなりの教養人・知識人だけではなく、三上皇・二宮の配流を目撃した多くの人々に共通の感懐でもあったのではないかと考えます。
『六代勝事記』などには儒教的な教養を持つ知識人の見解が示され、それはそれなりに早い時期のものですが、しかし、そうした知的な分析がなされる前に、ごく普通の人々の間に、「王法」が尽き「民の世」となってしまったなあ、という素朴な、思想ともいえない程度の感想があり、この感想を残している流布本こそ「最古態本」なのではないか、と私は考えます。

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