学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学の中間領域を研究。

「慈光寺本妄信歴史研究者交名」(その68)─全ての「逸脱行動」が「処罰」の対象となるのか。

2023-11-29 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
幕府軍に死者・負傷者が続出する一方、京方はというと、

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 京方より奈良法師、土護覚心・円音二人、橋桁を渡て出来り。人は這々渡橋桁を、是等二人は大長刀を打振て、跳々曲を振舞てぞ来りける。坂東の者共、是を見て、「悪ひ者の振舞哉。相構て射落せ」とて、各是を支て射る。先立たる円音が左の足の大指を、橋桁に被射付、跳りつるも不動。如何可仕共不覚ける所に、続たる覚心、刀を抜て被射付たる指をふつと切捨、肩に掛てぞ引にける。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/524c15c5a95208e8070fb0e28ad7fa13

ということで、もちろん京方にも負傷者は出ますが、「奈良法師、土護覚心・円音二人」が、普通の人は這って渡る橋桁を、大長刀を振るって踊るように、曲芸を振舞うようにやって来る様子は、『吾妻鏡』の「官軍頻乗勝」という表現を連想させますね。
この後、

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 武蔵守、「此軍の有様を見るに、吃と勝負可有共不見、存旨あり、暫く軍を留めんと思也」と宣ければ、安東兵衛尉橋の爪に走寄、静めけれ共不静。二番に足利武蔵前司、馳寄て被静けれ共不静。三番に平三郎兵衛盛綱、鎧を脱で小具足に太刀計帯て、白母衣を懸、橋の際迄進で、「各軍をば仕ては誰より勧賞を取んとて、大将軍の思召様有て静めさせ給ふに、誰誰進んで被懸候ぞ。『註し申せ』とて盛綱奉て候也」と、慥に申ければ、その時侍所司にてはあり、人に多被見知(ければ)、一二人聞程こそあれ、次第に呼りければ、河端・橋の上、太刀さし矢を弛て静りにけり。
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ということで、橋板をはずされた宇治橋で戦っていても埒が明かないと見た泰時は、いったん攻撃の中止を命じます。
しかし、みんな興奮しているので、「安東兵衛尉」(安東忠家)、ついで「足利武蔵前司」(義氏)が攻撃中止を呼び掛けても静まりません。
そこで「平三郎兵衛盛綱」が「白母衣」を懸けて目立つようにした上で、「お前たちは誰から勧賞をもらうつもりなのか。勧賞を下さる「大将軍」が攻撃中止を命じておられるのに、誰がそれを無視するのか。しっかり記録せよ、と私は「大将軍」から承っておるぞ」と叫ぶと、平盛綱は「侍所司」なので多くの人が見知っており、また「勧賞」の響きの効果もあって、最初は一人二人聞く程度だったのが、叫び続けるうちに河端の人も橋の上の人も、太刀を鞘に戻し、矢を弛めて静かになって行ったのだそうです。
『吾妻鏡』では「武州以尾藤左近将監景綱。可止橋上戦之由。加制之間。各退去」とあって、泰時が尾藤景綱に命じて宇治橋での合戦を止めるように言うと皆は直ちに中止した、というあっさりした展開ですが、流布本では、安東忠家・足利義氏が制止しても全然戦闘が止まず、三人目の平盛綱の「勧賞」勧告で何とか収拾できたとのことで、リアルといえばずいぶんリアルな話ですね。
さて、私自身の関心は『吾妻鏡』と流布本の関係にあるので、長々と流布本の紹介をしてしまいましたが、長村論文に戻ると、足利義氏配下の「壮士」は「相待曉天。可遂合戦」と思っていた義氏の「指揮を逸脱」して勝手に合戦を始めてしまったことは間違いありません。
そして、「これらの逸脱行動に対して(義氏が)処罰を下した形跡はない」ようです。
しかし、敵前逃亡や戦闘への不参加などと異なり、戦闘意欲が高すぎて先走ってしまうような行動は、そもそも処罰の対象となるほどの「逸脱行動」なのか。
戦争では戦闘意欲の高さは極めて高く評価されるのであり、戦闘意欲が高すぎるが故の先走りは、それが原因で作戦全体の失敗をもたらしたような場合を除いては、処罰の対象だなどとは誰も考えないのではないか。
長村氏の「逸脱行動」→「処罰」という発想は、戦争の実態から遊離した、あまりに形式的な議論のように思われます。
ということで、④の場合は確かに「逸脱行動」はあったけれども、それはもともと「処罰」の対象となるような性質のものではなかった、というのが私の考え方です。
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