学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学を研究しています。

二人の「近子」(その1)

2020-04-13 | 『増鏡』の作者と成立年代(2020)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 4月13日(月)14時45分29秒

後高倉院皇女に利子内親王(式乾門院、1197-1251)、能子内親王(押小路宮、1200-45)、本子内親王(?-1229)、邦子内親王(安嘉門院、1209-83)、有子内親王(生没年不詳)とシンプルな名前の女性が多いのは、もともと後高倉院が即位することも院政を行うことも予定されていなかったのに、承久の乱の棚ボタで突如として治天の君になってしまった、という事情が反映されているのでしょうね。

守貞親王(1179-1223)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%88%E8%B2%9E%E8%A6%AA%E7%8E%8B

ま、それでも「能子内親王」という皇女がいたのですから、足利義氏の娘で四条隆親室の「能子」についても「雅名型」の可能性が皆無ではなさそうですが、しかし、四条隆親の娘の「近子」となると、あまりにチープな名前なので、さすがに「雅名型」ではないでしょうね。
もともと、この「近子」という名前は『天祚礼祀職掌録(てんそれいししょくしょうろく)』に出てきます。
久保田淳校注・訳『新編日本古典文学全集47 建礼門院右京大夫集・とはずがたり』(小学館、1999)の「解説」には、

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 隆親の娘としては、『尊卑分脈』は二人の女子を掲げている。一人は従三位となった女子、もう一人は名を識子といい、従一位とされ、「鷲尾一品」と号した女性である。作者二条の母は従三位とされた女子であろうか。『群書類従』帝王部に収められている『天祚礼祀職掌録』は、歴代帝王の即位の大礼に奉仕した役人の名を記した書物である。この書の「後深草院」の条を見ると、「褰帳〔けんちょう〕」(儀式の際、高御座の帳をあげる女官)の右典侍は「近子。<中宮大夫隆親卿女。>」と記されている。ところが、亀山院の褰帳も「右典侍藤原近子。<入道大納言隆衡卿女。>」とある。これによれば、姪と伯母(叔母)との関係にある二人の女性がともに近子という同名で、しかも姪の方が十三年も早く褰帳の典侍を勤めていることになるが、それは不自然であろう。とすると、二人の近子は同一人で、亀山院の即位の際は、祖父の猶子という形でこの役を務めたのではないだろうか。亀山天皇の即位の礼は正元元年(一二五九)十二月二十八日に行われた。この時隆衡はすでに故人であるが、それはとくにさしつかえなかったのであろう。二条も祖父久我通光亡き後に、その娘という形で後深草院の女房とされたのである。
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とあります。(p545)
念のため関係者の年齢を見ておくと、後深草天皇の即位は寛元四年(1246)で、四条隆親(1203-79)は四十四歳、その父の隆衡(1172-1254)は七十五歳です。
そして十三年後の亀山天皇即位時には隆親は五十七歳ですが、隆衡は五年前に八十三歳で没しています。
隆衡・隆親父子は三十一歳離れており、確かに「姪と伯母(叔母)との関係にある二人の女性がともに近子という同名で、しかも姪の方が十三年も早く褰帳の典侍を勤めている」のは不自然ですね。
さて、続きです。

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 あるいは、この近子が二条の母ではなかったかと想像されるのだが、二条はしばしば二歳の時母に死別したと述べている。また、母の命日は五月五日であるという。そして二条の生年が最初に考えたように正嘉二年であるならば、二歳なのは正元元年で、近子が亀山天皇の即位に際して褰帳を勤めた年である。母がこの年五月五日に亡くなり、亀山天皇の即位が十二月二十八日に行われたのであれば、近子はやはり二条の生母ではないのかもしれない。
 なお、伏見天皇の即位の際も、隆子という隆親の女子が褰帳の右典侍を勤めている。四条家は隆親の姉貞子が産んだ姞子(大宮院)や公子(東二条院)が皇室に入って以来、皇室との結び付きが強くなっていくのである。
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『新編日本古典文学全集47 建礼門院右京大夫集・とはずがたり』は巻末の「とはずがたり 人名・地名索引」が非常に充実していて、これを頼りに二条が「しばしば二歳の時母に死別したと述べている」箇所を数えたら、全部で五箇所ありますね。
そして、母が五月五日に亡くなったという話は、巻二にただ一箇所、出てきます。
久保田氏は建治三年(1277)の出来事としていますが、このあたり、ストーリーの展開が目まぐるしくて、まず、三月十三日に女楽事件があり、「今参り」を依怙贔屓する祖父・隆親に席次を下げられた二条は激怒して御所を出奔、行方不明になります。

『とはずがたり』に描かれた中御門経任(その1)~(その7)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d8797cb0c18b28115d6de1f3e2ddc0a7
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f9b4844774e0e7a1976b7ee3933965ef
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7c27ba6c45e5a0a0dca79c8196e4b18f
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/06ffd2d11e2bc080d6e41548fd343d5d
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f06418db732477905db11318c567bd30
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e60ac8d996034d4f856ce01740b32b8f
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/94ad4b4ff6bb7ee3aa12fd9c11b0297d

そして乳母の母親で、宣陽門院に「伊予殿」という名で仕えた老女が、宣陽門院の墓のある伏見の即成院の近く、小林というところに住んでいたので、そこに隠れた後、醍醐勝倶胝院の真願房の庵室に籠ります。
ちょうどその頃、父・隆親と不和になった隆顕に同情した二条が隆顕に手紙を書いたところ、隆顕は二条を訪れ、それを知った「雪の曙」も醍醐を訪問します。
そして、隆顕の手配で伏見の小林に戻った二条のところに後深草院の突然の御幸があり、二条は御所に戻ることになります。
ついで、二条は「雪の曙」との間に生まれていた女子が病気だと聞かされます。(p337)

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 さても、「夢の面影の人、わづらひなほ所せし」とて、思ひがけぬ人の宿所へ呼びて、見せらる。「五月五日は、たらちめの跡弔ひにまかるべきついでに」と申ししを、「五月ははばかるうへ、苔の跡弔はむ便りもいまいまし」としひて言はれしかば、卯月のつごもりの火、しるべある所へまかりたりしかば、
【久保田訳】
 さて、「夢のようにちらりと面影を見たあの子の病気は、やはりはかばかしくない」というので、思いもかけない人の家へ呼んで、見せられる。「五月五日は、母の命日に弔いに出かけなければならないので、そのついでに」と申したところ、「五月ははばかるうえ、お墓参りをするついでも演技が悪い」と強く言われたので、四月の月末の日、案内された所へ出かけたところ、
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ということで、五月五日の話はここだけに出てきます。
まあ、肉親の死に関することなので、普通は信用できる話ですが、後深草院二条の場合、『公卿補任』では四十五歳で死去したとされる父について、「文永九年八月三日辰の初めに、年五十にて隠れたまひぬ」(p229)と五歳もサバを読んでいます。
また、祖父隆親は『公卿補任』では弘安二年(1279)九月六日、七十七歳で死去したとされているのですが、『とはずがたり』の時間の流れは混乱を極めており、久保田氏作成の年表では、隆親は弘安六年(1183)七月ごろに二条を御所から退出させていて、史実との間に四年のずれがあります。
更に、『とはずがたり』では隆親の前に死んだことになっている隆顕は、その後もけっこう長生きしていそうです。

善勝寺大納言・四条隆顕は何時死んだのか?(その1)(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/eb7aa8e0d799f8d99bd2b7bf1a7f17a3
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/384ce32a71c0e831d5d007c2d0967bfb
『中務内侍日記』の「二位入道」は四条隆顕か?(その1)(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c5850662f4868da45f2944b72d381680
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/5064aea36de872d899518e542010599f

ということで、『とはずがたり』は自伝風の小説であるから、母が死去したという五月五日もストーリー上の都合で適当に設定した日付であり、あまりこだわる必要はない、というのが私の考え方です。
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