学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学を研究しています。

0165 『梅松論』をどこまで信頼できるか。

2024-09-11 | 鈴木小太郎チャンネル「学問空間」
第165回配信です。


一、前回配信の補足

筆綾丸さんのコメント
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起請文を要求された側(高氏)が、誓約を信じていないとすれば、起請文を要求した側(高時)も、誓約を信じていない、とパラレルに考えるべきではないか。では、なぜ、そんな空疎な起請文が成り立つのかといえば、それが戦の前の儀式(ritual、ceremony)だったからではないか。
それはそれとして、『太平記』の起請文の話は創作で、実際はなかったのではないか。千寿王(と登子)を監視下におけば必要充分で、紙切れなど不要だからである。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/34ecb0e7a0c2fb17ac7736ddbc381ffa


二、『梅松論』

『梅松論』に描かれた尊氏の動向(その1)~(その3)〔2020-11-06〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/357e20bc15e65222c6224cf0ba351441
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/bca455df44a9716d2cc79c7c887e95d7
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/2a46f158b52f4cd899778e568c07a3c1

「一人の歴史家は、この時期を「公武水火の世」と呼んでいる」(by 佐藤進一氏)〔2021-01-30〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8a70d5946e4e7f439c188d24dea7eb54

Akiさんのコメント
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「後鳥羽院の隠岐配流を『深思召れ』た主体」の件、見直していなくてそのままになっていました。おっしゃるとおり「亀山院が『深思召れ』」と解釈するのがよさそうですね。
 現代語訳の元にしたのは日本文學叢書刊行會というのが昭和三年に出した『神皇正統記 梅松論 読史余論』だったと思います。この本が家で見つからなくなっていて原文にすぐに当たれず、そのままにしてしまいました。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/357e20bc15e65222c6224cf0ba351441
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2 コメント

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Unknown (筆綾丸)
2024-09-12 12:45:25
追記
アメリカの法廷劇には、
Judge:Do you solemnly swear that you
will tell the truth, the whole
truth, and nothing but the
truth, so help you God ?
Witness:I do.
というシーンがよく出てきます。
起請文では、God の代わりが gods(八百万神)で、truth は untruth を含意したのだと思います。
『太平記』の起請文の話が本当だとしても、高時と円喜の相談並びに高氏と直義の相談はおそらく潤色で、実際は、足利の家僕が事務的に起請文を作成して差し出し、得宗の家僕が事務的に受け取った、ということなのでしょうね。
そして、高時も高氏も、この起請文を見たことすらなかった、というのが実情のような気がします。
返信する
定型文書 (鈴木小太郎)
2024-09-13 11:06:07
>筆綾丸さん
仮に起請文が要求されたとしても、本当に定型文書になってしまっていて、誰もその内容を本気で確認したりはしなかったのでしょうね。
ただ、提出する側には花押の手続きがありますから、書面をチラッと見る程度はあったはずだと思います。
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