学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学の中間領域を研究。

新田義貞奏状に基づく「降参」再考

2021-07-24 | 山家浩樹氏『足利尊氏と足利直義』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 7月24日(土)13時15分4秒

新田義貞奏状はなかなかの名文ですね。(兵藤裕己校注『太平記(二)』、p350以下)

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 早く逆臣尊氏直義等を誅して、天下を徇〔しず〕めんと請ふ状

右、謹んで当今聖主〔とうぎんせいしゅ〕の経緯たるを案ずるに、天地の徳古今に光〔かがや〕けり。化〔か〕三五を蓋〔おお〕はしむ。神武〔しんぶ〕鋒端を揺〔うご〕かし、聖文〔せいぶん〕宇宙を定〔しず〕むる所以〔ゆえん〕なり。
爰〔ここ〕に、源家末流の昆弟〔こんてい〕、尊氏、直義と云ふ者あつて、散木〔さんぼく〕の陋質を恥ぢず、並びに青雲の高官を踏む。その功とする所を聴くに、掌〔たなごころ〕を拊〔う〕ち一笑するに堪へたり。太平の初め、山川震動して、地を略し敵を拉〔とりひし〕ぐは、南には正成有り、西には円心有り。加之〔しかのみならず〕、四夷蜂起して、六軍〔りくぐん〕虎の如くに窺〔うかが〕ふ。この時、尊氏、東夷の命に随ひ、族を尽くして上洛す。潜〔ひそ〕かに官軍の勝〔かつ〕に乗るを看て、死を免れん意〔こころ〕有り。然れども、猶心を一偏に決〔さだ〕めず、運を両端に相窺ふの処、名越尾張守高家、戦場に於て命を墜〔お〕としし後、始めて義卒に与〔くみ〕して、丹州に軍〔いくさ〕す。天誅命を革〔あらた〕むるの日、兀〔たちま〕ち鷸蚌〔いっぽう〕の弊〔つい〕えに乗じて、快く狼狽が行を為す。若〔も〕し夫〔そ〕れ義旗〔ぎき〕京を約〔つづ〕め、高家死を致すに非ずんば、尊氏、独り斧鉞〔ふえつ〕を把〔と〕つて強敵〔ごうてき〕に当たらんや。退いて之を憶〔おも〕ふに、渠儂〔かれ〕が忠は彼〔かれ〕に非ず。須〔すべか〕らく亡卒〔ぼうそつ〕の遺骸に羞〔は〕ぢ愧〔は〕づべし。今、功の微にして爵の多なるを以て、頻りに義貞が忠義を猜〔そね〕み、剰〔あまつさ〕へ讒口〔ざんこう〕の舌を暢〔の〕ぶ。巧みに浸潤の譖〔しん〕を吐いて、その愬〔うつた〕へ一つとして邪路に入らずと云ふこと無し。
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この後、前回投稿で引用した「義貞、朝敵追罰の綸旨を賜り、初めて上野より赴きしことは、五月八日なり」に続きます。
「源家末流」の兄弟、尊氏と直義という者は、役に立たぬ木のような卑しい身を恥じることなく高官となっているが、その功績は手をたたいて笑う程度のものだ。公武一統の太平の世に移ろうとしたとき、朝敵を攻略したのは南には楠木正成、西には赤松円心であったが、当時、尊氏は東夷(幕府)の命令に従って一族で上洛した。しかし、官軍が優勢であることを知って、死にたくはないと思ったものの、なお決断はできずにフラフラしていたところ、名越高家が討死したのを見て、やっと官軍に参加し、丹波で挙兵した。天罰が下って天命が北条氏から移った日に、シギとハマグリが争い、ともに漁夫に捕らえられた故事のように、尊氏は躊躇せずにそれまで敵だった官軍と結び、漁夫の利を得た。もしも正義の旗が京を包囲し、高家を死に追いやることがなかったなら、ひとり尊氏だけで、天子が将軍に賜う斧とまさかりを取って強敵に立ち向かうことがあったであろうか。尊氏が自らの忠と称しているものは尊氏に帰するものではない。尊氏は戦死した兵の亡骸に恥を知るべきであろう。功績が少ないのに過分の官位を得ているにもかかわらず、頻りに義貞の忠義を疑い、讒言の弁舌だけは巧みで、水が浸み込むような虚言を吐き、その言う所はひとつとして邪でないものはない、ということで、なかなか強烈な批判です。
この部分はおよそ直義に提示できるような内容ではなく、従って「原太平記」には存在せず、直義の失脚と死去を経て『太平記』に追加されたものと私は考えます。
さて、私は今まで、『難太平記』の「降参」という表現は『太平記』自体には存在せず、それは尊氏の叛逆を記した『太平記』第九巻を読んだ今川了俊の解釈だろうと考えていました。

『難太平記』の足利尊氏「降参」考(その1)~(その11)
【中略】

しかし、了俊は第九巻ではなく、第十四巻の新田義貞奏状を読んで、尊氏が「降参」したと解釈した可能性もありそうですね。
第九巻では尊氏は「桂川の西の端」で「酒盛」をしていて、「数刻」後に名越高家討死を知ると「さらば、いざや山を越えん」と篠村に向かっただけです。
しかし、新田義貞奏状では「名越尾張守高家、戦場に於て命を墜としし後、始めて義卒に与して」とあり、また「若し夫れ義旗京を約め、高家死を致すに非ずんば、尊氏、独り斧鉞を把つて強敵に当たらんや」とあって、こちらを読めば、尊氏は名越高家討死を直接の契機として鎌倉幕府の敗北を悟り、裏切ったことになり、「降参」の二字こそないものの、「降参」の色彩は極めて濃くなります。
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