学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学の中間領域を研究。

「慈光寺本妄信歴史研究者交名」(その71)─北陸道軍への一万余騎の加勢は史実なのか。

2023-12-03 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
「勝者随従・所領獲得の論理」という表現は長村祥知氏の論文以外では見かけないように思いますが、長村氏の造語なのでしょうか。
まあ、言いたいことは正確に伝わるので特に奇異な表現とも思いませんが、長村氏が「勝者随従・所領獲得の論理」に関連して述べられていることは、幕府軍の勝利が予め決定済みの予定調和の世界のような感じがして、どうにも違和感を禁じ得ません。
例えば長村氏は、承久三年六月七日の時点で、野上・垂井の軍議参加者に「北陸道軍に軍功を奪われまいとする意思が共有されていた」などと言われる訳ですが、この時点では戦争の見通しは全く不透明です。
例えば後鳥羽院が叡山の説得に向かったのは翌八日ですが、仮に後鳥羽院の叡山説得が成功し、叡山の全兵力が京方に付いたなら、宇治河合戦の帰趨も微妙だったかもしれません。
少なくとも実際の経過ほど短期では終わらなかったはずで、その間に西国から京方に加わるものが増加したらどうなったのか。
あるいは後鳥羽院が叡山に立て籠もったらどうなったのか。
戦争はやってみなければ分からない不確実性に満ちた世界であり、六月七日の時点で「北陸道軍に軍功を奪われまいとする意思が共有されていた」云々は、私には「捕らぬ狸の皮算用」のように思われます。
ところで、野上・垂井の軍議に関する『吾妻鏡』六月七日条の記述は、

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相州。武州以下東山東海道軍士陣于野上垂井両宿。有合戦僉議。義村計申云。北陸道大将軍上洛以前。可被遣軍兵於東路歟。然者勢多。相州。手上。城介入道。武田五郎等。宇治。武州。芋洗。毛利入道。淀渡。結城左衛門尉。并義村可向之由云々。武州承諾。各不及異儀。駿河次郎泰村従父義村。雖可向淀手。為相具武州。加彼陣云々。

http://adumakagami.web.fc2.com/aduma25-06.htm

と極めて簡略ですが、流布本には、

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 東山(東海両)道の大勢一に成て上りければ、野も山も兵共充満して、幾千万と云数を不知。野上・垂井に陣を取て、駿河守軍の手分けをせられけるは、「相模守殿は勢多へ向はせ御座候へ。供御の瀬へは武田五郎被向候へ。宇治へは武蔵守殿向はせ給ひ候へかし。芋洗へは毛利蔵人入道殿向はれ候べし。義村は淀へ罷向候はん」と申せば、相模守殿の手の者、本間兵衛尉忠家進出て申けるは、「哀れ、駿河守殿は悪う被物申哉。相模(守)殿の若党には、軍な仕そと存て被申候か」。駿河守、「此事こそ心得候はね。義村昔より御大事には度々逢て、多の事共見置て候。平家追討の時、関東の兵共被差上候しに、勢多へは(大手なればとて)三河守殿向はせ御座して、宇治へは(搦手なれば)九郎判官殿向はせ給ひ、上下の手雖同、三河守殿、勢多を渡して、平家の都を追落し、輙く軍に打勝せ給ふ。是は先規も御吉例にて候へばと存てこそ、加様には申候へ。争か軍な仕そと思ひて、角は可申候。加様に被申条、存外の次第に候。勢多へは敵の向ふ間敷にて候歟。軍は何くも、よも嫌ひ候はじ。只兵の心にぞ可依」と申しければ、本間兵衛尉、始の申状は由々敷聞へつれ共、兎角申遣たる方もなし。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/504cbf7657594c9ee392bd5d52dce132

とあって、三浦義村案に対し、「相模守の手者、本間兵衛尉忠家」が「勢多では時房の下の若党が活躍できない、我々に軍〔いくさ〕をするなと言うのか」と不満を述べます。
すると義村は、「自分は昔から大事な戦闘を何度も経験して、多くの事を見て来ている。平家追討の時、勢多は大手なので「三河守殿」(源範頼)が向かい、宇治は搦め手なので「九郎判官殿」(源義経)が向かった。そして三河守殿は勢多を渡って平家を都から追い落とした。先例も吉例だから、先の案を出したのだ。全く心外である。勢多には敵が向かわないとでも言うのか」と反論すると、威勢の良かった「本間兵衛尉忠家」も返答できなかったのだそうです。
このエピソードは、長村氏の立場からは、北条時房の側近クラスが「所領獲得の論理」で動いていることを示す貴重な事例になるのではないかと思われますが、流布本を重視しない長村氏の関心は惹かなかったようですね。
なお、この記事はちょっと変で、範頼・義経は木曽義仲を討ったのであり、平家の都落ちは義仲入京の時の話です。

野口実氏「承久宇治川合戦の再評価」の問題点(その10)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/74528293537a74d1a63127bd9d398ffe

ま、それはともかく、この後、

-------
武蔵守泰時は、駿河守の議に被同ぜ。其時に被申は、「宇治へ向はんずる人々は、皆被向候べし。但式部丞北陸道へ向ひ候しが、道遠く極たる難所にて、未著たり共聞へ候はず。都へ責入ん日、一方透ては悪かりなん。小笠原次郎殿、北陸道へ向はせ給へ」。「長清は、山道の悪所に懸て馳上候つる間、関太良にて馬共乗疲らかし、肩・背・膝かけ、爪かゝせて候、又大炊渡にて若党共手負て候へば、(無勢旁以て)叶はじ」と申ければ、武蔵守、「只向はせ給へ、勢を付進らせん」とて、千葉介殿・筑後太郎左衛門尉・中沼五郎・伊吹七郎・是等を始て一万余騎被添ければ、小関に懸りて伊吹山の腰を過、湖の頭を経て西近江、北陸道へぞ向ける。
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と、北条泰時が北陸道軍の進軍の遅れを懸念し、小笠原長清に北陸道軍への支援を命じますが、長清は馬が疲れている、大炊渡で若党の多数が負傷している、などと言って従おうとしません。
これも、長村氏の立場からは、小笠原長清が北陸道軍の支援などに行ってもたいした活躍はできそうもない、そんなところに行くよりは主戦場となりそうな宇治あたりで戦いたいと、「所領獲得の論理」で動いていることを示す典型事例になるのではないかと思いますが、長村氏の関心は惹かなかったようですね。
なお、泰時が小笠原長清ら一万余騎に北陸道軍の加勢を命じたことは『吾妻鏡』には出てきませんが、たとえ宇治川合戦に勝利したとしても、北陸道方面が京方の残存拠点となって、後鳥羽院が逃げ込むようなことになっては大変ですから、北陸道軍に加勢を送るのは戦争全体を俯瞰した合理的な判断であり、基本的には事実と考えて良いのではないかと思います。
ただ、「木内次郎」など千葉一族には宇治川合戦に参戦している人もおり、小笠原長清と「千葉介殿・筑後太郎左衛門尉・中沼五郎・伊吹七郎」の軍勢全てが北陸道軍の加勢に向かった訳ではなさそうです。

慈光寺本の合戦記事の信頼性評価(その17)─「紀内殿」と千葉一族の動向
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f2c27b807375b7be34d898ac8ccb40ee
慈光寺本の合戦記事の信頼性評価(その18)─千葉一族と宇治河合戦
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d0aa30e7ef06e8a4c8a2fbd7ba93eab9
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