学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学を研究しています。

流布本も読んでみる。(その84)─「浦/\によする白浪事問はんをきのことこそ聞まほしけれ」

2023-08-02 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
前回引用した部分の現代語訳です。

【私訳】さて、隠岐の法皇の第一皇子は中の院とも土御門院とも申された。
承元三年三月、御自身のお考えに反して譲位を余儀なくされたので、その御恨みは深いものであった。
従って関東も特段の沙汰には及ばず、そのまま都にいらっしゃった。
しかし、
「承元の昔の出来事の恨みは深いとはいえども、人界に生を受けた事は父母の恩である。
そうであるのに、父・後鳥羽院を配所に置き申し上げながら、御自身は都に安閑としているのは不孝の罪が深いであろう。自分も遠国にて暮そう」
と思われて、九条禅定殿下(道家)と右大将(西園寺)公経におっしゃったので、その旨を関東へお伝えになった。
左京権大夫(北条)義時以下の人々は、お気の毒とは思いながら、この上は止むをえないこととして、同十月十日、土佐の国への遷幸と定めた。
鷹司万里小路の御所より御出立となった。
御外戚の土御門大納言定通卿が参り、泣く泣くお送り申し上げた。
御供には少将定平・侍従貞元・女房三人・医師一人が参ったが、御道中も哀れな御事が多かった。
須磨・明石の夜の波の音、高沙・尾上の暁の鹿の声、神無月十日余りの事であったので、木々の梢、野辺の叢は霜枯れの冬景色であったが、土御門院の御袖の上だけはまだ秋を残しているのか、涙の露が深かった。
讃岐の八嶋を御覧になれば安徳天皇の御事を思召しになり、松山を御覧になっては崇徳院の御事を思われて、何事につけても、今は孤独な御身の事を思召され、沈んだお気持ちになられるのは哀れなことであった。
こうして土佐国に御着きになったが、相応しいお住まいがないとの由で、阿波国へお移りになることとなったが、阿波と土佐の国境の中山で、突然、大雪が降り出し、前後の路も見分け難いほどとなった。
御輿かきも歩くことができず、身分の高い者も低い者も動きようがなく、御輿を置いたまま、どうなってしまうのかも分からない状況であった。
土御門院は御涙にむせばれていらっしゃったが、、
  浮世には…(現世でこんなつらい目にあうのは、そうなるべき前世の因縁なのであろう。
  だから泣くべきではないのに、そうした道理が分からないまま流れる私の涙よ。)
と詠まれた。
ここに召し使われていた番匠(大工)が一人いた。
容姿の美しい者であったので、「侍次郎」と名付けられていた。
その者が「御供をさせて下さい」と頻りに望み申し上げたが、「田舎なので造作をすることもないから、番匠はいらないだろう。都に留まれ」と仰せになられたが、どうしてもお供したいと申して付いてきていたのだが、その者が大工道具を持って木に上って、枯枝を伐り降ろし、御輿の前に積んで焼き、供奉の武土たちの前にも置いて焼いたので、下臈は皆安堵した。
土御門院も少しお気持ちが落ち着かれて、「番匠は大事であったな」と仰せになった。
降る雪もさほど積もらずに夜が明けたので、御送りの者たちも増え、御迎えの者たちも加わったので、道を踏み分けて阿波国へ御着きになられ、歌を詠まれた。
  浦/\に…(浦々に寄せる白浪に聞いてみよう。隠岐の父君の御様子はいったいどのよう
  であろうかと)

冒頭に「承元三年三月、御心ならず御位をすべらせ給しかば」とありますが、土御門院の譲位は正しくは承元四年(1210)十一月ですね。
土御門院の遷幸については『六代勝事記』に詳細な記事がありますが、流布本の記述は『六代勝事記』の記事とよく似ているので、『六代勝事記』を参照したようですね。
「角〔かく〕て土佐国に著せ給に、御栖居〔すまひ〕賤き由申せば、阿波国へ移らせ給程に」とあって、この書き方だと土佐に着いて間もなく阿波に移ったように見えますが、この点は史料によって違いがあります。
『吾妻鏡』貞応二年(1223)五月二十七日条には、

-------
土御門院自土佐国可有遷御于阿波国之間。伺候人数事尋承之。可注進之旨。被仰遣阿波守護小笠原弥太郎長経之許。四月廿日為御迎。已進人於土州訖之由。長経所言上也。【後略】

http://adumakagami.web.fc2.com/aduma26.0b-05.htm

とありますが、『百錬抄』には「承久三年閏十月十日奉遷土佐国、同廿四日奉遷阿波国」、『愚管抄』には「土御門院ハ其比スギテ、同年閏十月土佐国ヘ又被流刑給。其後同四年四月改元。五月比阿波国ヘウツラセ給フ由聞ユ」とあって、

(1)承久三年閏十月二十四日(『百錬抄』)
(2)貞応元年五月(『愚管抄』)
(3)貞応二年五月(『吾妻鏡』)

と三説が存在することになります。
まあ、(1)はいかにも不自然であり、(3)の『吾妻鏡』が一番信頼できそうに思われますが、流布本は大雪の様子を描いているので旧暦五月とは思えず、(1)説に立っているようです。
流布本は「番匠」の「侍次郎」などが登場してずいぶんと詳細ですが、創作の可能性が高そうですね。
渡邉裕美子氏「慈光寺本『承久記』の和歌─長歌贈答が語るもの─」の「『承久記』和歌一覧」によれば、土御門院の和歌二首のうち、「浮世にはかゝれとてこそ生れけめ理りしらぬ我涙かな」は『土御門院御集』等、諸史料に出ていて土御門院作であることが確実です。
しかし、「浦/\によする白浪事問はんをきのことこそ聞まほしけれ」は「他出ナシ」とのことで、流布本作者の創作の可能性はありますね。
なお、『増鏡』には、

-------
 中の院は初めよりしろしめさぬ事なれば、東にもとがめ申さねど、父の院はるかに移らせ給ひぬるに、のどかにて都にてあらんこと、いと恐れありと思されて、御心もて、その年閏十月十日土佐国の幡多といふ所に渡らせ給ひぬ。去年の二月ばかりにや若宮いでき給へり。承明門院の御兄に通宗の宰相中将とて、若くて失せ給ひし人の女の御腹なり。やがてかの宰相の弟に、通方といふ人の家にとどめ奉り給ひて、近くさぶらひける北面の下臈一人、召次などばかりぞ、御供仕うまつりける。いとあやしき御手輿にて下らせ給ふ。道すがら雪かきくらし、風吹きあれ、吹雪して来しかた行く先も見えず、いとたへがたきに、御袖もいたく氷りてわりなきこと多かるに、

  うき世にはかかれとてこそ生まれけめことわり知らぬわが涙かな

せめて近き程にと東より奏したりければ、後には阿波の国に移らせ給ひにき。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8111effe1a7eac3ee2ee79a29d92cb46

とあって、「道すがら雪かきくらし、風吹きあれ、吹雪して来しかた行く先も見えず、いとたへがたきに、御袖もいたく氷りてわりなきこと多かるに」という描写は流布本を参照しているように思えます。
ただ、土佐への道中の話に変えていますね。
また、土佐から阿波への移転の理由は「せめて近き程にと東より奏したりければ」としていますね。
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