学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学を研究しています。

もしも三浦光村が慈光寺本を読んだなら(その40)─「娑婆世界ハ無常ノ所ナリ。如何有ベキ、武田殿」

2023-05-01 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

京方の山田重忠が放った「井綱権八・下藤五」と、幕府側の「山道遠江井介」なる者が放った「中源次・中六」という二組の密偵(警固見)が「牛尾堤」という場所で偶然出会い、幕府側の密偵が京側の密偵の頓智に騙されてあっさり捕縛され、山田重忠の許に連行された、というコミカルな密偵エピソードは果たして事実の記録なのか。
戦場なので様々なハプニングは起きるでしょうが、この話はあまりに作り過ぎている感じがします。
流布本にも奇妙なエピソードはありますが、そんなこともあり得るかな、と思わせる範囲に止まっているのに対し、慈光寺本は話を作り過ぎる傾向が強いですね。
ま、それはともかく、続きです。(岩波新大系、p340)

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 去程ニ、海道ノ先陣相模守ハ、橋下ノ宿ヲ立テ、参河国矢作・八橋・垂見・江崎ヲ打過テ、尾張ノ熱田ノ宮ヘゾ参リ給フ。上差〔うはざし〕抜テ進〔まゐら〕セテ、其夜ハ赤池ノ宿ニゾ著〔つき〕給フ。明日、尾張ノ一ノ宮ノ外〔そと〕ノ郷ニ打立テ、軍〔いくさ〕ノ手駄〔てだて〕セラレケリ。「今度ノミチノ固〔かため〕ハ、上﨟次第ゾ、大豆渡〔まめど〕ヲバ武蔵守、高桑ヲバ天野左衛門、大井戸・河合〔かはひ〕ヲバ」、武田・小笠原ハ美濃国東大寺ニコソ著〔つき〕ニケレ。此両人ノ給フ事、「娑婆世界ハ無常ノ所ナリ。如何有ベキ、武田殿」。武田、返事セラレケルハ、「ヤ給ヘ、小笠原殿。本ノ儀ゾカシ。鎌倉勝〔かた〕バ鎌倉ニ付ナンズ。京方勝バ京方ニ付ナンズ。弓箭取身ノ習〔ならひ〕ゾカシ、小笠原殿」トゾ申サレケル。
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東海道の先陣、「相模守」北条時房は、橋本宿を出て三河国の矢作・八橋・垂見・江崎を過ぎ、熱田の宮へ参詣して「上差」を奉納し、その夜、赤池の宿に着いた。
翌日、尾張の一宮(真清田社)の「外ノ郷」で軍議を行なった、というところまでは、地名の一部に不詳のところがあることを除き、理解できるのですが、その後が分かりにくく、どうも欠落があるようです。
軍勢の配置については「上﨟次第ゾ」とあり、久保田淳氏は脚注で「身分の高い者の順だぞ、の意か」とされますが、それで意味が通じるのか。
そして、「大豆渡〔まめど〕ヲバ武蔵守、高桑ヲバ天野左衛門、大井戸・河合〔かはひ〕ヲバ」の後、武田・小笠原の話になってしまいますが、武田・小笠原は東山道軍の大将なので、北条時房が配置を決定できるはずもありません。
地名の「高桑」は不明、大井戸(大炊渡)の近くらしい「河合」も不明で、どうにも謎だらけですが、『吾妻鏡』承久三年六月三日・五日条に登場する主要地名(大井戸渡・鵜沼渡・池瀬・摩免戸・食ノ渡・洲俣)と比較してもあまりに数が少ないので、何らかの欠落を想定せざるを得なくなります。
武田・小笠原が布陣したという「美濃国東大寺」もよく分らず、久保田氏は脚注で「東大寺領の大井庄をさすか。美濃国安八郡」とされますが、ここは岐阜県大垣市近辺ですから、大井戸からは西に大きく離れており、戦端が開かれる前に武田・小笠原軍が布陣していたはずはありません。
とにかく出鱈目としか思えない地名が続いた後、慈光寺本の中では比較的有名な武田・小笠原の密談エピソードとなります。
即ち、小笠原長清が「娑婆世界は無常の所ですなあ。どうされますかな、武田殿」と意味深長な問いかけをすると、武田信光は「いや、小笠原殿。弓矢取る身の習いとして、鎌倉が勝てそうならば鎌倉に付き、京方が勝てそうならば京方に付く、というのが本音ですかな」と答えます。
なお、久保田氏は「娑婆世界は」云々について「現世は無常な場所だから、ここで討死するかもしれないが、この戦いは死ぬべき場合だろうかという気持ちで尋ねたか」とされ、また、「本ノ儀ゾカシ」について「大事なことですよ、の意か」とされますが、いずれも上品過ぎる解釈のように思われます。
さて、続きです。

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 去程ニ、相模守ハ御文カキ、「武田・小笠原殿。大井戸・河合渡賜〔わたしたま〕ヒツルモノナラバ、美濃・尾張・甲斐・信濃・常陸・下野六箇国ヲ奉ラン」ト書テ、飛脚ヲゾ付給フ。彼両人是ヲ見テ、「サラバ渡セ」トテ、武田ハ河合ヲ渡シ、小笠原ハ大井戸ヲ渡シケリ。
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段落の途中ですが、いったんここで切ります。
まるで武田・小笠原の密談を聞いていたかのようなタイミングで、「相模守」北条時房は二人に手紙を送り、そこには、もしも大井戸・河合を渡って下さったのなら、美濃・尾張・甲斐・信濃・常陸・下野六箇国を差し上げましょう、と書いてあったのだそうです。
そして、飛脚から時房の手紙を受け取った武田・小笠原は、「では渡ろう」ということで、武田は河合を、小笠原は大井戸を渡ったのだそうです。
果たしてこれは事実の記録なのか。
ちなみに流布本では、武田・小笠原は時房によって目の前にぶら下げられたニンジンのために渡河を行なった訳ではなく、

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 市原に陣を取時に、武田・小笠原両人が許〔もと〕へ、院宣の御使三人迄〔まで〕被下たりけり。京方へ参〔まゐれ〕と也。小笠原次郎、武田が方へ使者を立て、「如何が御計ひ候ぞ。長清、此使切んとこそ存候へ」。「信光も左様存候へ」とて、三人が中二人は切て、一人は「此様を申せ」とて追出けり。
 武田五郎、子共の中に憑〔たのみ〕たりける小五郎を招て、「軍の習ひ親子をも不顧、増て一門・他人は不及申、一人抜出て前〔さき〕を懸〔かけ〕、我高名せんと思ふが習なり。汝、小笠原の人共に不被知して抜出て、大炊の渡の先陣をせよと思は如何に」。「誰も左社〔さこそ〕存候へ」とて、一二町抜出て、野を分る様にて、其勢廿騎計河縁〔ふち〕へぞ進ける。武田小五郎が郎等、武藤新五郎と云者あり。童名〔わらはな〕荒武者とぞ申ける。勝〔すぐ〕れたる水練の達者也。是を呼で、「大炊の渡(の)瀬踏〔せぶみ〕して、敵の有様能〔よく〕見よ」とて指遣〔さしつかは〕す。新五郎、瀬踏しをほせて帰来て、「瀬踏こそ仕〔つかまつ〕て候へ。但〔ただし〕河の西方岸高して、輙〔たやす〕く馬をあつかひ難し。向の岸渡瀬七八段が程、菱を種〔うゑ〕流し、河中に乱株〔らんぐひ〕打、逆茂木〔さかもぎ〕引て流し懸、四五段が程菱抜捨て流しぬ。綱きり逆茂木切て、馬の上〔あげ〕所には誌〔しる〕しを立て(候)。其を守渡させ給へ」とぞ申ける。武田小五郎、先様に存知したりければ河の縁へ進む。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6872bfb97130022f99fc08b331d99495

という具合いに「院宣の御使三人」のうちの二人を切り捨てた後、互いに激烈な先陣争いを行ないます。
果たして慈光寺本と流布本のどちらが実際の武田信光・小笠原長清像に近いのか。
なお、武田信光・小笠原長清は同年の生まれで、承久合戦時にはともに六十歳であり、当時としては相当な高齢です。

武田信光(1162-1248)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E7%94%B0%E4%BF%A1%E5%85%89
小笠原長清(1162-1242)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%AC%A0%E5%8E%9F%E9%95%B7%E6%B8%85

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