風薫る道

Who never feels lonely at all under this endless sky...?

竹三郎さん

2022-06-21 23:50:34 | 歌舞伎

坂東竹三郎さんが、17日に亡くなられたそうです。
私が歌舞伎を本格的に観始めた2013年の夏、大阪の文楽劇場まで傘寿記念の自主公演『坂東竹三郎の会』を観に行って。そこで演じられた『東海道四谷怪談』のお岩さん。お岩さんは菊之助と玉三郎さんでも観ているけれど、竹三郎さんのお岩さんが一番情が感じられて好きだった。
幕が閉まった後のご挨拶で涙を流しながら「生きていてよかった」と、「東京も大阪もありません」と仰っていた竹三郎さん。
同時にインタビューでは「上方歌舞伎の火を消すまいとやってきた」とも仰っていました。
どちらも心からの言葉だったのだろうと思う。

 昭和24(1949)年5月四代目尾上菊次郎の弟子となり、大阪・中座『盛綱陣屋』の腰元で尾上笹太郎を名のり初舞台。昭和34(1959)年9月三代目坂東薪車と改名し名題昇進。昭和42(1967)年3月菊次郎の名前養子となり、朝日座『吉野川』の久我之助ほかで五代目坂東竹三郎を襲名。昭和53(1978)年上方舞の東山村流の二世家元となり、山村太鶴を名のる。
 関西に居を構える数少ない俳優の一人。『すし屋』のお米や『引窓』のお幸、『忠臣蔵六段目』のおかやなど、情愛深い母親役や『封印切』のおえん、『吉田屋』のおきさをはじめとする上方の花車方、さらにはスーパー歌舞伎II(セカンド)『ワンピース』(女医ベラドンナ)などの新作歌舞伎の舞台でも存在感を発揮した。

 自主公演「坂東竹三郎の会」では復活狂言にも取り組み、また、平成9(1997)年に開塾した「松竹・上方歌舞伎塾」の講師をつとめるなど、上方歌舞伎の振興と、後進の育成に注力した。
歌舞伎美人

思えば私が「上方歌舞伎」というものを意識したのは、あのときが最初だった気がする。
一昨年に藤十郎さん、昨年は秀太郎さん、そして今年竹三郎さんが亡くなられて、なんだか西の方を照らしていた歌舞伎の火が一気に消えてしまったような、そんな感覚がしてしまっています。

私、上方歌舞伎の空気って好きなんですよね。
自分が関東で生まれ育ったので、憧れもあるのかもしれないけど。
竹三郎さんは「関西に居を構える数少ない俳優のひとり」だったとのこと。秀太郎さんもそうだった。
関西に居を構える歌舞伎役者さんって、もう殆どいないのではなかろうか。西の成駒屋(成駒家)の壱太郎達も、松嶋屋の千之助君も、みんな東京生まれ。
その結果変わるのは、言葉だけじゃなく、それ以上に、役者が纏う空気なのではないのかな。
関西では歌舞伎の興行自体が殆ど行われないし、行われてもチケットの売れ行きは良くなくて(これは歌舞伎に限らず文楽やクラシック音楽など文化芸術全般における関西の傾向だけど)、それなら興行の多い東京に住む方が便利だし、仕方がないことなのかもしれないけれど…。でも、このまま上方の空気をもつ役者さんがいなくなっていってしまうのは、残念でならない。壱太郎は上方歌舞伎を本気で大切に思っているのなら、関西に住めばいいのになあ。関西で生まれ育っていないのだからなおさら、その空気の中に身を置くことには大きな意味があると思うの。、、、と思ったら、鴈治郎さんと壱太郎は関西にも家がある?という話も。それが本当なら、上方歌舞伎の未来のためにとても良いことだと思う。
藤十郎さん、秀太郎さん、竹三郎さん達が大切に大切に守ってこられた上方歌舞伎の火。このまま消えることなく継承されていってほしいと願ってやみません。

竹三郎さんのご冥福をお祈りします。
数々の心に残るお芝居を、本当にありがとうございました。
猿之助も仁左衛門さんも、寂しいだろうな…。

※竹三郎さんのご子息の岡崎泰正氏のブログより。泰正氏が観たという2013年の3回目の舞台は、私が観たのと同じもの(2日目の昼公演)。まさに書かれてあるとおりの見事な舞台でした。
訃報 父、坂東竹三郎が生きたミナミ

Comment    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« シャルル・デュトワ指揮 新... | TOP | 『ふるあめりかに袖はぬらさ... »

post a comment

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。