「そなたとこうしているとき、いつも自分の一生というものを感ずる。――季節には寒暖があるが、ひとの一生というのはどうなのだろう。わしの一生は、どうも寒かった。寒い風がずっと吹きつづけていて、いまも吹いている。一生吹いていくような気がする」
――蔵六はこの世を楽しむために生まれてきたのではなく、この世に追い使われるためにうまれてきたような一生で、なにやらそういう息せき切った感じを、寒いとかれはいっているのであろう。
蔵六がイネに言いたかったのは、自分の寒い一生のなかで、イネの存在というただ一点だけが暖気と暖色にみちているということを言いたかったのだが、それをぬけぬけという衒気は蔵六になく、あとは闇の中で沈黙しているだけであった。
「この船は、闇夜も進んでいるのだなぁ」
と、蔵六はふと別なことをいった。和船は夜間の航海ができない。蔵六のこのことばは、この世から自分がいなくなっても自分がこの時期に参加した文明が進みつづけてゆくという意味にも、とりようによってはとれた。
(司馬遼太郎『花神』)
司馬作品に共通してあるのは、人の一生を「寒い人生だから不幸」とか「幸福な一生だから意味があった」とか、そういう感情的な一面だけで決めつけない冷静さ、現実的なおおらかさだ。また、後世に貢献する何事かを成したかどうかもあまり関係はない。
物語は村田蔵六(のちの大村益次郎)が、長州の片田舎で町医者をする百姓の子として生まれ、大坂の緒方洪庵塾にて医学とオランダ語を学び、その知識を買われ宇和島藩上士、幕府教授、そして故郷の長州藩にて軍事総司令官となり、戊辰戦争の終息とともに非業の死をとげるまでを描いている。
大村益次郎というと華やかな人物の多い幕末の中では地味なタイプの主人公なので、読もうかどうか迷う方もいるかもしれませんが、司馬さんは彼を非常に合理的で無骨だが妙な面白みも感じさせる人物としてとても魅力的に描いています。
人が「お暑うございます」と挨拶すると「夏は暑いのがあたりまえです」と顔色を変えず返すような人物。
司馬さんはこういうタイプの人物を描かせると本当にうまい。
また、桂小五郎や高杉晋作も登場しますし、吉田松陰や久坂玄瑞などについても触れられているので、彼らのファンの方も十分に楽しめると思います。ぜひ『世に棲む日日』とあわせてどうぞ。
『花神』という題名ですが、魅力的な題名の多い司馬作品の中でも絶品だと思います。その意味はラスト数ページでさり気なく語られるのみですが、今まで読んできた長い物語が一気に蘇ってきてそして終息したような、なんとも爽やかでそして切ない気分にさせられて、ふと読む手を止めてしまいました。
ちなみにその最終章につけられたタイトルは「蒼天」。『花神』を含めた司馬作品全体に流れるこの澄んだ青空のイメージこそ、私が司馬作品に惹かれてやまない理由です。