善悪も正誤も軸すら世にはない。そのなかで残るものはなんだろうか。
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「僕には行きたいところがある。そこからもう、ぶれたくはないんだよ」
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「案じられることなんぞ無用だ。俺はなにひとつ満足にできねぇし、理由だって見つからねぇ。なぜここにいるかもよくわからねぇんだ」
どうせこうやって、誰も迷わねぇようなところで一生迷い続けるんだ、と思ったら、急に視界がぼやけてきた。
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「今までと同じようにやったらええんちゃいますか。利を見て動くなぞ、そんな器用なこと、ここにおる人たちにはでけへんでしょう。万全を尽くしたらあとは勝ち負け考えず、どーんと己のやり方を貫くゆうのもええもんでっせ。──鳥とか見てるとな、一日中あっちゃ行きこっちゃ行き餌をついばんどるでしょう。まあ麗しき生き物の姿やけどなぁ、たまに、お前ら生き延びるためだけに生きてんのんか、と思うわ。いい餌探して一生終えるんは、人間様にはキツイでっせ」
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「うまくいかんかったことを他人に押しつけるのは容易いんじゃが、わしはそれをするのが怖いんじゃ。そういうことを繰り返すと、他人の人生を生きとるような気にならんかのう。わしゃそれが一番怖い。理不尽だとしても自分の関わったことじゃ、受ければいいんじゃ。わしはしばらく、人を怖ぇと思うとった。それが一番苦しかったぞ。でもようやくそこから抜けられるような気がする。ぬしのお陰じゃ。信じねば開けんのじゃな。やはり、世は辻褄がおうておるぞよ」
(木内 昇 『地虫鳴く』)
敵・味方という括りで描かれることの多い伊東派と近藤派の対決を、両者の視点から同時に描いた斬新な作品。
物語は明治32年、史談会で阿部十郎が新選組時代を回顧する場面から始まる。この部分は実在の速記録からうまく引用しており(有名な文章なので読んでピンとくる方も多いはず)、これから始まる物語に現実味と厚みを与えている。
私はこの時点で阿部が主役の話と勘違いし、近藤派は出番がないのではと心配になったのだが、それは無用だった。この物語は誰が主役という描き方をしていない。伊東派、近藤派ともに多くの隊士が登場するが、その誰を悪者にすることなく、ただその時代を懸命に生きた者としてそれぞれの姿を見事に描いている。
善悪も正誤も軸すらない世の中で、人は何を信じて生きればいいのか。
この物語は問いかける。
保身だけを考えるのなら、得のある方に流れていればいい。
だが、人は生き延びるために生きてるわけではない。自分自身の「行きたい処」、自分自身の納得できる理由が必要なのだ。ときに命より大事なものが。
沖田は言う。
「どんどん変わってしまうんだね、世の中は。でもさ、やることがあるんだよね、それぞれに。その理由がさ。それがいつでも時流とまったく一緒だったら気味が悪い。その人の流れがあるからね」
そしてそれは、近藤派も伊東派も、会津も薩摩も長州も、そして現代に生きる私達も同じなのである。
この物語は阿部十郎で始まり阿部で終わるが、自分の信ずべきものを最後まで必死で摸索し続ける彼の姿はとりわけ印象深く心に残った。
読み終えた後、私の「行きたい処」はどこだろう?とふと考えこんでしまった。そして、混迷の時代を必死に生き抜いた彼らがとても愛おしく感じられた。
こういう時代の転換期を必死で生き、そして今はこの世にはいない人たちの姿を、その結果が既に出ている後世の目線から眺めるときにつきまとう不思議な切なさというのは、歴史小説ならではの醍醐味ですね。
新選組を描いた小説は多々あるけれど、イチオシの作品。